時速十六キロメートル
あの後、サリエさんと一緒に風気室を出ましてよ。お互いになんとなく無言です。
「あ、じゃあ。私、生徒会のお手伝いあるから……牛乳とタオルありがとう」
「まぁ、今からお仕事ですの? 忙しいのですね」
「うん、次の会計さんと書記さんさんが決まるまでだから。各学年の成績優秀な人がお手伝いしてるんだよ」
「まぁ、サリエさんは特待生ですものね。頑張ってくださいな。ごきげんよう」
「ふふふふ……ごきげんよう!」
そうして、サリエさんは四階へ、わたくしは二階へ。
「それにしても、わたくしサリエさんと仲良くなってしまって良いのかしら?」
風紀委員長との出会いは、まぁアレでしたけれど、ちゃんと果たして頂けてよ。でも、これではあまり接点ができたとは言えなくてよ? 生徒会の殿下やエミリオ先輩のように、頻繁に会うわけでもないでしょうし。やはり意地悪をして、もっとお二人が会うように仕向けなくては……。でも、サリエさんと、もっと仲良くなりたいですし……困りましてよ。
「時速八百メートルは楽勝ですわね……」
今現在、部活を終えてトレーニングルームにいますのよ。今日は、殿下もいないですし、数人の生徒さんたちがトレーニングしていますことよ。
ちなみに、ランマシンを使っているのはわたくしだけです。ふぅ、入学当初に比べると、歩くのもだいぶ楽になりましてよ。
「ここは、思い切って時速二キロメートルでどうかしら?」
ええ、仰らないでくださいませ。みなさんの半分の速度だということは、分かってましてよ。無理をすると膝に負担が掛かりますので……。あら、でも思っていたよりは楽ですわ。ここは思い切って三キロメートルでどうかしら?
「あら、マツリバヤシ侯爵令嬢ではなくて? ごきげんよう」
「あら、ごきげんよう」
わたくしが一生懸命歩いていると、女子生徒さんが通りすがりにご挨拶してくださいましてよ。わたくしをご存知の方のようですけれど、どなたなのかしら? 見たことはあるような気がするのですけれど。
ふぅ……三キロメートルも楽ではないですけれど、いけますことよ。ふぅ……。
「……ずいぶん頑張ってらっしゃるのね?」
「え、ええ」
ご挨拶してくださった女子生徒さんは、なぜか立ち止まってわたくしを見ていたようです。もしかして、応援してくださっているのかしら?
「ずいぶんお痩せになりましてよ、マツリバヤシ公爵令嬢」
「あら、痩せたの分かりまして? 嬉しいわ、ありがとうぞんじます」
ほほほ、嬉しいわ。どなたも何も仰らないので、痩せているのかどうか分かりませんでしたもの。ひょっとして痩せたと思い込んでいるだけで、全く痩せていないのかしら? なんて不安になってましたのよ。
「ええ、分かりましてよ。以前は、どちらに目があるのか分かりませんでしたもの。ほほほほ、今はちゃあんと分かりましてよ」
「ええ、本当に。目だけではなく鼻や口の場所もあやふやでしたわね。あまりのことに、わたくしも驚いてしまいましたのよ?」
「そうでしょうねぇ。それにしても、その程度でお痩せになったと喜べるなんて、羨ましいですわ」
あら、この方ずいぶんと発破のかけ方がお上手ですこと。やる気が満ち溢れてきましてよ。
「ええ、まだまだですわね。本当に……ご指摘ありがとうぞんじます」
「ほほほほ、ずいぶん余裕ですこと……。それとも、脂肪が脳にまで詰まって皮肉も嫌味も分からなくなったのかしら?」
あら、そうでしたの? 嫌味でしたの? 全く気付きませんでしたわ。それより、三キロメートルはきつくなってきましてよ。
「ふぅ……やはり時速三キロは速いですことよ」
「な、なんですの、さっきから……桜子の分際で! わたしのことを無視するなんて! 色気づいてダイエット? 殿下に気に入られようとしたって、いまさら無駄よ! 殿下との婚約破棄だって時間の問題だって、伯父様も諦めてらっしゃるのよ!」
まぁ、それは願ったりでしてよ。
「でも、殿下との婚約と、わたくしのダイエットは関係ありませんのよ。お分かり?」
「んまぁ! 生意気! 桜子のクセに……良いわ、そんなにダイエットしたいならお手伝いして差し上げてよ」
「な、なにを……あ、ちょっと、お止めになって! 勝手にスピードを変えないでくださいな!」
この方、何をしてくださいますの!? 時速十六キロメートル!?
「ほほほほ! 頑張ってお痩せなさいな。では、ごきげんよう!」
い、いやああああ! 足が縺れましてよ! スピード調節を……いけないわ! 手を離したら慣性の法則で……! ど、どなたか! どなたかコレを止めてくださいませ!
「ふぅ、ふぅ……ど、どなたか! これを止めて!」
ああ、今こちらを見たアナタ! これを、これを止めてくださいませ!
「……ずいぶん頑張ってるなぁ、あの子」
「ああ……? あれ、マツリバヤシじゃない?」
「ダイエットか? ずいぶん痩せたんじゃないか?」
アナタ達にも分かりまして? そうですのよ、わたくし痩せましたのよ! それは良いので、止めてくださいませんか!?
「久し振りに見るなぁ。マツリバヤシ」
「ああ、高等部に進学してから大人しくなったみたいだな、あの子」
今はそれはどうでも良くてよ、ふぅ、ふぅ、ふっ……見てないで、と、止めて……! 手が痛くなってきましてよ?
「ど、どなたか……これを、止めて、ふぅ、下さい、ませ!」
「なんだ? なにか言ってるぜ?」
「ずいぶん気合入ってるな……」
「ふぅ……これを、止めてくださいませ!」
みなさん、やっと、聞こえまして? わたくしの渾身の叫びが……魂の叫びが!
「ええ? 自分で速度調整もできないのか? 相変わらずバカだな」
「走れない速度に設定しないだろう、普通は」
「いや、マツリバヤシだからなぁ……なんか面白いな」
痛い! 痛いですわ、心が! そして、それ以上に手が痛いですわ! 笑っていないで止めてくださいませ!
あ、もう、ハンドルを握っていられな……きゃああああ! 慣性の法則が憎たらしいですわ!
「あ、吹き飛ばされたぞ……大丈夫か!?」
「すごい、綺麗に飛んで行ったなぁ……さすがだなぁ」
ふぅ、ふぅ、ふぅ……何を、感心してらっしゃるのかしら?
「ふぅ、ふぅ……それにしても、ふぅ……あまり、痛くありませんことよ」
「大丈夫ですか、マツリバヤシさん。間に合って良かった」
……あら、この感触は? どなたか受け止めてくださったのね、わたくしの巨体を。
「ふぅ、ふぅ……。ありがとう、ぞんじます……まぁ、数学の、赤井里先生? まぁ、本当にありがとうぞんじます」
「大丈夫ですか?」
「え、ええ。先生が受け止めてくださったので……先生は、お怪我なさいませんでして?」
むしろそちらが心配でしてよ? 見ていたみなさんが、あ然とするほど飛んだようですし。いいえ、根に持っているわけではなくてよ。
「ああ、大丈夫だよ。割と鍛えてるからね……それにしても、ずいぶん無茶なことをしてたね?」
「ま、まぁ……見てらしたの?」
先生は楽しそうに笑ってましてよ。酷いですわ、わたくしの無様な姿を見て笑うなんて。
「ごめんね、頑張ってたからつい見てしまったんですよ……ふふふふふ」
「それほど、おかしいですか?」
「いや、微笑ましいかな? それにしても、短期間でずいぶん痩せたみたいだけど、無茶なことしてない?」
「いいえ? 特には……そうですわね。普通に生活してましてよ?」
至って普通の生活でしてよ? 食事も三食きちんと頂いてますし。
「なら良いけど。あまり無茶なことはしないようにね」
「はい。ありがとうございました。では、ごきげんよう」
ふぅ、とりあえず怪我などしなくて良かったですわ。
「あ、そうだ。僕は、火曜日は大抵ここにいるから、何かアドバイスが必要なら遠慮なくおいで」
「は、はい!」
なんということでしょう。赤井里先生は火曜日はこちらにいらっしゃるのですね?
では、サリエさんを誘って、こちらへ来れば……ふふふふ。




