閑話 秋月父
うちには、娘が二人いる。
姉であるマルは僕と血の繋がりがあるのだが、妹の方―ールカは実をいえば妻の不貞で出来た子だ。ある日、泣きながら僕に謝る彼女を僕は許す事にした。
いや、許したつもりだけだったと今振り返ればそう思う。
相手が、僕の高校の時の後輩でなんとなく腐れ縁になっていた相手だと知った瞬間は、さすがに相手を殴って絶縁宣言したが……。昔から、僕が付き合っている相手を横取りしていく癖があったが、呆れるだけで怒らなかったせいだろうか。と、今更虚しくなった。
数年前のある日、妹の方のルカが突然、食卓に並んだものを食べたくないといい始めたことがあった。
ぼーっと、鏡を眺めては、がっかりしたように頭を下げる程度で他に感情の起伏らしいものがほとんどない子だった………これは、僕一人だけの評価だった事を後から知ることになるけど。
いや、「おとうさん、るか、きょうもないてたの」と姉であるマルがよく僕に妹の泣き癖を困ったようにどうすればいいのかと聞いてくることがあったが、僕は、子供特有のものだと判断していた。今思えば赤ん坊の頃は夜泣きも少ない子で、僕と目が合うとにっこりと満面の笑みしか浮かべない楽な子だったと認識していた、というより興味がわかずどうでもいいと考えていたのだ。
意思がはっきりし始めるとは姉であるマルに対し、時々おっかなびっくりと言う呈で話しかけていた様子は滑稽に見えたし、お前はそうするべきだろうとなんとなく心のどこかで思っていたのかもしれない。ルカを育てている認識はなかった。ただの小さな同居人程度だ。虐待もしていないのだから……と言い訳もしていたような気がする。
きちんと食事をさせている、服だって、その分の金はあるはずだ。可愛がるのはマルだけで良いとーーそんな冷酷な気持ちではなくただルカに本当に興味がなかった。それでもあの子は、僕には満面の笑顔だけを見せていた。
手のかからない子で、たまに思い出したように抱きついてくる。その時だけ頭を撫でてみると幸せそうに満面の笑みで僕を見上げた。が、それだけだった。
そんなルカの突然の我が儘に最初のうちは、子供だからと僕も妻も判断した。そして、僕は密かに驚いていた。ルカの我儘をそこで初めて見たのだから。
妻は、仕事も忙しい中、いろいろと工夫し食べさせようと努力はしていたのだが、がんとしておかずには手を付けず白いご飯だけを黙々と食べ続けるルカに途方に暮れていた。
僕は、それをマルの方の面倒を見て手伝っているつもりでいたしーー正直、ルカの我儘に関わりたくない。と心のどこかで思っていたのかもしれない。
しかし、ついに妻が子供にとっては夜も遅い時間に
「勝手にしなさい!!」
と、金を握らせ、外へ放り出したとき、僕はまだ小学生にもならない子供だからと妻を諌める事もせずに、ただ、その様子を見ていただけだった。
なぜ、こんなに娘に冷たい態度がとれたのかと今の自分がその場に居たら過去の自分の首を絞めてやりたいくらいだが過去に戻れる訳でもなく、今はただ、その時の事を後悔している。
ルカは自分が母親に外へ追い出されたことには一瞬だけ茫然とした様子だったが、すぐに何かを納得したように頷き、気を取り直した様子で敬礼のような形を取り、
「いってきます」
と言って出ていこうとした。
その姿に僕は、唖然としーー妻は震えた。
なんの疑問も持たないかのようにどこかへ行こうとする娘に僕たちは自分たちの行いを冷静に思い返す。
この子は、このまま帰らないつもりではないかと。
もしかして、すべてを理解していて疎外感を感じていたのかもしれない。よく、意味もなく泣いているときのある子だと聞いていたのに。
子供だからと勝手に思いこんでいたが、全てを知っていて悲しんでいたのかもしれない。小さな心を痛めていたのかもしれない。我が儘だって、愛されてるはずだと確認の為だったのかもしれないとーー。
僕は、ようやく、二人目の子供の気持ちを考えた。
暗い夜道を歩こうとする幼い娘の手を握ろうと一歩、足を踏み出そうとした瞬間、僕より先にルカの手を握った子がいた。
「ルカは、小さい子なの。おかあさんがたいへんなら私が、ルカのために食事を用意するから、だいじょうぶだから」
小学生になりたてのマルが、言葉足らずにも必死に妻に頼み込む姿に情けなさで胸が痛む。
本来なら僕が妻に寄り添い支えれば、こんな展開にはならなかった。
強い意志を持って妻を説得するマルといまいち状況がわかっていない様子のルカを抱き上げ、家の中に入れれば、こてんと、首を傾げてルカが僕に問いかけてきた。
「買いものしてこなくていいの?」
僕は苦笑しかできなかったがマルが、
「おうちにいなさい」
と、叱りつけるとこくんと頷いた。その様子に妻も僕も泣きそうになった。
次の日に宣言通りに妹の食事を自分でどうにかしていたマルと顔色をすっかり青白くしたルカが、
「わがまま、もういわない!!」
と僕と妻に謝った。そして、その日から目に見えてルカは、すっかりとお姉ちゃんが大好きな困ったさんになってしまった。
そして、この頃からマルがよく語っていた泣き癖を僕の前でもするようになった事にも驚いた。
本当に意味もなく静かに泣いている時もある。寂しそうに声を殺して泣く姿にマルが必死に「ここにいていいの」と抱きしめて慰める姿に僕と妻はそれを静かに見守るだけだった。なんとなく、僕達はそれをしてはいけないような、そんな罪悪感を感じていたからだ。
しかし、それとは違い声を上げて泣き叫ぶという姿も見せ始めた。
何が違いなのかと観察してみると、隣の空き地に不動産屋らしき人間が客らしき人間とともに現れた瞬間、火が点いたようにわんわん泣き叫ぶという行為をしている事に気づいた。
ルカはどうも隣の空き地を見に来る人間が来るたびに嫌がらせのように泣き叫び、いつもはしない癇に障るような泣き声を土地を購入しようとする人間が居なくなるまでしているようだ。
その客が帰るまで何時間でも泣き続ける声に説明を受けていた客は、空き地を買えば厄介な隣人が付いてくると判断し、ため息を落としながら帰って行くという光景を何度か見送った。
それを確認すると、ルカはけろっと泣き止んでいるのだ。態とだと判断し注意したが、ルカは首を傾げて不思議そうにするだけだった。
「あの人じゃないの」
誰が?と問えば首を傾げるだけで、また同じことを繰り返すだけだが、不思議と近所からの苦情はなかった。それについては妻が困ってるのと僕に愚痴った。ルカの問題を妻が僕に相談してくるのはこれが初めてだった。
「ルカちゃん、無くし物を発見したり探してる人を見つけるの得意みたいなの。やじ馬根性が凄くて、興味を持つとその相手をずっと観察しちゃうみたいで…」
正直ゾッとする話だった。
何かありそうな相手をじーっと観察し、その相手の悩みや問題ごとを勝手に解決しているらしい。まだ礼を言われる状況だから良いが恨まれたり厄介事に巻き込まれたらどうする気なんだ。
ついには、文句を言いに来た不動産屋の人間と売り手の人間にニヤーッと、よくぞ来てくれたと言わんばかりの捕食者の笑みを浮かべ、どこで仕入れたのかわからない相手の弱みと恩を売れそうな内容をにこにこと語りーー最終的にルカの意向で買い手を選んでいい事になっていた時は、娘に恐怖を感じた。
「だいじょうぶ。良い買い手を知ってるから!」
…………そういった瞬間のルカの自信の根拠がいまだにわからないが、妙に誇らしげだったのは覚えている。一仕事終えたようなそんな感じに見えた。
そして、ある日、僕が会社から帰る途中でルカと老人が例の空き地の前で何かを話しているのが見えた。
ルカの視線に合わせて何かを話している様子に最初は不審者かと足を速めたが、ルカが普段見せないような大人びた表情で彼の話にうんうんと頷いている姿に足を止め、見守っていたら不動産屋に渡されていた名刺をその老人ーーよくよく見れば品の良さが際立ち紳士に見えるーーに渡すと、彼はルカの頭を撫でて礼を言っている。
パーッと嬉しそうな笑みを浮かべたルカはーールカだった。
「不動産屋さんと売り手の人を待たせた分、イロをつけてあげてね」
「わかったよ」
ニコニコとまいどありーって、その姿を見た瞬間になんだろうこの形容し難い気持ちは。全身から力が抜けるような……。
とりあえずルカの将来が心配だ。
そうして、隣に家が建っていく工程を毎日毎日、嬉しそうに二階の窓から眺めたり、マルを巻き込んで大工の屈強そうなおじさんやお兄さんたちに差し入れを持って行く姿に呆れと同時にルカへの仕方ない子なんだというと感想に僕の中で嫌な感情を含まずに思えた頃に隣の家が完成した。
平日だった。
僕が仕事からの帰路で、例の家の明かりが点いていたのを確認したので隣に誰かが引っ越してきたのだと判断出来た。逸る気持ちを抑えきれずにどんな人間か聞くために帰宅した早々、娘たち二人を探すとルカがマルに泣きついていたのをリビングで見つけた。妻も帰っていたらしく泣いてるルカをマルに任せて夕飯の準備をしているようだ。
「うんめいなのにー」
納得いかない。出会いの甘さがないーっと嘆くルカと反対にマルは、ルカに抱きつかれて上機嫌な様子だ。……マルがシスコンになり始めている事にお父さん、ちょっと心配になる。
話を聞くと出会った早々、引っ越しの手伝いを無理に強行しようとしたルカは、お隣の少年に追い出されたらしいーーどう考えてもそれは、ルカが悪いので謝りに行こうと玄関を出て、すぐに顔色が悪く色白で儚げそうな少年が紙袋を持った手とは反対の手でインターホンを押す手前の姿が視界に入った。
どうやら僕が出てきたことに驚いて目を丸くしている。
しかし、すぐに気を取り直したのか、
「………引っ越し蕎麦です」
簡潔に目線を合わさず、今にも消え入りそうな声で彼は紙袋を差し出してきた。
それを受け取りながら、何故子供だけ?と疑問に感じ少年の目線まで屈んで聞いてみた。
「ご両親は?」
「……一人暮らしです」
言いづらそうに俯きながら、これ以上説明は無用とばかりに逃げるように、失礼します。とーー頭を下げて去ろうとする彼の肩を思わず掴んでしまった。
「夕飯は?」
「え………っと、母さんが一応今日の分のお弁当を……」
ぼそぼそと、所在なさげに俯いたまま喋る彼ににっこりと微笑む。あの立派な新築に一人暮らしってなんだとか、青白い顔で人の目を見ようともせず、怯えて避けている姿に色々聞きたかったがーー放っとけないのと放っておいたら、ルカが何をするのかわからない恐怖がある。
「今日は、娘が迷惑を掛けたみたいだから、お詫びにうちで食べないか」
その瞬間、パッと僕を見上げてきた彼の目が輝いたように見えた。
頬に少し赤みがかかったのを確認し、まさか、彼もルカに並々ならぬ興味がと心躍らせ夕食の場に誘うと彼が見ているのが、ルカではなくマルだということをその場で悟ることになった。
ルカがさぞかしがっかりしているだろうと、視線を送ればルカは期待に満ちた瞳でマルと藤堂鈴と名乗った彼を交互に見つめて、うっとりしている姿にーーお父さん、意味わかんないやこの子。としか感想が出なかった。
さて、お隣に男の子にしては、かわいらしい少年が引っ越してきてからはさらに奇行が目立つが、それすら愛おしいのだから僕もすっかり二人の娘の父親になれたのだろうか。
しかし、気になることがある。時々、僕の夢の中に現れる恨めしそうに憎らしそうにマルを見つめている少女はなんなのだろうか?
ただの夢だとしても何度も同じ夢をみれば気になる。
そして、その少女の面差しがルカに似ている事が酷く僕を不安させた。
少女は僕と妻には悲しげな眼差しを送りーーマルの事を暗く虚ろな眼で見つめる夢を何度も見る。
あの子はーー、
「お父さん大好き!!」
「うわっ」
にこーっと、微笑んで僕の腰に突進してくるイノシシのような娘に思考を中断され、僕はいたずらをしたルカを抱き上げる。
「こら、ルカ」
「お姉ちゃんもお母さんも大好き!!」
まるで僕の思考を読んだような言葉に苦笑したが、にこにこと無邪気に僕に笑いかけるルカ。
一度、抱き上げるのをやめると、不安そうに僕を見上げてくるのでそのままぎゅうぎゅうと抱きしめてみると擽ったそうに、でも、必死に小さな手でこの時間を逃さんとばかりに僕に抱きつき返してくるルカ。
その後、僕たちを見つけたマルと妻にずるい!!と抗議を受け、ルカを没収されてしまったので僕は苦笑しかできない。
だから………物凄く嫌だったが、そろそろ神取を許しても良いのかもしれない。と、顔を合わせて、ルカの選択肢を増やしたい。と思っているうちに勝手にルカに会いに来ていたらしい仕方ない後輩に連絡し、再会した早々、とりあえず腹パンしておいた。
僕は悪くない筈だ。




