命題 1
誰かが『私』の額を優しく拭っている。
きっと、『お兄ちゃん』だ。
『私』は不出来だと、常に比べられていたから。
具合が悪くなったり、悲しくなったりしたら、『お兄ちゃん』の部屋に逃げ込めば、困ったようなー…、それで、仕方ないなって笑いながらいつも受け入れてくれていたんだから。
目を開ければ、優しい暖色の瞳が、『私』を心配そうにー…、
「『お兄ちゃん』……」
手を伸ばしたら、その手を握り返してくれた。ああ、良かった。嫌な夢だったんだ。全部。
「秋月さん、起きたんだ」
秋月ルカは、思考停止した。
ここは何処でしょうか。慌てて上体を起こし辺りを確認する。ーー私の部屋だ。
じゃあ、目の前の人物は誰ですか。ーー片倉さんだ。学ラン姿の片倉さんだ。
えーと……、
「私、異性を部屋にいれるのには抵抗が…っ」
「『お兄ちゃん』だから、大丈夫でしょ。リンにだって許可を貰ったから」
ほら、寝てなさいって毛布をかけ直された。濡れタオルも絞って額に乗せられ、ひんやり。
ちらり、と時計を見れば3時半か。……お父さんとお母さんはいないとして、片倉さんがここにいるって事は、お姉ちゃんとリンは居そうだよね。
「マルさんは、文化祭の委員に捕まって帰ってきていないよ。リンは……、オレが居るなら別なことするって自宅に戻ったから」
お腹空いてない?って訊ねてきたので頭を振る。
「半日眠ったままみたいだから。……体育祭ではしゃぎすぎたんだね。今日は片づけだったし明日は振替休日だから、ゆっくり眠って」
クスクス笑う片倉さんに私は耳まで赤くなった。羞恥心だったけれど、体育祭ではしゃぎすぎたのが理由じゃない。
ーー私のあの自信過剰ぶりはなんだったのだろうかという後悔からだ。好奇心の赴くままにあっちへ行ったり、こっちへ行ったり、最終的に体調を心配してくれた人たちを無視して倒れるってーー、バカすぎる。
「……藤咲さんはなんか言ってませんでした……?」
絶対怒っている相手の確認をする。片倉さんは、質問の意味を測りかねたようだが、
「アオ?……えーと、ちょっといつも以上に作り笑いが素敵だったくらいで、そのうち『笑顔のお面』でも作ればいいって、俊平に言われてたくらいかな?」
それ、ちっともくらいじゃない。確実に怒っている。私への怒りが抑えられないくらいに。
「……愛川と俊平も後からお見舞いに来たいらしいけど、どうする?具合悪い?」
片倉さんが甲斐甲斐しくペットボトルにストローを入れて渡してくれた。……正直、居たたまれない。ーーセラ様とアディーにも合わせる顔がない。生前プラスαなのに自分の気持ちを制限できないなんて、何が『深託の子は感情制限下手だなー』だ。
このまま、ベッドで地団駄を踏みたいのに片倉さんが側にいるから出来ない。
ちらりと確認すると何か……紙を読んでるみたいだけど、なんだろ?
ジーッと見つめていたら、私の視線に気づいたらしくニコッと微笑まれた。
「楽譜に興味があるの?」
「楽譜?」
そういえば片倉さんもリンと同じ部活だった。えーと、室内楽部。藤咲さんもだった。
「文化祭で室内楽部の3年は弦四重奏を弾く予定だから、……リンだけ、独奏になったけど」
「……嫌がらなかったんですか?」
リンの性格上、皆との思い出を優先しそうなんだけど。
「ーー機嫌が最高に悪くなったよ。でも、留学……じゃなくて、学校休んでまで海外に学びに行く許可貰った手前、断りきれなくてね…」
あ、留学って言葉も禁句になるくらいやりあったのか。魔王モードも出ただろうにそれでも、折れない気骨のある顧問って誰だろ。
「片倉さんは何弾くんですか?」
「『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』。定番だから聴いてる方も飽きないんじゃないかって」
……どうしよう。聞いた手前、知らないって言えない。
「……秋月さんにクラシックを語っても無駄だって、リンから聞いてるから大丈夫だから。」
よしよしって、頭を撫でられた。リンめーっ。助かった!
「多分、聴いてみればわかるよ。ーー聴く?」
スクールバッグからイヤホンつき、MPを取りだし、どうぞ、渡される。ふむ、……ふーふーん?
「ふふふん?」
「秋月さん、音感がないなら鼻歌で表現しなくていいよ」
だから、鼻歌を止められた。そこまで不快だったか。
………あれ、でも、やっぱり、ゲームプレイの時にリンがクラシックに関わっているって設定はなかった。どうして?
それにリンが楽器ケースを持って学校に登校したことなんかなかったよー。
なのに、いま、知らないリンの話がされている。……練習してるところも見たことないぞ?
「リンが、ヴァイオリン持ってるところ見たことないです」
「ああ、基本的に学校に常備されてるものを使ってるからかな。リンのヴァイオリンって良い物らしくて、いたずらとかされたら困るから学校側でも持ってくるなって指導されてるから…」
「凄いんですか?」
「……リンの指の真似したら確実につるね」
苦笑された……。どうしよう。今更、一曲弾いてみてって頼んだら不審がられそうな気がする。しかし、MPにたくさん曲が入ってる。……あ、これは知ってる。
「良かったら貸すよ。興味もったら、リンに弾いて貰うといいと思うし。弾き手によって曲のイメージが変わったりして楽しいから」
うっかり、春に青い稲妻…と答えるところだった。危ない危ない。そして、何故、そんな単語が出てきたんだろう?
「片倉さんは、最近のお気に入りはあるんですか?」
「そうだね。……フォーレの『夢のあとに』かな?情感に訴える………秋月さん、話を振って置いて失敗したって顔しない」
「いえ、バッハとかモーツァルトとかだったらまだ話題に乗れたんですけど」
「……髪型の話とかしないよ」
片倉さんが呆れた。
「ほら、まだ熱があるんだから大人しくしなさい」
前髪を上げる片倉さんの手が、ぴくりっと止まる。あ、額の怪我を気にしてるのかな?
「かさぶたですよ?」
「うん、もう少ししたら髪を切りに行けるくらいになりそうだね」
安堵したような片倉さんに膝の事は黙っている。化膿してたんだよね。は、そうだ。髪を切りに行くといえば、光原さんにお礼に行かなければならない。私を抱き上げて運んでくれたのは、光原さんだし。
……『ルカ』って、呼ばれた。普通、人って咄嗟の場合って、自分がいつも呼んでいる方の名前で呼びそうだけど、倒れた私が反応しそうな名前で呼んだのか。それとも、何かあるのかも調べて、
「秋月さん。神光にいつ行く予定?」
「ふえ?」
なんで、ここで神光なんだろう?
「あの変な牧師の所に行くんでしょ。一人は危険だから一緒に行こうって思ってるんだけど、ーー迷惑かな?」
話しながらタオルを絞りなおす片倉さんの行動を眺めながら、冷汗が流れる。え、『欠落者』の話を聞きに行くのに片倉さんが同席?
片倉さんって、藤咲さんやリンの事どこまで知っているんだろう。悪魔とか天使の話題って、普通に話しても、大丈夫な人なの?
私が浮かない顔で、片倉さんを見つめていたのか片倉さんも顔を曇らせて「ごめん…」って。いえ、違うんです。お気持ちは大変嬉しいんですが、お断りの言葉も出せない私が悪いんです!!
「あ、あの、……」
でも、結構きわどい話題を片倉さんの前でしている気がする。セーフなのか。アウトなのか。……わからない。リン以上にわからない。
「迷惑ではないんですけど。ちょっと、話の内容が」
「ああ、話を聞かれたりするのが困るなら、外で待ってるから。アオとか、お父さんの仕事上、人に聞かれたくない話とか一緒に遊んでいる相手も見ずに話かけてくる人がいたりして、そういう時に一人でも時間潰す方法をちゃんと持ってるんだ。ただ、助けを求められたりした時に近くに居なくて、助けられなかったとかの後悔は嫌なんだ」
片倉さんの中で歌う牧師はどれだけ危険人物なんだろうか。それとも、私がまた無理をしないように?……歌う牧師には『夢』がどうとかって事も聞いたほうが良いよね。泉さんが私に対する認識を持ったのって、『夢』だと言っていたし。
そういえば、最近片倉さん、私を『ちみっこ』って呼ばないな。
じーっと、疑問に思って片倉さんを見つめたら、苦笑しながら、絞ったタオルで汗を拭ってくれる。そのまま、じーっと片倉さんを観察していると、私と目がばっちりと合うとどうしてか硬直している。
「秋月さん…、ちょっと」
「なんでしょう」
「そこまで見つめられるとさすがに、恥ずかしいんだけど」
私から手を放し、目線も私から外して伏し目がちにし、少し顔が赤いような………私にそれが伝染しても仕方ないよね。
なんか、照れる!!ーー藤咲さんなんか、きっと、こんな展開にならない。そもそも汗なんか拭いてくれる訳………どうして、ここで、藤咲さんなんだろ。こんなこと比べるとか両方に失礼だ。藤咲さんだって、うん。わかりにくい優しさを示してくれたじゃないか。倒れたのは、私が疑いすぎたせいだ。反省しないと。でも、きっと、また企むに違いない。
ーー気を付けなければ。
「?どうしたの」
「いえ、藤咲さんの事を思い出して」
そういえば、『るぅ』と『ふじさき』は、あ、私の机に鎮座している。この子たちの事も雑貨屋に聞きに言って来ないと。
多分、藤咲さんも悪魔さんも全部把握しているわけじゃないだろうし。うん、いざとなったら、リンの名前だって出して。その辺は強かにしていかないと。リンの口から直接情報を訊くのは怖いけど。なりふりなんか構っていたら、悪魔さんとは、交渉できない。
ココさんがルートから外れてかけてるんだ。頑張ろう。
私が、一人ファイトー、オー!!をしていたら、ぎしりって、ベッドが軋んだ。ん、どうしたんだってそちらを向いたら、片倉さんがベッドに腰かけてる。
しかも、距離が近い。む、これは、いけない。
「片倉さん、女性のベッドに許可なく座っちゃダメですよ」
きょとんってされた。だいたい、まだ私は異性を部屋にあげることに納得してないんだから。ベッドまで占領されたら、は、破廉恥すぎる!ピンクな妄想しちゃうじゃないか。
「でも、リンは平気でしょ?」
皆して、私がリンにどこまで許してるのか探るようなことするの止めてほしい。うん、確かにリンが、私の部屋に勝手に入ってもベッド占領してようが平気だ。……してるとこ見たことないけど。
「リンと片倉さんは違います」
怒りを表すためにぷくーって頬を膨らませたら、笑われた。
「ーーどう違うの?」
その言葉と同時に腕を引かれ、片倉さんの胸に引き寄せ抱き込まれた。ーー急になんだあ!?
あわあわと、がっちりと固定されてる中で暴れる。しかし、びくりともしない。ど、どうしたんだ。心臓の音ががっちり聞こえて、こっちまで煩くなってきた。
「ほら、逃げられないでしょ。秋月さん」
「ひゃい!!」
「リンもこれくらい出来るんだから。ーーあんまり、無防備なのもどうかと思うよ」
はーあって、ため息と一緒にあっさりと解放される。一体、どうしたんだ。スキンシップとしてはやりすぎだ。
「あと、今日、アオの名前だしすぎ」
ぷいっと、視線を外し、ベッドから腰を上げて、地面に座る片倉さん。…そんなに出したかな?
そのまま、気まずくて、沈黙していたら、突然の咳払いにびくりっと片倉さんと私が肩を震わせた。
リンが、開けたドアに寄りかかり、ハーンって顔してる。ノックが聞こえなかったぞ。
「片倉、僕の信頼を裏切るとは、いい度胸ですね。」
「あ、…ごめん…」
魔王様モードの冷たい目で、片倉さんを一瞥し、リンがそのまま私に視線を向ける。
「ルカ、神取さんがお見舞いに来たのですが、僕の判断で家に上げていいのかわからなかったので、伝言だけ預かりました。『明日、もし体調が良かったら、出かけないか』だそうです。返事は、おじさんにしてください。ーー達也、ちょっと出ろ」
なんだか、気まずげにリンの後ろを追って出ていく片倉さん。あんまり怒らないであげてほしい。むしろ、藤咲さんの方にもちくっと嫌味入れて置いてほしい。
しかし、下の名前で呼んでたな。珍しい。
しかし、神取か。どうしたんだろ。旅行のことかな?でも、まだ決まったわけじゃないんだっけ?ともかく、お父さんに相談しなきゃいけないか。




