序
「これって絶対変だと思うんだけど」
幼馴染のゆうに向かって、いづみが主張する。
「そうだね」
にっこりとほほえみがえしするゆうは、いづみとおなじ歳には見えないくらい大人びている。それもそのはず、ゆうは二年前に嫁いで、今ではこどもが一人いる。
幼馴染の結婚と出産とをいづみは誰よりも喜んだが、淋しさもあった。
一人だけ取り残されているような不安だった。
そう。
いづみも十七才。
この時代、こどもの一人や二人いても、なんらおかしくない年齢である。
なのに、いづみを育ててくれた祖父は、いづみに縁談の話を持ってはこない。
頑固だけれど、大好きな祖父だ。
刀鍛治として、この国の領主に、重用されている。
口さがない近所のひとたちが、『よっぽどの玉の輿を狙ってるのだろうよ』などとささやき交わすていどには、持ち込まれている縁談があることをいづみは知っていた。
目の前では、ゆうがまろやかな白い胸を出して、赤子に乳を与えている。
なぜだか胸がドキドキして、正視していられなかった。
「いいなぁ」
喉にからんだ声で、いづみが、つぶやいた。
「なにが?」
「ゆうの胸の半分くらいでもいいから大きくならないかなぁ」
いづみはぼやかずにはいられなかった。
自分の胸は、悲しくなるくらいぺったんこなのだ。
少しのふくらみすらない。
裕福な家の女性ということもあって、いづみは家からはあまり出ない。が、それでも、女性の胸は膨らむのが普通だということぐらい、知っている。
「これじゃ、こどももそだてられない」
そのひとことに、
「あっ。いづみちゃんったら、好きなひとができたのね」
ゆうの目がきらきらと輝いて、いづみに向けられた。
「だれ? わたしの知ってるひと?」
「いないって。ただ、さ、結婚してたっておかしくない歳なんだから」
「なんだ。おじいさままだ、いづみちゃんに縁談持ってこないの?」
「うん。このままだと、私、かんっぺきいきおくれだよね」
あーあと、頭の後ろで手を組み、いづみはそのまま板の間に寝転んだ。
「行儀悪い!」
静かになった部屋に、鍛冶場でいづみの祖父が刀を鍛えているのだろう音が聞こえてくる。
その時のいづみは、まだ、なにも知らなかった。
◇◇◆◇◇
阿賀国を見下ろす上見山には、魔物が棲んでいる。
遠い異国から日本に伝わった山水画めいた峨々(がが)たる峰々は毒を吐き羽をもつ蛇の住処だと、ひとびとは信じて恐れていた。
たくさんの蛇、うわばみが棲む山である。「上」を「見」ると書いて「じょうけん」と読むのは、当て字の読み間違いだ。むかしは、「うわばみの山」とそのものの呼びかたをしていたのが、いつしか「うわばみ」が「うわみ」へと変化し、「上」と「見」の字をあてた。あてた漢字のせいで、やがては「じょうけん」へと変遷したのだと、物知りの古老は昔語りのついでに語る。
上見山の主、鷹巳は、その日遠来の客を迎えていた。
「不機嫌そうですこと」
白皙の美貌の魔神と顔を合わせて微笑むのは、国をふたつ越えたところにある湖の女主である。
「退屈、なのかしら」
「あなたとおなじていどには」
「そうでしょうねぇ………。長く生きているということは、それだけ興味の対象が少なくなるということですもの」
「でも、あなたは先ごろ、興味を惹かれるものを見つけられたとか」
鷹巳の黄金の質感を持つ瞳が、月白の湖の主に向けられた。
青銀色のまなざしが、とろりとした色の鷹巳の瞳を受けて、ふふ……とやわらぐ。
「情報源は、どちらのおしゃべりスズメでしょう。見つけたら舌を抜いてやらなければ」
赤く染められたくちびるが紡ぐのは、やわらかな声音とは不釣合いに物騒な台詞だった。
「こわいですね」
冗談口だとわかっているからこその返しである。
「それで、ご用向きはなんなのです? その、興味を惹かれたものに関することなのでしょう」
「あら。つれないことを。少しは妬いてくださるかと思いましたのに」
「あなたと私の間で、なにを妬くことがあります」
「それもそうですわね」
ふたり、顔を合わせたまま、クスクスと笑いを交わす。
そのさまは、まるで仲のよい兄弟のようである。
ひとしきり笑い交わしたあと、
「実が欲しいのですけれど」
真摯な色を宿した、青銀の瞳が、鷹巳の瞳を覗き込んだ。
「……実ですか」
「ええ」
「しかたありませんね。あなたの頼みとあらば、聞かないというわけにもゆきませんから。でも、これは、秘中の秘ですよ。わかっているでしょう」
「ええ。ありがとう。わかっておりますわ」
「それで、あなたのお相手は、承知しているのでしょうね」
「もちろん」
「ひとを恋うとは、あなたも存外、物好きだったのですね」
「おっしゃいますこと。恋をするのに、ひとであるも、ひとでないも、そんなこと関係ないでしょう。……あなたにも。そう。遠からず、わかると思いますわ」
「それは、あなたお得意の、先見でしょうか?」
「ええ」
艶然と微笑んだ湖の主に、
「それでは、その時を楽しみに待つといたしましょう。それでは、これをどうぞ」
そう言って鷹巳が差し出したのは、一竿の簡素な釣竿である。
竿にまとわりついているきらきらと輝く透明な糸は、目的がわかった後、喋っている間に湖の主のいのちの穂をわずかにこそぎ、細く捩り合わせたものだ。
「そこの窓から糸を垂らせば、あなたのいのちの光につられて、仙木の花首が一輪だけ釣れるでしょう」
それを持ってこちらへおいでなさい―――と、鷹巳は告げ、薄物の帳の奥に姿を消した。
独り残された板敷きの高殿の赤い欄干にもたれて、湖の主は下を眺めやる。
魔神と呼ばれる存在にそんな症状はありえないが、高所恐怖症の人間なら眩暈を起こして吸い込まれそうな、はるかな高みに鷹巳の館はある。
峨々と連なる岩肌のはるかな下に、林冠を見晴かす。
わさりと繁った黒みを帯びた木の葉の重なり。ところどころにちかちか光りながら揺れているあれが、それでは仙木の花なのだろう。
逸る鼓動を鎮めつつ、湖の主は、己のいのちの穂からつくられた糸を林冠へと垂らした。
「よろしくて?」
「どうぞ」
湖の主の爪紅に彩られた白い手の中には、丸い椀状の花の形をした青い炎が揺れている。
「これでよろしい?」
差し出されたそれを受け取り、鷹巳が両手で包みこむ。
目を閉じた鷹巳につられるように、湖の主も自然と黙祷する。
薄物の帳に陽射しを遮られて薄暗い一角には、暫しの間、ひそとも音がたつことはなかった。
「どうぞ」
鷹巳の静かな声音に、湖の主が青銀の瞳を開いた。
鷹巳の手の中には、直径が一寸ほどの丸い実があった。
花首とおなじ青い色を宿した実は、今にも崩れそうに見えた。
恐る恐る手を伸ばす湖の主に、
「大丈夫ですよ。見場ほど脆いものではありませんから」
そう言って、ころりと湖の主の手の中に移し込んだ。
「これで……」
「ええ」
「これで、あのこはわたくしと共に生きてゆける」
「使い方は、わかりますね。からだに馴染むまで、どれくらいか、眠りつづけることになると思いますけど」
「ええ。いいの。よくわかっていてよ」
かすかに涙ぐんでいる湖の主に、
(そこまでひとを好きになれるものでしょうか)
などと思いつつ、
(ああ、もうじき私にもわかると言っていましたね)
湖の主の先見なら、それは疑うべくもないのだと、鷹巳は知っていた。