宵待草
宵待草
私の夫には、女が多いの。
ええ。
本当に多いのだわ。
けれども、こういうことを人様に話すのは、あまり好きではないのよ。だって、夫の悪口を言えば、結局は自分の恥を晒しているようなものですもの。
あの人が浮気をして、そのたびに私は泣いて、それでもあの人が帰ってくれば嬉しい。
そんな話を聞かされて、面白い人がいるかしら。
だから私は、ずっと黙っていたの。
誰にも言わずに、胸の中へしまっておいたわ。
けれど、どうしてかしら。
今夜は、少しばかり話してみたい気分なの。
あの人が帰ってくるまで、まだ時間がありますし。
それに、今夜は雨でしょう。
雨の夜というものは、どうにも昔のことを思い出してしまうのだわ。
私があの人と初めて会ったのは、まだ桜の季節だった。帝都の街には、人力車が行き交っていて、煉瓦造りの建物の窓には、夕方の光が赤く映っていた。私は母に連れられて、ある方のお宅へ伺っていたの。
そこで、あの人に会った。
第一印象は、あまり良くなかったわ。
だって、ずいぶんと馴れ馴れしい人だったもの。
初対面の私に向かって、
「あなた、退屈そうですね」
なんて言うのよ。失礼でしょう?
だから私は、
「あなたほどではありませんわ」
と言い返したの。
そうしたら、あの人は笑った。声を上げて、楽しそうに。
それが、私とあの人の始まりだったわ。
今思えば、あの時にもっと嫌っておけばよかったのね。そうしたら、こんなに苦しい思いをせずに済んだのでしょう。けれど、人というものは不思議なものだわ。嫌いな人ほど、気がつけば心の中へ入り込んでいる。
いつの間にか、あの人と会える日を楽しみにするようになっていたの。
あの人の好きな菓子を覚えて。
あの人の好きな煙草の銘柄を覚えて。
あの人が好む本まで読むようになった。
そして、とうとう私は、あの人と結婚したの。
結婚したばかりの頃は、それは幸せだったわ。
毎朝、目を覚ますと隣にあの人がいる。それだけで嬉しかった。
夫は朝が弱い人だったから、私が何度起こしても、
「あと五分だけ」
なんて言うの。
仕方がないから、私は布団を剥いでしまう。すると夫は、
「冷たい女だな」
と笑う。
私は、
「起きないあなたが悪いのでしょう」
と笑い返す。
そんな日々が、ずっと続くのだと思っていた。私は、本当にそう思っていたのよ。
まさか、あの人が私以外の女を好きになるなんて。
……いいえ。
今となっては、「好きになる」なんて言葉では足りないのかもしれないわね。
あの人は、女が好きなのだわ。それも、ひとりでは足りない人なの。
最初に気づいたのは、結婚して一年ほど経った頃だった。帰宅する時間が、少しずつ遅くなったの。
最初は仕事だと思っていたわ。あの人は仕事熱心な人だったもの。だから私は、
「お疲れでしょう」
と、お茶を淹れていた。
けれど、ある夜、夫の着物から知らない香水の匂いがした。
私は何も言わなかった。ただ、その着物を受け取っただけ。
夫は私の顔を見て、
「どうした?」
と訊くけど、私は、
「いいえ。何でもないわ」
と答えた。
その晩、私は眠れなかった。
隣では夫が眠っている。私は天井を見つめながら、
――きっと気のせいよ。
何度もそう思ったわ。
けれど、女というものは、こういう時だけ妙に勘が鋭いのね。
翌週。
夫はまた遅く帰ってきた。
その翌週も。さらにその翌週も。
私はとうとう訊いたの。
「あなた、最近お帰りが遅いわね」
すると夫は、
「ああ。仕事が忙しくてね」
と言った。
私は笑った。
「そう」
それ以上は何も言わなかった。
けれど、その日の夜。夫が眠ったあと、私はひとりで泣いた。声を出さずに、枕を濡らさないように、顔を横へ向けて。
泣いていることを知られたくなかったの。
…なぜかしらね。
私は妻なのだから、泣いたっていいはずなのに。
翌朝、夫は何も知らずに、
「おはよう」
と言った。
私は、
「おはようございます」
と返した。
そして、いつものように朝餉を出したわ。
それから、しばらくして、私は一通の手紙を見つけた。
夫の書斎。机の隅。封筒には、女の名前が書いてあった。それはそれは綺麗な字だったわ。私よりずっと綺麗だった。
私は開けなかった。
……いいえ。
正確には、一度は開けようとしたの。
けれど、指が震えてしまって。
結局、封筒を元の場所へ戻したわ。
その夜、夫が帰ってきた。
私はいつものように出迎えた。
「お帰りなさい」
「ただいま」
夫は笑って、私の頭を撫でた。
私は、その手を見上げた。
この手が好きだった。昔から、ずっと。
大きくて、少し節があって、冬になると冷たくて。
それでも、私の手を握る時だけは、いつも温かかった。
私は、その手を握り返した。そして思ったの。
――この人を嫌いになれたら、どれほど楽なのかしら。
翌日。
夫が出かけたあと、私はとうとう手紙を開いた。
そこには、「昨夜は楽しかった」と書いてあった。
それだけだった。たった、それだけ。
けれど私は、それだけで十分だったわ。
手紙を畳んで、膝の上へ置いた。
涙が落ちた。
ぽたり。
ぽたり。
紙の上へ落ちて、文字が少し滲んだ。
私はその手紙を燃やした。
火鉢の中へ入れて、灰になるまで、じっと見ていた。
その時、私は決心したの。
夫に訊こう。何も知らないふりをするのは、もうやめよう。
夜。
夫が帰ってきた。
私は食卓へ座ったまま、夫を待っていた。
「どうした?」
夫が訊いた。私は顔を上げた。
「あなた」
「何だ」
「私に、隠していることがおありでしょう」
夫は黙った。
その沈黙だけで、全部分かったわ。
私は笑った。
「……そう」
「違う」
「何が違うの?」
「お前が思っているようなことではない」
「では、どんなことなの?」
夫は答えなかった。
私は泣かなかった。
不思議なくらい、冷静だったわ。
「私、あなたのことが好きなの」
夫が顔を上げた。
「だから、嘘をつかれるのが一番嫌なのよ」
「女の方がいるなら、そう言ってちょうだい」
夫は俯いた。
長い沈黙のあと、
「……いる」
と言った。
胸の奥が、ずきんと痛んだ。それでも私は、
「そう」
とだけ答えた。
「何人?」
夫は答えなかった。
私は笑った。
「そんなにいるのね」
「すまない」
「謝らなくていいわ」
「……怒らないのか」
「怒っているわ」
私は微笑んだまま言う。
「怒っているし、悲しいし、悔しいわ」
そして、夫の顔を見た。
「でも、それでも好きなの」
言ってしまった。
言ってしまったのよ。
夫は何も言わなかった。ただ、私の手を握った。
私は、その手を振り払わなかった。
それがいけなかったのね。
きっと、そこで私は許してしまったのだわ。
その後も、夫は何度も浮気をした。
私は何度も泣いた。何度も怒った。
何度も、
「もう出て行ってください」
と言おうとした。
けれど、そのたびに夫が、
「悪かった」
と言う。
そして私の髪を撫でる。
私は、そのたびに負けた。
本当に、情けない妻でしょう?
…けれどね。
夫にも、優しいところはあるの。
私が風邪をひけば、一晩中そばにいてくれる。
私が好きだと言った菓子を、覚えていてくれる。
庭の椿が咲けば、
「お前が好きそうだと思って」
と言って、一輪だけ持ってくる。
そういうところを見ると、私は思ってしまうの。
――この人は、私を愛しているのだわ。
ただ、愛し方が下手なのね。
そう思ってしまう。
……本当に、馬鹿でしょう?
ある冬の夜。
夫が帰ってこなかった。
時計が一時を過ぎても。
二時を過ぎても。
三時になっても。
私はひとりで待っていた。
雪が降っていたわ。
窓の外が真っ白だった。
私は火鉢へ炭を足した。それから、夫の好きな酒を温めた。
帰ってきたら、きっと寒いでしょうから。
そして朝方、ようやく玄関の戸が開いた。
夫だった。私は立ち上がった。
夫は私を見ると、
「まだ起きていたのか」
と吃驚していたわ。
私は笑った。
「ええ」
「先に寝ていてよかったのに」
「そうね」
私は夫の外套を受け取った。
私は冷たいそれを火の近くへ掛けた。
そして、
「お酒、温めてあります」
と言った。
夫は少し驚いた顔をした。
「……ありがとう」
私はその顔を見ていた。この人を好きになった日のことを、ふと思い出した。
あの日も、こんなふうに笑っていたわ。
私は、その笑顔が好きだった。
今でも好きなの。
だから、もう仕方がないのだと思う。
私はこの人を愛してしまった。
それは、もうどうにもならないことなのだわ。
愛するということは、必ずしも幸せになることではないのでしょう。
時には、泣くことなのかもしれない。
待つことなのかもしれない。
許せないものを、どうしても嫌いになれないことなのかもしれない。
私は、夫のことを許しているわけではない。
今だって腹が立つ。
今だって悲しい。
夫が他の女と笑っているところを想像すれば、胸が痛むわ。
……それでも。
それでも、帰ってきてほしいと思ってしまう。
私のところへ。
どんなに遅くても。
どんなに傷つけられても。
最後には、この家へ帰ってきてほしいの。
それだけなのだわ。
私は、きっと死ぬまでこの人を好きなのでしょう。
もっと賢い女だったなら、とうに見切りをつけていたのかもしれない。
もっと強い女だったなら、荷物をまとめて家を出ていたのかもしれない。
けれど私は、そんなに強くないの。
ただ、この人が好きなの。
それだけなのよ。
……あら。
また雨が降ってきたわ。
今日は帰ってこないかもしれないわね。
それでも、灯りは消さないでおきましょう。
あの人は暗い道が嫌いだもの。帰ってきた時、家が真っ暗だったら寂しいでしょう?
私は、ここにいるわ。
あなたがどんな女の人と会っていても。
どんなところで笑っていても。
いつかあなたが疲れてしまった時には、帰っていらっしゃい。
私はきっと、怒るでしょう。
きっと泣くでしょう。
「遅いわ」と言って、あなたを困らせるでしょう。
それでも最後には、
「お帰りなさい」
と言ってしまうのだわ。
だって私は、あなたが好きなのですもの。
困ったことに。
どうしようもないほど、あなたが好きなの。
初めまして、桜乃です。
将来小説家になってみたいな〜という軽い気持ちで始めました。好きな文豪は太宰治です。ラノベ系よりも硬い文章が大好きです。
読んでくれた方はありがとうございます!これから頑張ります!




