↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

宵待草

作者: 桜乃
掲載日:2026/10/19

宵待草


私の夫には、女が多いの。

ええ。

本当に多いのだわ。

けれども、こういうことを人様に話すのは、あまり好きではないのよ。だって、夫の悪口を言えば、結局は自分の恥を晒しているようなものですもの。

あの人が浮気をして、そのたびに私は泣いて、それでもあの人が帰ってくれば嬉しい。

そんな話を聞かされて、面白い人がいるかしら。

だから私は、ずっと黙っていたの。

誰にも言わずに、胸の中へしまっておいたわ。

けれど、どうしてかしら。

今夜は、少しばかり話してみたい気分なの。

あの人が帰ってくるまで、まだ時間がありますし。

それに、今夜は雨でしょう。

雨の夜というものは、どうにも昔のことを思い出してしまうのだわ。

 

私があの人と初めて会ったのは、まだ桜の季節だった。帝都の街には、人力車が行き交っていて、煉瓦造りの建物の窓には、夕方の光が赤く映っていた。私は母に連れられて、ある方のお宅へ伺っていたの。

 そこで、あの人に会った。

第一印象は、あまり良くなかったわ。

だって、ずいぶんと馴れ馴れしい人だったもの。

初対面の私に向かって、

「あなた、退屈そうですね」

なんて言うのよ。失礼でしょう?

だから私は、

「あなたほどではありませんわ」

と言い返したの。

そうしたら、あの人は笑った。声を上げて、楽しそうに。

それが、私とあの人の始まりだったわ。

今思えば、あの時にもっと嫌っておけばよかったのね。そうしたら、こんなに苦しい思いをせずに済んだのでしょう。けれど、人というものは不思議なものだわ。嫌いな人ほど、気がつけば心の中へ入り込んでいる。

 いつの間にか、あの人と会える日を楽しみにするようになっていたの。

 あの人の好きな菓子を覚えて。

 あの人の好きな煙草の銘柄を覚えて。

 あの人が好む本まで読むようになった。

そして、とうとう私は、あの人と結婚したの。

結婚したばかりの頃は、それは幸せだったわ。

 毎朝、目を覚ますと隣にあの人がいる。それだけで嬉しかった。

夫は朝が弱い人だったから、私が何度起こしても、

「あと五分だけ」

なんて言うの。

仕方がないから、私は布団を剥いでしまう。すると夫は、

「冷たい女だな」

と笑う。

私は、

「起きないあなたが悪いのでしょう」

と笑い返す。

そんな日々が、ずっと続くのだと思っていた。私は、本当にそう思っていたのよ。


まさか、あの人が私以外の女を好きになるなんて。

……いいえ。

今となっては、「好きになる」なんて言葉では足りないのかもしれないわね。

あの人は、女が好きなのだわ。それも、ひとりでは足りない人なの。

 最初に気づいたのは、結婚して一年ほど経った頃だった。帰宅する時間が、少しずつ遅くなったの。

最初は仕事だと思っていたわ。あの人は仕事熱心な人だったもの。だから私は、

「お疲れでしょう」

 と、お茶を淹れていた。

けれど、ある夜、夫の着物から知らない香水の匂いがした。

私は何も言わなかった。ただ、その着物を受け取っただけ。

夫は私の顔を見て、

「どうした?」

と訊くけど、私は、

「いいえ。何でもないわ」

 と答えた。

 

その晩、私は眠れなかった。

隣では夫が眠っている。私は天井を見つめながら、

――きっと気のせいよ。

何度もそう思ったわ。

けれど、女というものは、こういう時だけ妙に勘が鋭いのね。

翌週。

夫はまた遅く帰ってきた。

その翌週も。さらにその翌週も。

私はとうとう訊いたの。

「あなた、最近お帰りが遅いわね」

すると夫は、

「ああ。仕事が忙しくてね」

と言った。

私は笑った。

「そう」

それ以上は何も言わなかった。

けれど、その日の夜。夫が眠ったあと、私はひとりで泣いた。声を出さずに、枕を濡らさないように、顔を横へ向けて。

泣いていることを知られたくなかったの。

…なぜかしらね。

私は妻なのだから、泣いたっていいはずなのに。


翌朝、夫は何も知らずに、

「おはよう」

と言った。

私は、

「おはようございます」

と返した。

そして、いつものように朝餉を出したわ。

それから、しばらくして、私は一通の手紙を見つけた。

夫の書斎。机の隅。封筒には、女の名前が書いてあった。それはそれは綺麗な字だったわ。私よりずっと綺麗だった。

私は開けなかった。

……いいえ。

正確には、一度は開けようとしたの。

けれど、指が震えてしまって。

結局、封筒を元の場所へ戻したわ。


その夜、夫が帰ってきた。

私はいつものように出迎えた。

「お帰りなさい」

「ただいま」

夫は笑って、私の頭を撫でた。

私は、その手を見上げた。

この手が好きだった。昔から、ずっと。

大きくて、少し節があって、冬になると冷たくて。

それでも、私の手を握る時だけは、いつも温かかった。

私は、その手を握り返した。そして思ったの。

――この人を嫌いになれたら、どれほど楽なのかしら。

 

翌日。

夫が出かけたあと、私はとうとう手紙を開いた。

そこには、「昨夜は楽しかった」と書いてあった。

それだけだった。たった、それだけ。

けれど私は、それだけで十分だったわ。

手紙を畳んで、膝の上へ置いた。

涙が落ちた。

ぽたり。

ぽたり。

紙の上へ落ちて、文字が少し滲んだ。

 

私はその手紙を燃やした。

火鉢の中へ入れて、灰になるまで、じっと見ていた。

その時、私は決心したの。

夫に訊こう。何も知らないふりをするのは、もうやめよう。

 

夜。

夫が帰ってきた。

私は食卓へ座ったまま、夫を待っていた。

「どうした?」

夫が訊いた。私は顔を上げた。

「あなた」

「何だ」

「私に、隠していることがおありでしょう」

夫は黙った。

その沈黙だけで、全部分かったわ。

私は笑った。

「……そう」

「違う」

「何が違うの?」

「お前が思っているようなことではない」

「では、どんなことなの?」

夫は答えなかった。

私は泣かなかった。

不思議なくらい、冷静だったわ。

「私、あなたのことが好きなの」

夫が顔を上げた。

「だから、嘘をつかれるのが一番嫌なのよ」

「女の方がいるなら、そう言ってちょうだい」

夫は俯いた。

長い沈黙のあと、

「……いる」

と言った。

胸の奥が、ずきんと痛んだ。それでも私は、

「そう」

とだけ答えた。

「何人?」

夫は答えなかった。

私は笑った。

「そんなにいるのね」

「すまない」

「謝らなくていいわ」

「……怒らないのか」

「怒っているわ」

私は微笑んだまま言う。

「怒っているし、悲しいし、悔しいわ」

そして、夫の顔を見た。

「でも、それでも好きなの」

言ってしまった。

言ってしまったのよ。

夫は何も言わなかった。ただ、私の手を握った。

私は、その手を振り払わなかった。

それがいけなかったのね。

きっと、そこで私は許してしまったのだわ。


その後も、夫は何度も浮気をした。

私は何度も泣いた。何度も怒った。

何度も、

「もう出て行ってください」

と言おうとした。

けれど、そのたびに夫が、

「悪かった」

と言う。

そして私の髪を撫でる。

私は、そのたびに負けた。

本当に、情けない妻でしょう?

…けれどね。

夫にも、優しいところはあるの。

私が風邪をひけば、一晩中そばにいてくれる。

私が好きだと言った菓子を、覚えていてくれる。

庭の椿が咲けば、

「お前が好きそうだと思って」

と言って、一輪だけ持ってくる。

そういうところを見ると、私は思ってしまうの。

――この人は、私を愛しているのだわ。

ただ、愛し方が下手なのね。

そう思ってしまう。

……本当に、馬鹿でしょう?

 

ある冬の夜。

夫が帰ってこなかった。

時計が一時を過ぎても。

二時を過ぎても。

三時になっても。

 私はひとりで待っていた。

雪が降っていたわ。

窓の外が真っ白だった。

私は火鉢へ炭を足した。それから、夫の好きな酒を温めた。

帰ってきたら、きっと寒いでしょうから。

そして朝方、ようやく玄関の戸が開いた。

夫だった。私は立ち上がった。

夫は私を見ると、

「まだ起きていたのか」

と吃驚していたわ。

私は笑った。

「ええ」

「先に寝ていてよかったのに」

「そうね」

私は夫の外套を受け取った。

私は冷たいそれを火の近くへ掛けた。

そして、

「お酒、温めてあります」

と言った。

夫は少し驚いた顔をした。

「……ありがとう」

私はその顔を見ていた。この人を好きになった日のことを、ふと思い出した。

 あの日も、こんなふうに笑っていたわ。

私は、その笑顔が好きだった。

今でも好きなの。

だから、もう仕方がないのだと思う。

私はこの人を愛してしまった。

それは、もうどうにもならないことなのだわ。

愛するということは、必ずしも幸せになることではないのでしょう。

時には、泣くことなのかもしれない。

待つことなのかもしれない。

許せないものを、どうしても嫌いになれないことなのかもしれない。

 私は、夫のことを許しているわけではない。

今だって腹が立つ。

今だって悲しい。

 夫が他の女と笑っているところを想像すれば、胸が痛むわ。

……それでも。

それでも、帰ってきてほしいと思ってしまう。

私のところへ。

どんなに遅くても。

どんなに傷つけられても。

 最後には、この家へ帰ってきてほしいの。

それだけなのだわ。

私は、きっと死ぬまでこの人を好きなのでしょう。

もっと賢い女だったなら、とうに見切りをつけていたのかもしれない。

もっと強い女だったなら、荷物をまとめて家を出ていたのかもしれない。

けれど私は、そんなに強くないの。

ただ、この人が好きなの。

それだけなのよ。

 

……あら。

また雨が降ってきたわ。

今日は帰ってこないかもしれないわね。

それでも、灯りは消さないでおきましょう。

あの人は暗い道が嫌いだもの。帰ってきた時、家が真っ暗だったら寂しいでしょう?

私は、ここにいるわ。

あなたがどんな女の人と会っていても。

どんなところで笑っていても。

いつかあなたが疲れてしまった時には、帰っていらっしゃい。

私はきっと、怒るでしょう。

きっと泣くでしょう。

「遅いわ」と言って、あなたを困らせるでしょう。

それでも最後には、

「お帰りなさい」

と言ってしまうのだわ。

 

だって私は、あなたが好きなのですもの。

困ったことに。

どうしようもないほど、あなたが好きなの。

初めまして、桜乃です。

将来小説家になってみたいな〜という軽い気持ちで始めました。好きな文豪は太宰治です。ラノベ系よりも硬い文章が大好きです。

読んでくれた方はありがとうございます!これから頑張ります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。