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Dead Line ——境界の儀  作者: 一条信輝


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54話 揺らぎ

 夜が明ける前に、目が覚めた。


 社務所の畳。布団。秋の冷気が、襖の隙間から流れ込んでいる。陽太は身を起こした。畳の端に置いた箱が、薄く熱を保っている。マリアの祈りの残滓。手を伸ばすと、指先に、ぬるい温度が伝わった。


 男は壁にもたれて立っていた。眠っていない。英霊は眠らない。陽太と目が合うと、薄く笑った。


 「早いな」


 「……寒くて」


 答えながら、陽太は耳を澄ました。何かが、外にいる。


 男も気づいていた。すでに斧の柄に手をかけていた。陽太は紋に意識を集中した。橋道の紋が、手の甲で薄く熱を持つ。聖なる気配ではない。だが——魔術の気配。


 二人で社務所を出た。


 霧が立っていた。嵐山の朝の霧。境内の石畳が湿っている。十メートルほど先に、人影が三つ。黒いコート。覆面ではないが、顔がよく見えない距離。


 最前列の男が口を開いた。低い声。事務的な口調。


 「葛城様からの伝言だ」


 陽太は息を飲んだ。


 「瀬川 陽太、午後三時、相国寺。冬真様が直接お会いになる」


 短い。それだけだった。返事を待つ気配がない。陽太が口を開く前に、伝令は背を向けた。三人の人影が、霧の中に溶けていった。足音がしなかった。魔術で消したのか、それとも最初から実体ではなかったのか。陽太には、判別がつかなかった。


 男が斧を肩に担いだ。


 「面白くなってきたな」


 「……面白くない」


 陽太は答えた。声が掠れていた。寒さのせいか、別の何かのせいか、自分でも分からなかった。



      *



 社務所に戻った。


 陽太は畳に座って、箱を膝に乗せた。男は壁にもたれて、斧を立てかけた。


 葛城冬真。あの夜、陽太と男を完膚なきまでに叩きのめした男。アレクサンドロスの圧倒的な力に、男は初めて完全敗北した。綱が危険なほど細くなった。陽太が「まだ死ぬな」と叫んで、ようやく撤退できた。


 あの相手が、今、動いた。


 陽太は、考えようとした。


 あの夜以降、葛城は静観していた。何日も、動かなかった。陽太を見逃したのではなく——別の理由があったはずだ。陽太がクリスと戦闘を始めてから、葛城は一度も介入してこなかった。


 介入しないことを選んでいた。


 その葛城が、今、動いた。


 ——なんで、今。


 考えがそこで止まった。陽太は息を吐いた。寒い、と思った。社務所の中なのに、寒かった。


 可能性を、一つずつ並べてみる。


 弱った陽太を仕留めに来る——だが、それなら「会う」とは言わない。襲撃で済む。


 別の用件——何か。


 陽太には、見当がつかなかった。膝の上の箱が、薄く熱を持っていた。それだけが、確かなものだった。


 男が口を挟んだ。


 「行くのか」


 陽太は箱を見た。木の表面に、ぬるい熱。「橋道のマスターと英霊が、儀式の中心」——昨日読んだ手紙の言葉が、頭の中で響いた。


 「行かなきゃ、わからない」


 答えてから、陽太は自分の声に驚いた。即答だった。前なら、こんな答え方はしなかった。逃げることをまず考えた。


 男が薄く笑った。


 「お前、変わったな」


 「……そうかな」


 「ああ。前なら、まず逃げ道を探した」


 陽太は箱を撫でた。指先に、温度が伝わった。さっきより、少しだけ熱い気がした。


 覚悟ではない、と陽太は思った。覚悟ではない。流されている。だが——流されながらも、足が前に出ている。それだけだった。



      *



 午前のうちに、陽太は嵐山を出た。


 駅。電車。市街地へ。


 車内、陽太はリュックサックを膝に置いた。中に箱が入っている。男は実体化を解いていた。隣の乗客から見れば、陽太は一人で座っている。だが——肩のあたりに、薄く気配がある。


 窓の外、京都の街並みが流れた。秋。晴れている。観光客が多い。普通の日。


 陽太は箱を抱きしめていた。無意識に。気がつくと、両腕で抱えていた。


 駅。降りる。改札。階段。地上。秋の風。


 御所の方向へ歩いた。


 十一時。早い。指定は午後三時だ。三時間以上ある。だが陽太は、早く着きたかった。境内を歩き回って、地形を覚えておきたかった。葛城が何を仕掛けてくるか分からない。逃げ道を確認しておきたかった。


 肩のあたりに、男の気配があった。それだけが、足を前に出させていた。



      *



 相国寺に着いた。


 臨済宗の大本山。広い境内。塔頭がいくつも並んでいる。観光客はまばらだった。陽太は山門をくぐって、境内を歩いた。


 法堂。庫裏。塔頭の入り口。回廊。


 陽太は、回廊の角を曲がる場所を全て確認した。死角を確認した。逃げる経路を頭の中に描いた。男も同じことをしているはずだった。気配が、陽太の少し後ろを動いていた。


 時間が来た。


 陽太は、最も奥の塔頭の手前で立ち止まった。指定された場所——明示はされていないが、ここしかないと感じた。広場。回廊に囲まれている。観光客が入りにくい場所。


 リュックサックの中の箱が、冷えていた。


 朝、社務所で触れたときの熱が、嘘のように消えていた。マリアの祈りが、何かに反応して引いている。陽太は、それを背中で感じていた。


 影が動いた。


 回廊の柱の陰から、男が一人、出てきた。


 葛城 冬真。


 黒のスーツ。ネクタイ。三十代。冷たい目。陽太を見ても、表情を変えなかった。アレクサンドロスは——いない。気配がない。実体化していなかった。


 冬真は一人だった。


 武器も持っていない。


 陽太は身構えた。男の気配が、肩の後ろで濃くなった。斧を握っている。


 冬真が、口を開いた。


 「来たか」


 「……はい」


 声が掠れた。


 冬真は、陽太を見据えた。値踏みするような視線。あの夜、陽太を叩き潰した男の、変わらない冷たさ。


 「クリス・ヴァレンティンと、何があった」


 陽太は、息を止めた。


 葛城は知っている。一条戻橋での、昨日の出来事を。クリスとの間に、何かがあったことを。


 監視されていた。


 陽太は答えなかった。何を答えれば、何を隠せばいいのか、判断がつかなかった。


 冬真は陽太の沈黙を待った。沈黙が続いた。秋の風が、回廊を抜けていった。


 やがて、冬真が口を開いた。


 「クリスが、儀式から手を引く可能性を、私の調査員に漏らした」


 陽太は驚いた。クリスが、葛城の調査員に? それとも——調査員がクリスから情報を取ったのか。手段は、陽太には分からなかった。


 冬真が続けた。声は低く、感情を含まなかった。


 「クリスを、儀式から離脱させるな」


 陽太は、聞き返した。


 「なぜ」


 「儀式は、お前が思っているような単純なものではない。クリス・ヴァレンティンが離脱すれば、何かが崩れる。私の家系は、それを知っている」


 何かが崩れる。


 陽太は、冬真の目を見た。冷たい目。だが——その奥に、何かがあった。情報的優位の確信。葛城は知っている。陽太の知らない何かを。


 「何が崩れる」


 陽太は問うた。


 冬真は、わずかに口元を動かした。笑ったのではない。冷たい何か。


 「教える義理はない。だが、お前にも関わることだ」


 陽太は息を飲んだ。


 葛城は知っている。だが教えない。陽太には、それを引き出す手段がない。一度完敗している相手だ。脅して聞き出すことなど、できない。


 冬真が背を向けた。


 「クリスを引き止めろ。お前の役目だ」


 「なぜ俺に」


 「お前にしかできない」


 冬真は、振り向かずに言った。


 「クリスを動かしたのは、お前だ」


 冬真が、回廊の奥に歩いていった。アレクサンドロスを呼び出さなかった。戦闘にならなかった。あの夜、陽太を完膚なきまでに叩き潰した男が、今日は——戦わずに去った。


 陽太は、立ち尽くしていた。


 戦闘がなかった。だが、圧だけが残った。あの夜に味わった圧と、別種の圧。情報的優位という圧。


 男の気配が、肩の後ろで動いた。斧を下ろす音。


 「……行ったな」


 男が呟いた。


 「ああ」


 陽太は、長く息を吐いた。寒い、と思った。秋の昼の境内で、自分の体だけが冷えていた。



      *



 相国寺を出た。


 陽太は鴨川の方向に歩いた。男の気配が、肩のあたりに戻ってきた。実体化しなかったが、近くにいた。


 夕日が、鴨川の水面に落ちていた。秋の夕暮れ。観光客が川沿いを歩いている。普通の風景。だが陽太の頭の中は、普通ではなかった。


 マリアの遺言。「橋道は儀式の中心」「敵対せず共闘してください」。


 葛城の警告。「クリスを離脱させるな」「儀式の構造に関わる何かを、私の家系は知っている」。


 両方とも、結論が同じだった。


 クリスを、陽太の側に留める。


 だが——動機が、真逆だった。


 マリアは、信頼のため。橋道のマスターと英霊が信頼を結ぶことが、儀式の本来の姿だと。


 葛城は、儀式の構造のため。七陣営の何かが崩れることを、葛城は警戒していた。


 信頼と、構造。


 陽太は、立ち止まった。鴨川の水面が、夕日で赤く染まっていた。


 「……正しいことが、一つじゃない」


 呟きは、声に出すまで自分でも分からなかった。声に出してから、陽太は——その重さに気づいた。


 マリアも正しい。葛城も正しい。クリスも、たぶん正しい。それぞれが別の正しさで動いている。誰も、間違っていない。


 誰も間違っていない世界で、人が殺し合う。


 陽太は、息を吸った。秋の夜気が、肺に冷たかった。


 いつか、誰かが似た言葉を言った気がした。御影だったか、クリスだったか、自分自身の中で湧いた言葉だったか。記憶の輪郭が曖昧だった。何度も同じ場所に戻ってくる気がした。


 男が、短く言った。


 「正しさで動いてるのは、お前だけじゃないってことだ」


 陽太は、男を見た。男は前を見ていた。鴨川の水面を。


 「……だから、何が正しいか、選ばなきゃいけない」


 陽太の声が、自分でも意外なほど低かった。


 「ああ」


 男が、それだけ答えた。


 昨日、マリアの手紙の翻訳を聞いた瞬間、男の目はわずかに動いた。陽太はそれを見ていた。男は何も言わなかった。だが、何かを感じていた。男自身の四百年前の言葉が、今、陽太との関係として実現していることを。


 陽太は、男に手紙の内容を直接伝えていなかった。クリスの翻訳を二人で聞いただけだった。男に、向き合って、「お前のことだ」と告げる勇気が、陽太にはなかった。


 今日も、伝えなかった。


 いつか、伝える。だが——今日ではなかった。



      *



 夜になった。


 陽太は嵐山に戻る電車に乗った。男はまた実体化を解いていた。陽太は窓に頭をつけて、目を閉じた。疲れていた。戦闘していないのに、疲れていた。


 降車駅。ホームに降り立った。


 その瞬間、気配があった。


 陽太は目を開けた。


 葛城の気配ではない。あの冷たさではない。もっと——刃に近い気配。


 ホームの向こう側。下り線のホーム。人影。


 女。


 御影 凛花。


 陽太は息を止めた。


 二十代。きつめの目。遠くからでも分かる。彼女が、陽太を見ていた。武蔵の気配は——薄い。意図的に抑えている。実体化させない選択。陽太に、戦う気がないことを示すための。


 御影は、陽太の顔を見ていなかった。


 彼女の視線は——陽太の手元に落ちていた。


 リュックサックを背負った肩の、その下。陽太が両腕で抱えている、箱。


 御影は、箱を見ていた。


 陽太は気づいた。御影には、見えている。あの箱が普通の木箱ではないことが。マリアの祈りが宿っていることが。御影には分かっている。


 彼女は、口を開かなかった。


 ただ、ゆっくりと——指を一本、立てた。


 人差し指。唇の前。


 黙っていろ。


 あるいは——まだ、誰にも言うな。


 その意味が、陽太には咄嗟に分からなかった。だが、御影が陽太に何かを伝えに来たことだけは分かった。葛城のように姿を見せて圧をかけたのでもない。クリスのように対話を望んでいるのでもない。


 御影は、陽太の側に何かを置いていった。


 その瞬間、上り線の電車がホームに入ってきた。轟音。視界が遮られた。ホームに人が増えた。観光客。学生。会社員。


 電車が走り去った。


 ホームの向こう側を見た。


 御影は——いなかった。


 消えていた。


 陽太は、立ち尽くしていた。


 男の気配が、肩のあたりで濃くなった。


 「……御影、だったよな」


 陽太は呟いた。


 「ああ」


 「なんで、今」


 「さあな」


 男が短く言った。


 「だが、見てたな。お前を、じゃない」


 陽太は男を見た。


 「箱を、だ」


 陽太の背中で、箱が——再び熱を持った。御影が消えた瞬間に。冷えていたものが、戻ってきた。


 陽太は、ホームの向こう側を、もう一度見た。誰もいなかった。秋の夜。冷たい空気。電車が去った後の静けさ。


 葛城が動いた。御影も動いた。同じ日に。偶然なのか、それとも——。


 陽太には、判断がつかなかった。



      *



 深夜、嵐山に戻った。


 社務所。誰もいない。秋の冷気が、襖の隙間から流れ込んでいる。陽太は灯りをつけた。畳の上の埃が、薄く照らされた。


 「少し疲れた」


 誰に言ったのでもなかった。男が壁にもたれて立っていた。返事はなかった。


 陽太は畳に座った。箱を膝に乗せた。


 箱を撫でた。今は、ぬるい。早朝と同じ温度に戻っていた。


 明日、クリスとまた一条戻橋で会う。約束していた。


 葛城の言葉が、頭にあった。「離脱させるな」。


 マリアの遺言が、頭にあった。「共闘してください」。


 御影が立てた指が、頭にあった。黙っていろ——あるいは、まだ、誰にも言うな。


 全てが、陽太に向かっていた。


 陽太は、箱を抱えた。


 「……明日、どうすればいい」


 呟きは、男に向けたものではなかった。男も、すぐには答えなかった。


 長い沈黙の後、男が口を開いた。短く。


 「寝とけ。明日のことは、明日だ」


 陽太は、目を閉じた。


 箱の温度が、薄く、続いていた。

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