53話 箱
社務所に戻った陽太は、佐倉さんから受け取った箱を畳の上に置いた。
古い木箱。手のひらより少し大きい程度。重さは——軽い。中身が金属ではない。布か紙か、軽いものが入っている。表面に彫り物。アルファベットの文字が並んでいる。陽太には読めない。だが——マリア・ヴァレンティンの記録に近い系統の文字に見えた。クリスが持っていた手記の表紙にも、似た系統の文字があった。
男が斧を壁に立てかけて、箱を覗き込んだ。
「鍵はどうする」
「佐倉さんが言ってた『温度で開く』ってやつが、たぶん鍵だ。普通の鍵じゃない。何かの仕掛けがある」
箱を手に取った。表面を撫でる。木目に沿って指を動かす。何かのトリガーがあるはず。隠し穴とか、押すと動く板とか。だが——分からない。普通の木箱に見える。
紋を箱に近づけた。聖なる気配が、薄く反応した。だが箱から「開け」のような信号は出てこない。マリアの系統の力で作られた箱だが、陽太の橋道の紋では完全には共鳴しない。
「クリスなら、開けられるかもしれない」
陽太が呟いた。
「だが、佐倉さんはお前に渡した」
「ああ。だから——俺が開けたい」
陽太は箱を手元に置いたまま、考えた。佐倉さんの言葉を思い出した。「マリア様の系譜の本当の継承者は、心では陽太」。心。論理ではなく、心で開ける箱なのか。
*
午後二時近くなった。
クリスとの戦闘の時間が近づいている。陽太は箱をリュックサックに入れた。一条戻橋に持っていく。クリスに見せるかどうかは、戦闘の中で判断する。
男と一緒に、嵐山を出た。電車に乗って、市街地に向かう。一条戻橋までの道のり。昨日と同じ道のり。だが——今日は箱を持っている。陽太の背中で、箱が薄い熱を発していた。木箱なのに温かい。マリアの祈りの残滓が、箱の中で生きている。
一条戻橋に着いた。
昨日と同じ場所。橋の手前。クリスは——既に到着していた。橋の向こう側。黒のロングコート。緑のフードのロビン・フッドが、矢筒を背負って立っている。今日は実体化したまま。
クリスが声を上げた。
「定刻通りですね、瀬川さん」
昨日と同じ挨拶。クリスの儀礼。
「ああ」
陽太が答えた。
戦闘が始まった。
昨日と同じ流れ。ロビン・フッドが矢を放つ。男が斧で受ける。陽太が逆流を瞬間的に発動する。曲射の矢、十本同時射撃、聖なる粒子。昨日見た技術が、今日も来る。
だが——昨日より、テンポが速い。クリスがリズムを変えている。昨日は様子見だった。今日は本気。
陽太が逆流を四秒、五秒と発動する場面が増えた。三秒だけでは間に合わない。代償が増える。鼻血が、昨日より早く出始めた。男の斧が、矢を弾く速度が追いつかなくなる瞬間がある。
*
戦闘の最中、陽太の背中の箱が——熱くなった。
戦闘の振動か、戦場の聖なる気配の影響か。リュックサックの中の箱が、薄い熱を放っていた。陽太の背中越しにそれが伝わってくる。木箱なのに、灼けるような熱ではなく、温かい熱。
箱が、何かに反応している。
陽太は判断した。一旦、戦闘を中断する。
「クリス——待ってくれ。話したいことがある」
陽太が叫んだ。男が斧を構えたまま、振り返った。クリスが手を上げて、ロビン・フッドの矢を止めた。
「何ですか」
「あなたに見せたいものがある」
陽太が橋の中央まで進んだ。男が後ろをついてきた。ロビン・フッドが弦を緩めた。クリスもゆっくり前進してきた。橋の中央で、二人が再び向き合った。
陽太がリュックサックを下ろした。中から箱を取り出した。
クリスの目が、見開かれた。
「……それは」
「あなたなら、これを知ってるかもしれないと思った」
クリスが箱に近づいた。手を伸ばさなかった。だが——目が、箱を凝視していた。
「これは——マリアの遺品の箱です。私の家系の伝承で、聞いていた。京都に隠されている、マリアの最後の記録だと。だが、所在が分からなかった。バチカンの記録にも、誰が継承していたのかは書かれていない」
箱の所在は——クリスは知らなかった。バチカンの公式の記録に、継承者の家系の名前は記されていない。マリアが個人的に信徒として育てた家系。その存在は、四百年の間、京都の中で密やかに保たれていた。
「これを、誰から?」
「佐倉さんから」
「佐倉さんとは」
「四百年代々、ここで誰かを待っていた家系の人だ。マリア様の遺品の箱を、四百年代々受け継いできた」
クリスが沈黙した。長く。橋の上で、秋の風が吹いた。クリスのロングコートの裾が揺れた。
*
「……開いてみますか」
クリスが言った。
「鍵がない。開け方が分からない」
「私が、開けます」
クリスが手を伸ばした。陽太が箱をクリスに渡した。クリスが箱を両手で持って、表面の文字を読んだ。ラテン語。読めるのだ。クリスは。
「これは——マリアが、最後に残した一節です。『私の真の言葉は、血の温度で開く』」
血の温度。
クリスが理解した瞬間、彼の表情が変わった。
「……血の温度。マリアの血を引く者の体温で開く、という意味です」
マリアの血を引く者。クリス・ヴァレンティン。彼が箱を温めれば、開く。
クリスが箱を両手で包んだ。彼の手の温度——昨日陽太と握手した冷たい手——が、箱を温め始めた。彼自身の心臓の鼓動が、箱に伝わる。
箱が、ゆっくりと——開いた。
パチッ、という小さな音。表面の彫り物が、わずかに動いた。木の蓋が浮いた。
中身——古い手紙。何枚かの紙。それから、小さな金属の物体。十字架の形をした金属。マリアが身に着けていたものだろう。
クリスが手紙を開いた。マリアの直筆。クリスは、息を止めて読んだ。
手紙が短かった。だが、内容は——重かった。
クリスが読み終わって、震えていた。手が震えていた。
「……」
陽太が言葉をかけられなかった。クリスの動揺が、橋の上に広がっていた。
クリスが、陽太に手紙を差し出した。
「読んでください。……あなたが知るべき内容です」
陽太が手紙を受け取った。だが——陽太には読めない。ラテン語。
「日本語に訳します」
クリスが言った。声が掠れていた。
「『私は失敗した。だが、私が失敗したのは、儀式破壊を試みたからではない。儀式の本来の目的を、見抜けなかったから』」
陽太が息を飲んだ。
「『私の英霊は、橋の戦士だった。本当の名前は記録できない。だが、彼は私に告げた——「俺たちは、儀式を整えるための組み合わせだ」と。私は、彼の言葉を信じなかった。私は儀式を破壊しようとして、敗れた』」
クリスが手紙の頁をめくった。次の頁。
「『敗れる直前、彼は私に最後の言葉を残した。「次に俺が呼ばれる時、もっと信じられるマスターと組めますように」と。彼は私を信じてくれていた。私は彼を信じなかった。それだけだった』」
陽太は息が止まった。男のことだ。「次に呼ばれる時、もっと信じられるマスターと組める」と——マリアに告げた英霊。次に呼ばれた時——それが、陽太と組んだ今だった。男は、四百年前に願ったマスターを、四百年待って、ようやく出会った。
陽太が男を見た。男は橋の上で立っていた。黙っていた。だが——目が、わずかに動いた。手紙の翻訳を聞いて。男の記憶は四百年前のことを覚えていない。英霊の記憶は召喚ごとにリセットされる。だが——「次に呼ばれる時」と言った自分の言葉が、今、陽太との関係として実現していることを、男は感じていた。
「『この手紙を読む者へ。私の家系の子孫であれば、おそらくあなたは儀式破壊の使命を継いでいる。だが、それは間違い。橋道のマスターと英霊が、儀式の中心です。もし橋道の組み合わせと出会ったら、敵対せず、共闘してください。私の失敗を、あなたが繰り返さないように』」
マリア・ヴァレンティンが、四百年前に、未来の子孫に残した遺言。「敵対せず、共闘してください」。
クリスが手紙の最後の頁を読んだ。
「『私は彼岸に飲まれます。だが、私の信仰は、神への信仰として残ります。神は、儀式を作った方ではない。神は、儀式の中で人々が選ぶ「信頼」を見守る方です。橋道のマスターと英霊の信頼。それが、神の御心に最も近い』」
神は儀式の創造者ではなく、信頼を見守る存在。マリアが死の直前に到達した、新しい信仰。バチカンの公式の教義とは違う。彼女個人の悟り。
クリスが手紙を閉じた。
「……四百年、私の家系は、間違っていた」
声が震えていた。
「祖先のマリアが、最後に書いたこの手紙を、私の家系は読まなかった。バチカンに隠された記録ではなく、京都に残された記録に、真実があった」
四百年の間違い。クリスの家系が背負ってきた使命の前提が、根本から崩れた瞬間。
「父も、祖父も、曾祖父も、知らずに死んだ」
クリスが呟いた。声がさらに小さくなった。
「皆、マリアの遺志を継ぐと信じて、儀式を破壊する覚悟で生きてきた。だが、それは間違った遺志だった。マリア本人が——『間違えるな』と書き残していた。私の家系は、その手紙を読まずに四百年生きた」
クリスが顔を上げた。陽太を見た。目に、初めて、涙のようなものが滲んでいた。だが落ちなかった。彼は——八歳の夜以来、泣いていなかった。今も、泣かない。涙が目に滲んでいるが、それを抑え込んでいる。
「私が、間違っていた。代々の家系の重みではなく、私自身が、間違っていた」
自分で背負う。家系のせいにしない。クリスの強さが、皮肉な形で発揮されていた。間違いを家系のせいにせず、自分で引き受ける。
*
戦闘は、その日は終わらなかった。
クリスはそれ以上戦う気力を失っていた。手紙を読んだ衝撃で。陽太もそれを受け入れた。
「明日、また戦いますか」
クリスが聞いた。
「クリスが望むなら」
「望みます。ですが——明日は、戦い方を考え直します」
クリスが手紙を箱に戻した。箱を陽太に返した。
「これは、あなたが持っていてください。佐倉さんがあなたに渡した意味が、今、分かりました。マリアの言葉を継ぐべき人に渡された。私ではなく、あなたに」
血筋ではクリス。心では陽太。佐倉さんの判断が、マリア自身の言葉で裏付けられた瞬間だった。
クリスが背を向けた。橋を渡って去って行った。ロビン・フッドが続いた。陽太と男が橋の上に残された。
陽太は、箱を抱えていた。マリアの最後の言葉と、十字架と、開かれた箱を。
「……四百年が、変わったな」
男が呟いた。
「ああ」
四百年の家系の使命の前提が、今日、京都の小さな橋の上で崩れた。それが——クリスを救うのか、追い詰めるのか。陽太には、まだ分からなかった。
もし救えるなら、儀式破壊の戦闘は終わる。クリスは陽太の側に立ってくれるかもしれない。クリスが本来の儀式の整えに参加する。陽太と男だけだった戦闘単位が、クリスとロビン・フッドを加えて、二組四人の連合になる。
もし追い詰めたなら——クリスは絶望して、儀式から離脱するか、自死するか。彼の家系の四百年が無意味だったと突きつけられた今、彼は立っていられないかもしれない。
救うか、追い詰めるか。それは——明日のクリス自身の判断だ。陽太にできるのは、待つことだけ。
夕暮れの一条戻橋で、陽太は箱を抱えていた。秋の風が吹いた。橋の下の堀川の水が、静かに流れていた。
「……帰るぞ、坊主」
男が言った。
「ああ」
二人で、橋を渡って嵐山に戻った。明日、クリスがどう判断するか。それは——明日にならないと分からなかった。




