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Dead Line ——境界の儀  作者: 一条信輝


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5話 斧

 壁に、影が滲んだ。


 男が窓を見ている。戦斧を構えたまま動かない。俺は畳の上から動けない。外は暗い。音はない。だが殺意だけが壁を透過してくる。肌で分かる。空気の温度が一度下がったような、そういう冷たさ。


 影は壁の表面に浮かんだ染みのように現れた。じわりと。人の形。黒い衣。顔は——ない。のっぺりとした白い面が、顔のあるべき場所にある。仮面じゃない。最初からそうできている。


 最初の夜の異形とは違った。あれは輪郭が定まらない靄だった。こいつは明確に人間の形をしている。人間の形をしているのに、人間じゃない。


 壁から滲み出るようにして、部屋に入ってきた。音がなかった。足音も、衣擦れも、呼吸も。そこに立っているのに、存在の気配がない。


 「動くな」


 男の声。いつものトーンだった。だが笑っていない。さっき殺意を感じ取ったときから、この男は笑っていない。


 分身体が動いた。


 速い。


 壁を蹴った。天井に跳んだ。次の瞬間には男の横にいた。「速い」という言葉では足りない。目が追いつかない。さっきまでいた場所に、もういない。残像だけが網膜に焼きついている。



      *



 男が斧を振った。天井に当たった。


 土壁が崩れて砂が降ってくる。六畳の部屋。狭い。あの巨大な戦斧を振り回すには狭すぎる。分身体はそれを分かっている。狭所で翻弄して、マスターごと殺す。そういう算段だ。


 だが男は退かなかった。


 持ち方を変えた。柄の中ほどを握り直す。斧を短く持つ。振るのではなく、突く。柄の石突きで分身体の腹を突いた。鈍い音。分身体が後退る。間を空けずに斧頭の背で打つ。横薙ぎではなく、上から叩きつける。六畳間で巨大戦斧を運用している。振れないなら突く。突けないなら打つ。この男は脳筋じゃない。武器を知り尽くしている。


 分身体が壁を蹴って跳んだ。天井を走る。重力を無視している。上から刃が落ちてくる。男が柄で受けた。木と金属がぶつかる音。振動が腕に伝わっているはずだ。畳に砂利が散る。天井の土壁がさらに崩れる。


 速い。分身体のほうが速い。男は力で上回っている。だが狭所では力が活きない。振りが制限される。天井に当たる。壁に当たる。力を込める空間がない。


 俺は畳の上で縮こまっていた。動けない。動いたら邪魔になる。六畳の部屋で二つの人外が殺し合っている。その隅で、ただ見ているしかない。心臓がうるさい。呼吸が浅い。口の中が乾いて、舌が上顎に貼りついている。


 分身体が消えた。いや、消えたように見えた。影に溶けた。壁の影。畳の影。部屋の暗がりに同化して、どこにいるか分からなくなった。


 男が動きを止めた。斧を構えたまま、気配を探っている。見えない。俺にも見えない。さっきまで確かにそこにいたのに、影の中に溶けて消えた。


 ——どこだ。


 足音がない。呼吸がない。殺意すら消えている。部屋の中に誰もいないような静けさ。だが確実にいる。この六畳の中に。


 畳が軋んだ。俺の背後。


 振り返った。何もない。だが——畳の上に、影が濃い場所がある。窓から差す街灯の光が作る影。その影が、微かに動いた。


 男の背後。


 分身体が影から飛び出した。男の背中に向かって刃が伸びる。


 俺は見ていた。男の死角を。男には見えない角度を。あの背中——昨日の夕方、橋の上に並んだ、あの背中の死角を。


 「右!」


 叫んだ。最初の夜と同じだ。あのときは咄嗟だった。何も考えずに声が出た。今は違う。見ていた。意識して見ていた。俺には戦う力はない。剣も斧も振れない。だが——見ることはできる。こいつの目が届かない場所を、俺の目で補える。


 男が反応した。振り返らなかった。俺の声だけで方向を判断して、斧の柄を背後に突き出した。石突きが分身体の胴を打った。壁まで吹き飛ぶ。壁が崩れた。夜気が流れ込んできた。


 「よく見てんな」


 血塗れの口元が、一瞬だけ笑った。


 だが分身体は倒れない。崩れた壁の穴から立ち上がる。白い面に傷一つない。そしてもう一体、窓の外から。二体になった。


 男が俺を見た。一瞬。判断が速い。


 「——外に出る」



      *



 左腕で掴まれた。脇の下に腕を差し込まれ、荷物のように持ち上げられた。抱えるという動作じゃない。掴む。片手で。俺の体重など気にしていない。


 壁を蹴破って外に出た。


 夜の鴨川沿い。冷たい空気が顔を叩いた。男が走る。人間の脚じゃない。景色が流れる。街灯がオレンジの線になって横を走る。鴨川の水面が暗闇の中で鈍く光っている。風が耳を切る。


 背後に気配。追ってきている。二体——三体。増えている。走りながら増殖する。暗闇の中、街灯の光が途切れるたびに影が膨らんで、新しい分身体が生まれる。


 男は迷わなかった。


 最初から目的地が決まっていたように、まっすぐに走った。鴨川沿いの道を北へ。堀川通を横切る。信号は赤だったが、深夜で車は来ない。男は減速しなかった。


 一条戻橋。


 あの橋。最初の夜に出会った。昨日の夕方、隣に立った。男が「橋ってのはどっちにも属さない場所だ」と言った、あの橋。


 男が橋の上に着地した。石畳を踏む音が重い。俺を背後に下ろす。欄干を背にさせる。座り込んだ。膝に力が入らなかった。風が冷たい。夜の川風。鴨川の水音が下から聞こえる。


 男が橋の中央に立った。


 仁王立ち。戦斧を正面に構える。両足を橋の幅いっぱいに開いて、橋の通路を体で塞ぐように。


 ——空気が変わった。


 廃屋の中とは別人だった。さっきまで狭所で苦戦していた男が、嘘のように変わった。男の周囲の空間が重くなる。あの夜、裂け目から現れたときの圧。だが——あのときより強い。明確に。橋の上に立った瞬間、この男の存在そのものが膨れ上がった。空気が重い。呼吸が詰まる。


 昨日、男が言った言葉が頭を過った。「俺はそういう場所で死んだ。だからたぶん、そういう場所にしか立てない」。あれはただの感傷じゃなかったのか。この男は——橋の上でだけ、本当の力を出せるのか。


 手の甲の紋が激しく脈打っていた。綱を通じて、男の中に流れている何かが伝わってくる。熱い。怒りじゃない。もっと深い場所から湧き上がる、もっと古い熱。千年分の、名前のない熱。


 男の背中を見ていた。広い。鎧はない。生身のまま。粗末な衣服のまま。橋の上に立っている。


 分身体が三方から迫っていた。正面。左。右。


 男は動かない。来るのを待っている。



      *



 三体が同時に動いた。


 正面から一体。左右から一体ずつ。三方向の同時攻撃。


 男は正面だけを見ていた。正面の一体だけを。


 斧を振った。


 横薙ぎ。一閃。空気が裂ける音。石畳が砕ける振動が足の裏に伝わった。


 正面の分身体が両断された。黒い靄になって散る。


 左右の二体が、同時に刃を突き込んだ。正面を斬った直後。脇が空いている。当たる。確実に——


 当たらなかった。


 男の体に到達する寸前で、二体の刃が弾かれた。見えない壁。金属が何かにぶつかったような音がして、分身体の腕が弾き飛ばされた。体勢が崩れる。


 俺は見た。男が微かに体の角度を変えていた。斧を振り抜いた後、ほんの数度、体を回している。左右からの攻撃に対して、正面を作り直している。常に「正面」で受ける角度に立ち位置を修正している。


 橋の上で、正面以外の攻撃角度を存在させない立ち回り。


 何が起きているのか分からなかった。だが結果だけは分かった。正面からの攻撃は通る。男の斧は敵を斬れる。だが横からの攻撃は、男に届かない。


 分身体が増えた。五体。橋の両側から。薄い霧が足元に立ち込め始めていた。渡し場の力が漏れている。最初の夜と同じ——だがあの夜よりも薄い。渡し場は完全には開いていない。


 男は一歩も退かなかった。


 斧が唸った。


 一体目。正面から跳んできた分身体を、横薙ぎで両断する。黒い靄が散る。


 二体目。右から。刃が伸びる。男が体を半回転させて正面に捉え直す。斧頭の背で叩く。白い面が砕けて、体が橋の外に吹き飛ぶ。欄干を越えて闇に消えた。


 三体目。左から。低い姿勢で滑り込んでくる。足元を狙っている。男が斧の柄を地面に叩きつけた。石畳が砕ける。衝撃波で分身体が浮く。浮いたところを斧で断つ。


 四体目が背後から来た。俺が叫ぶ前に、男が動いていた。体を回す。斧が弧を描いて分身体を捉える。


 五体目は——待っていた。他の四体が倒される間、動かずに。男が四体を処理して、最も消耗した瞬間を狙って、正面から突っ込んできた。


 男の脇腹を刃が掠めた。血が散った。浅い——だが確実に切った。男が僅かにバランスを崩す。分身体が踏み込む。もう一撃。首を狙って。


 男が斧を振り上げた。上段から叩き落とす。分身体が刃を交差させて受ける。金属が軋む音。力比べ。数秒——男が押し勝った。斧が分身体の防御を砕き、頭頂から股下まで叩き割った。黒い靄になって散った。


 石畳が割れる。欄干が軋む。血の匂い。男の腕からも、脇腹からも血が流れていた。それでも退かなかった。一歩も。


 斧が空気を裂く音が、夜の鴨川に反響していた。


 俺は男の背中を見ていた。


 ——こいつは、こうやって死んだんだ。


 直感だった。根拠はない。ただそう思った。


 この男は千年前、こうやって橋の上に立って、一歩も退かずに、敵を斬り続けて、死んだ。鎧もなく。名前も残さず。後ろにいる誰かのために、一人で橋に立った。


 今と同じだ。鎧はない。名前もない。後ろにいるのは逃げられない少年一人。それでもこの男は橋の上に立っている。一歩も退かずに。千年前と同じように。


 最後の一体が斬り伏せられた。黒い靄になって散った。橋の上に風が吹いた。靄が流れて、夜の空に溶けていった。



      *



 静かだった。


 橋の上に残ったのは、俺と男だけだった。


 男が戦斧を下ろした。石畳に刃先をつけて、柄に体重を預けた。肩で息をしていた。初めて見た。この男が息を切らしているのを。


 無傷じゃなかった。腕に切り傷が三本。脇腹にも一筋、深い傷。衣服に血が滲んでいる。赤黒い染みが、粗末な布を濡らしている。


 男が振り返った。俺を見た。


 「——怪我は」


 一言。自分が血を流しているのに、最初に聞いたのは俺の安否だった。


 首を横に振った。声が出なかった。


 男が笑った。


 あの笑み。薄くて、飄々として、底が見えない——あの笑み。さっきまで消えていた笑みが、戻ってきた。


 「まあ、なんとかなったな」


 なんとかなった。五体を相手にして。橋の上で。一歩も退かずに。血だらけで——「なんとかなった」。


 俺は返事ができなかった。震えていた。恐怖じゃない。見たものの衝撃で震えていた。あの背中。あの戦い方。橋の上に立った瞬間に変わった空気。正面からの攻撃だけが通る、あの異常な立ち回り。


 東の空が白み始めていた。


 一条戻橋の上。二人。


 最初の夜と同じ場所だった。同じ構図。男が立っていて、俺がその足元にいる。だが全てが違った。あの夜、俺は地面に座り込んで泣いていた。涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃだった。


 今は泣いていない。


 震えている。でも、立てる。


 ハズレだと、あいつらは言った。


 ——ふざけるな。こいつは化け物だ。

お読みいただきありがとうございます。

橋の戦士の元ネタであるスタンフォード・ブリッジの戦い(1066年)は、実際にはイングランド王ハロルド二世のノルウェー軍迎撃戦です。この無名の戦士が橋を守った時間は諸説ありますが、その間にイングランド軍の進撃が完全に止まったことは複数の年代記に記録されています。四十人以上を相手に、たった一人で。なのに、名前だけが残らなかった。

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