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Dead Line ——境界の儀  作者: 一条信輝


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4話 飯

 財布の中身を数えた。七百四十三円。


 昨日おにぎりを四つ買って、千二百円から一気に減った。このペースだと明日には底をつく。殺し合いに巻き込まれているのに、最初にぶつかる壁が金の問題だとは思わなかった。


 「飯、買いに行く」


 朝の光が窓から差し込む拠点の廃屋で、壁に寄りかかっている男に声をかけた。男は目を閉じたまま「ああ」と答えた。


 商店街に向かった。学校の近くにある、昔ながらのアーケード商店街。修学旅行生が通るような観光ルートからは外れていて、地元の人間しか来ない。八百屋と魚屋と、古いパン屋がある。コンビニよりは安い。


 男は霊体化して隣を歩いていた。透けた巨体が、開店準備をしている八百屋のおばちゃんの横をすり抜けていく。おばちゃんは気づかない。当然だ。


 だが商店街の中ほど——古い祠がある角を曲がったとき、男の体が変わった。半透明だった輪郭に色が戻り、足音が石畳を叩いた。実体化。完全に。


 「おい」


 小声で言った。周囲を見る。通行人が何人かいる。買い物袋を持った主婦が、男を見て——一瞬だけ目を丸くして、すぐに通り過ぎた。外国人の観光客だと思ったらしい。金髪で背が高くて、粗末な衣服。変わった格好のヨーロッパ人に見えなくもない。戦斧は霊体のままだから見えていない。


 「渡し場の力が溜まってる場所がある」


 男が言った。気にした様子はない。商店街を物珍しそうに見回している。


 「……目立つから戻れよ」


 「まあ、そのうち消えるだろ」


 消える気がないらしい。


 パン屋の前で、男が足を止めた。ガラス越しにトレイに並んだパンを見ている。クロワッサン、メロンパン、焼きそばパン、カレーパン。焼きたての匂いがガラス戸の隙間から漏れてくる。バターと小麦粉の、甘くて温かい匂い。


 「あれは何だ」


 「パン」


 「知ってる。形が違う」


 千年前にもパンはあったのか。あったのだろう。たぶん。だがクロワッサンはなかったはずだ。


 焼きそばパンとカレーパンを一つずつ買った。百五十円と百六十円。男に焼きそばパンを渡した。男は受け取って、そのままかぶりついた。


 三口で半分が消えた。


 「……うまいな」


 初めて見る顔だった。飄々とした薄笑いでもない。戦場の目でもない。ただ、うまいものを食っている顔。子供みたいな、素朴な顔。千年前に死んだ男が、京都の商店街でパンを食って「うまい」と言っている。


 俺はカレーパンを齧った。揚げたてで、中のカレーが熱かった。舌を火傷した。そういえば、まともに温かいものを食べたのは何日ぶりだろう。



      *



 商店街を抜けて、鴨川沿いを歩いた。男は再び霊体化していた。祠のあたりを離れたら、自然と体が透けていった。


 十月の朝の鴨川は穏やかだった。水面に朝日が反射して、白い光の筋がゆらゆら揺れている。風がない。川沿いの柳が動かない。ジョギングしている人が何人か通り過ぎていった。


 男は歩きながら、あちこちに目をやっていた。橋を見ている。三条大橋の方角。それから四条の方。「橋が多いな、この街は」と呟いた。何気ない声だった。だが俺は覚えていた。この男は橋の上で死んだと言った。橋が多いことに気づく目は、たぶん普通の感想とは違う。


 川沿いのベンチに座っている老夫婦の横を通り過ぎた。男がちらりと見た。視線が一瞬、老人たちの繋いだ手に留まった。すぐに前を向いた。あの一瞬に何を思ったのか、俺には分からなかった。


 男が足を止めた。川面を見ている。じっと。


 「何見てんだ」


 「……この川は、境目だな」


 説明はなかった。ただそれだけ。だが男の声には、何かを確かめるような響きがあった。川面を見る目が、さっきパンを食っていたときとは違う。遠い目。ここではない場所を見ている目。


 「あんたはいつの時代の人間なんだ」


 聞いてみた。拠点で名前を聞いたとき以来、男の過去に触れるのは二度目だ。


 男は川面から目を離さなかった。


 「さあ……ずいぶん昔だ」


 間があった。鴨川の水音が流れている。


 「橋の上で死んだ。それだけ覚えてる」


 名前がないだけじゃなかった。生前の記憶も断片的なのだ。自分が誰だったのか。どこにいたのか。何のために戦っていたのか。覚えているのは「橋の上で死んだ」という一点だけ。


 それは——どういう感覚なのだろう。自分が何者か分からないまま、ただ「死に方」だけを覚えている。名前もなく、記憶もなく、残っているのは最後の瞬間だけ。それでも、この男はパンを食って「うまいな」と言う。橋を見て「多いな」と呟く。死者のはずなのに、生きている人間みたいな顔をする。


 聞き返さなかった。踏み込めなかった。まだその距離じゃない。だが、男が「橋の上で死んだ」と言ったとき、声のトーンが変わったことには気づいていた。いつもの軽さが、一瞬だけ消えていた。



      *



 鴨川沿いを南に歩いて、気づいたら学校の近くに来ていた。


 校舎が見えた。三階建ての古い校舎。窓が開いている。三階の端——俺のクラスの教室。チャイムが鳴った。四時間目の終わり。昼休みの始まり。窓際に人影が動くのが見える。誰かが笑っている。誰かが机の上に弁当を広げている。


 三日前まで、俺もあそこにいた。窓際ではなく廊下側の、後ろから二番目の席。隣の席の奴が落とした世界史のプリントを拾わなかった。母親に「なんでも」と返した。あれが俺の最後の日常だった。


 大した学校生活じゃなかった。友達は少ないし、部活もやっていないし、成績も良くない。教室の中で俺がいなくなっても、たぶん一週間で誰も気にしなくなる。


 でも——あそこは俺の席だった。あの窓から見える景色は俺の景色だった。大したことないものでも、失って初めて気づく。あれが自分の居場所だったと。


 「未練か」


 男が言った。


 「別に。大した学校生活じゃなかった」


 声が震えた。自分でも分かった。嘘はついていない。大したことなかった。それは本当だ。だが本当のことを言っているのに声が震える。大したことなかったものを失ったとき、初めて気づく。あれが自分の居場所だったと。どこにでもある、何でもない教室の、後ろから二番目の席。あれが俺の場所だった。


 男は何も言わなかった。隣にいた。透けた体で、見えない場所から、俺と同じ方向を見ていた。さっき「どっちにも属さない場所にしか立てない」とは言わなかったが——この男もまた、どこにも属さない場所に立っている。俺と同じように。



      *



 夕方になった。西日が街を赤く染めている。


 拠点に戻る途中、一条戻橋を渡る。俺が最初にあの男に出会った場所。霧が出て、影が現れて、世界がひっくり返った場所。


 今は何もない。ただの橋だ。石の欄干。古い石畳。夕方の鴨川が下を流れている。犬を散歩させている老人が橋を渡っていく。観光客がスマホで写真を撮っている。日常。


 男が足を止めた。


 欄干に手を置いた。川面を見下ろした。風が吹いていて、男の金髪が揺れていた。あの夜と同じ場所に、同じ男が立っている。だが空気が違う。あの夜は恐怖だった。今は——穏やかだ。


 男が口を開いた。自分から何かを語るのは、これが初めてだった。


 「橋ってのはな」


 川面を見たまま。


 「どっちにも属さない場所だ」


 此岸でもない。彼岸でもない。こっち側でもあっち側でもない。どこにも属さない、境界の上。


 「俺はそういう場所で死んだ」


 声が軽い。笑っている。いつもの、飄々とした薄い笑み。


 「だからたぶん、そういう場所にしか立てない」


 寂しいことを言っていた。


 千年前に橋の上で死んで、名前も残らず、記憶も断片で、今またこうして橋の上に立っている。どっちにも属さない場所に。生者でもなく、完全な死者でもなく、その間のどこかに。葛城に塵と呼ばれた。アレクサンドロスには見向きもされなかった。それでもこの男は笑っている。それが強さなのか、諦めなのか、俺にはまだ分からない。


 何か言わなきゃ、と思った。だが何を言えばいい。「そんなことない」?嘘だ。俺にはこの男がどっちに属しているのかなんて分からない。「大変だったな」?軽すぎる。千年分の孤独に、十七年しか生きていない俺が何を返せる。


 何も言えなかった。だから、何も言わなかった。


 ただ、隣に立っていた。


 橋の上に。二人で。欄干の石が冷たかった。あの夜、最初に触れたときと同じ冷たさ。だが今は怖くなかった。


 手の甲の紋が、脈打った。温かかった。昨日、おにぎりを渡したときにも似た温かさ。だが少しだけ違う。あのときは何かを「した」から温かかった。今は何もしていない。ただ、隣にいるだけ。それだけで紋が温かい。


 名前のつかない感覚だった。怒りでも恐怖でも感謝でもない。もっと手前にある、もっと漠然とした何か。言葉にしたら壊れてしまいそうな、小さくて柔らかい何か。


 だからそのまま、黙って立っていた。



      *



 拠点に戻った。


 夜。いつもの廃屋。男が壁に寄りかかって、俺が畳の上に座る。戦斧が壁に立てかけてある。窓の外は暗い。鴨川の水音が遠くに聞こえる。


 でも今夜は少しだけ違った。沈黙が、昨日までより苦しくない。同じ部屋にいるだけなのに、空気が少しだけ柔らかい。


 「明日も飯、買ってくる」


 「ああ」


 それだけ。それだけの会話。でも悪くなかった。


 目を閉じた。体が重い。今日はよく歩いた。商店街、鴨川、学校、一条戻橋。男と一緒に、京都を歩いた。殺し合いの最中に、ただ歩いた。それだけの一日。


 意識が沈んでいく。眠りに落ちかける。畳の匂い。古い木の匂い。鴨川の——。


 目が開いた。


 俺が起きたんじゃない。空気が変わって、体が起きた。


 男が立ち上がっていた。壁から背中が離れていた。右手が戦斧の柄を握っていた。


 「——来たな」


 声は軽かった。いつもの調子。だが——笑っていなかった。


 この男が笑みを消したのを見るのは、初めてだった。


 土の匂い。あの匂い。だが前の夜とは違う。もっと近い。もっと濃い。壁の向こう、外の闇から、匂いと一緒に流れ込んでくるものがあった。殺意。明確な、剥き出しの、人を殺すためだけの意志が、拠点の外に満ちていた。


 偵察じゃない。


 今度は本物だ。


 男が戦斧を構えた。笑みのない顔で、窓の外を見ていた。

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