3話 嗤い
結局、昨夜は何も来なかった。
土の匂いは一時間ほどで薄れて、手の甲の紋の明滅も元に戻った。男は「引き返したな。偵察だろ」と言って、戦斧を壁に立てかけ直した。夜通し起きていたはずだが、疲れた様子はない。俺は壁際に座ったまま、浅い眠りと覚醒を繰り返して朝を迎えた。
「動くぞ」
朝日が窓から差し込んだ頃、男が言った。
「昨夜、偵察が来た。この場所を知られた可能性がある。じっとしてるのは得策じゃねえ」
反論する気力がなかった。立ち上がった。体がまだ重い。二日前まで普通の高校生だったはずの足が、ひどく頼りなく感じた。
京都の朝。通勤ラッシュ。バスが走り、自転車が交差し、スーツ姿のサラリーマンが早足で駅に向かっていく。その中を、俺は歩いていた。隣に、透けた巨漢が歩いている。戦斧を肩に担いだ、誰にも見えない男。サラリーマンが男の体をすり抜けるように通過していく。男は気にしない。俺だけがその異常さを見ている。
鴨川沿いを北に歩いていたとき、男が止まった。
足が止まるのと同時に、空気が変わった。手の甲の紋が脈打つ。今度は土の匂いじゃない。何というか——熱い。空気の温度が、じわりと上がったような感覚。十月の朝にはありえない熱が、前方から流れてきていた。
前を見た。
二十メートルほど先。鴨川沿いの歩道の真ん中に、男が立っていた。
スーツ姿。三十代。細身で、背筋がまっすぐに伸びている。端正な顔立ちだが、目に温度がない。レンズの奥にある瞳が、この距離でも分かるほど冷たく光っている。朝の通勤客の波が、その男の周囲だけ割れていた。誰も彼にぶつからない。誰も彼を見ない。まるで最初からそこに誰もいないかのように、人の流れが避けていく。
その隣に、もう一人。
金色が目に入った。
朝日を受けて燃えるような金色の鎧。肩当てから胸甲までが一枚の彫刻みたいに美しい。赤いマント。風もないのに微かに揺れている。若い。二十代の前半に見える。だが目の奥にあるものが若さと噛み合わない。あの目は——何千、何万の人間を見てきた目だ。支配した目だ。
通行人は振り返らない。あれだけの金色が朝の歩道に立っているのに、誰一人。見えていないのか。見えているのに、脳が拒否しているのか。
圧。
あの夜、あの男が裂け目から現れたときにも感じた。だが質が違う。あのときの圧は重かった。地面に押しつけられるような、存在の重さ。今、前方から来ているのは——眩しい。暴力的なほど輝かしくて、目を逸らしたくなる。太陽に近づきすぎたような、焼けるような圧。
俺は半歩、後退った。足が勝手に動いた。
*
スーツの男が歩み寄ってきた。五メートルの距離で止まった。
「瀬川陽太。高校二年。魔術の素養はなし」
名前を呼ばれた。俺の名前を。会ったことのない男に。
「一般人の巻き込まれだな」
声は丁寧だった。だが丁寧さの裏に、事務的な冷たさがある。書類を読み上げるみたいな口調。俺の情報を、あらかじめ調べていた。
「葛城冬真だ。この儀式について——ある程度は知っている」
葛城。名前に聞き覚えはない。だが男——橋の戦士が微かに反応した。霊体化したまま、視線だけがスーツの男に向く。
葛城が視線を俺の隣に向けた。何もない空間——に見えるはずだが、葛城には見えているらしい。
「英霊を見せろ。実体化させろ」
命令口調だった。俺に対する敬意は欠片もない。だが威圧でもない。ただ当然のことを言っている、という態度。
隣の男が実体化した。半透明だった輪郭に色が戻り、戦斧が実体を取り戻して石畳に突き立つ。重い音。通行人が一人、音に振り返りかけて、すぐに歩き去った。
葛城が目を細めた。何かをしている。右手の指が微かに動いて、空中に見えない何かをなぞっている。術。魔術。俺には何も見えないし何も分からないが、橋の戦士の表情が僅かに動いた。見られている——査定されている。
数秒。
葛城の指が止まった。
表情が変わった。困惑。あの冷徹な目に、一瞬だけ戸惑いが走った。
「……名前がない?」
声が小さかった。独り言のような声。すぐに表情が戻る。戸惑いは消えて、代わりに浮かんだのは——嘲笑。
「名前すら残っていない英霊か」
葛城が鼻で笑った。口元だけが歪む、冷たい笑い方。
「渡し場もずいぶんと気前がいい。塵まで寄越すとは」
塵。
腹の底が熱くなった。怒り。だが何に対する怒りなのか、自分でも分からなかった。俺が馬鹿にされたのか。隣のこいつが馬鹿にされたのか。たぶん、両方だ。いや——こいつが馬鹿にされたことのほうが、腹が立った。なぜか分からない。仲間だと思っているわけじゃない。ただ、こいつは俺を助けた。こいつと俺は綱で繋がっている。その相手を、目の前で塵と呼ばれた。
隣を見た。
男は——笑っていた。いつもの薄い笑み。飄々とした、掴みどころのない顔。嘲笑を聞いていないはずがない。聞いた上で、何も変わっていない。怒りもない。悲しみもない。気にしていない。あるいは——慣れている。
金色の鎧の青年が、男を一瞥した。金色の瞳が、一瞬だけ橋の戦士の上を通過する。値踏み。——いや、値踏みですらなかった。一瞬で視線を外した。眼中にない。存在を認識して、その上で、興味がないと判断した目だった。
拳を握った。爪が掌に食い込んだ。何も言えなかった。
*
「降りるなら今だ」
葛城が言った。
「ただし綱を切れば、お前も死ぬ」
事務的な声。感情のない、事実の列挙。
「選択肢は三つある。一つ、綱を切って降りる。英霊は消え、お前も死ぬ。二つ、このまま戦い続ける。三つ、奇跡的に最後まで生き残る」
一拍、間を置いた。
「三つ目は忘れろ。ありえない。お前の英霊では——名前すら持たない英霊では、第一戦すら越えられない。アレクサンドロス大王、宮本武蔵、ヴラド・ツェペシュ。歴史に名を刻んだ英霊たちを相手にして、名もなき英霊が何をする?」
反論できなかった。
反論する材料がない。こいつの英霊が強いのか弱いのか、俺には判断する基準がない。一条戻橋で影を斬る姿を見た。あれは凄かった。だが「凄い」と「勝てる」は違う。アレクサンドロス大王。世界史の教科書に載っている人間だ。二十代で世界帝国を作った男。そんなものを相手にして、名前すら残っていない男が——。
隣の男を見た。男は黙って立っていた。表情は変わらない。葛城の言葉が聞こえていないみたいに。いや——聞こえた上で、反論する気がないのだ。反論する必要がないと思っているのか、それとも反論しても無駄だと知っているのか。どちらにしても、俺の居場所はどこにもなかった。
葛城が背を向けた。
「忠告はした。あとは好きにしろ」
歩き出す。金色の鎧の青年が従う。
去り際、青年が振り返った。橋の戦士を見た。金色の目が、一瞬だけ男の上に留まる。何かを言いかけたように口が動いた——ように見えた。だが結局、何も言わなかった。赤いマントが翻り、朝の通りに消えていった。
通行人の流れが元に戻った。割れていた人の波が、何事もなかったように繋がる。コーヒーの紙カップを持ったOLが、葛城が立っていた場所を横切っていった。
俺と男だけが、道の真ん中に取り残された。
*
歩いた。どこに向かうでもなく。鴨川沿いの歩道を、二人で。
通勤ラッシュはまだ続いていた。スーツの群れが横を流れていく。誰もが目的地を持って歩いている。会社。学校。約束。行くべき場所がある人間は、こんな顔をするのだろう。俺には今、行くべき場所がない。
「……あいつの言う通りなのか」
声が小さかった。地面を見ていた。
「お前じゃ、勝てないのか」
聞くのが怖かった。「ああ、勝てない」と言われたら、俺はどうすればいい。
男は答えなかった。
黙って歩いていた。さっきまで通行人がすり抜けていた半透明の体で、俺の隣を。
数秒。十秒。三十秒。沈黙が長い。
男がふと足を止めた。
視線が動いた。鴨川の向こう岸。対岸の、柳の並木の向こう。俺には何も見えない。川面が朝日を反射しているだけだ。走っている人がいる。犬を散歩させている老人がいる。何もない。日常しかない。
だが男の目が変わった。
あの目。最初の夜、影を斬ったとき。昨夜、「嗅ぎつけてきてるな」と言ったとき。薄い笑みが消えて、奥に隠されていたものが表面に浮かんでくる。冷たくて、鋭くて、研ぎ澄まされた——殺す側の目。何かを見つけた。何かの気配を感じ取った。俺には分からないものを。
一瞬だった。
目が元に戻る。笑みが浮かぶ。肩の力が抜ける。
「腹減ったな」
返す言葉がなかった。
だが俺は見逃さなかった。あの一瞬を。
あの目は——塵と呼ばれる人間の目じゃない。
*
コンビニの自動ドアが開いた。
冷房の音。蛍光灯の白い光。雑誌の棚。ペットボトルの冷蔵ケース。おにぎりが並んだ棚。レジの前に立つ店員が「いらっしゃいませ」と言った。
日常の塊だった。殺し合いとも英霊とも関係のない、ただの日常。ここだけが、まだ俺の知っている世界だった。
財布を出した。中身を確認する。千二百円と小銭が少し。二日前に帰り道で缶コーヒーを買ったときから減っていない。当たり前だ。昨日から何も買っていない。何も食べていない。
これで何日持つんだろう。殺し合いに巻き込まれているのに、金の心配をしている。自分が少しだけ可笑しかった。笑えなかったけど。
おにぎりを四つ取った。鮭と昆布を二つずつ。二つは自分の分。残り二つは——。
なぜ買うのか、分からなかった。綱で繋がっている以上、こいつが腹を空かせれば自分にも影響があるかもしれない。合理的に考えれば、そういうことだ。たぶんそれは嘘だ。でも、そういうことにしておく。
拠点に戻った。廃屋の畳の上に、おにぎりを置いた。
男は壁に寄りかかったまま目を閉じていた。おにぎりの包装を剥く音がした。
見ると、男が右手だけ出して、おにぎりを持っていた。目は閉じたまま。いつ取ったのかも分からなかった。
一口。二口。三口で消えた。
「……悪くないな、この飯」
低い声。目は閉じたまま。口元だけが、ほんの少し緩んでいた。
手の甲の紋が、脈打った。
いつもの明滅とは少し違った。痛みでも恐怖でもない。ただ——温かかった。ほんの少しだけ。




