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Dead Line ——境界の儀  作者: 一条信輝


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2話 綱

 鳥が鳴いていた。


 それが最初に分かったことだった。鳥の声。高くて短い、聞き慣れた声。鴨川沿いにいるいつもの鳥だ。


 目を開けた。空が白んでいた。薄い朝焼けが東の空に滲んでいて、頭上にはまだ夜の色が残っている。体が重い。背中が冷たくて硬い。石。欄干の石に背中を預けたまま、座り込んでいた。


 一条戻橋の上。


 最後に覚えているのは、男の背中だった。斧を振るう背中と、影が砕ける音。それがいつまで続いたか分からない。途中で意識が切れた。恐怖と緊張で体の限界が来たのか、それとも単純に気絶したのか。どっちでも同じだ。気づいたら朝になっていた。


 霧は消えていた。影もいない。石畳に走っていた光の紋様も、跡形もなく消えている。空気はただの十月の朝の冷たさで、土の匂いもしない。鳥が鳴いて、遠くで車のエンジンが唸っている。昨夜、世界から消え去った音が、全部戻ってきていた。


 ポケットからスマホを出した。画面が点く。時刻、午前五時十八分。動いている。昨日の夕方、四時五十二分で止まっていた時計が、何事もなかったように秒を刻んでいる。圏外の表示も消えている。


 LINEの通知が三件。母親から。


 「ごはん冷蔵庫に入れとくね」——午後七時十二分。


 「遅くなるなら連絡してね」——午後九時四十一分。


 「おやすみ」——午後十一時八分。


 返していない。全部、返していない。昨日、「なんでも」と送ったのが最後だ。母親は俺が友達の家にでも泊まったと思っているのだろうか。それとも心配しているのだろうか。


 スマホをポケットに戻した。画面を見ていられなかった。


 隣に、男が立っていた。


 戦斧の刃を地面に突き立て、柄に片手を添えて。昨夜と同じ場所に、同じ姿勢で。腕に切り傷がある。薄い傷が二、三本。だが表情は平然としていた。あれだけの数を相手にして、息一つ乱れていない。夜通し戦っていたはずなのに、その顔には疲労の色すらなかった。


 男が口を開いた。


 「——ま、落ち着いたか? 説明するぜ」


 飄々とした声だった。昨夜の第一声と同じ、力の抜けた調子。


 男が語った内容の半分は、頭に入らなかった。「渡し場」が開いた。「境界の儀」と呼ばれる戦いが始まった。七組の「マスター」と、その英霊が殺し合う。最後に残った一組が渡し場を閉じる。——言葉は聞こえている。日本語として意味は分かる。だが頭の中で形にならない。現実として受け取れない。


 俺は男の話を遮った。


 「俺は死ぬのか」


 それだけ聞いた。他の情報はどうでもいい。渡し場も境界も関係ない。俺が死ぬのか死なないのか、それだけが知りたかった。


 男は一拍、間を置いた。


 「さあな」


 笑った。薄く、いつもの笑み。


 「まあ、死なないようにはするが」


 保証はない。当たり前だ。昨夜、化け物に殺されかけた。あの状況で「大丈夫だ」と言える奴がいたら、そいつは嘘つきだ。


 でも——「死なないようにはする」。その言葉を、俺の体は覚えていた。


      *


 立ち上がろうとして、右手に目がいった。


 手の甲の紋。まだ光っている。夜が明けても消えていない。薄い光が皮膚の下から滲み出すように、脈の動きに合わせて明滅している。


 男の手を見た。左手の甲に、同じ紋がある。形も光り方も同じ。鏡に映したみたいに。


 「綱、ってんだ」


 男が言った。俺の視線に気づいて、自分の左手を見せた。


 「これでお前と俺は繋がってる。命を共有してるってことだ。俺が死ねば、お前も死ぬ。逆も同じだ」


 言葉としては分かった。意味としては分からなかった。命を共有する。具体的にどういうことだ。どういう感覚なんだ。


 男は俺の顔を見て、何かを判断したようだった。言葉で伝わらないと分かったのだろう。


 無言で、右手を動かした。戦斧の刃に、自分の左前腕を当てた。


 軽く引いた。


 赤い線が浮かんだ。浅い傷。血が一筋、肌の上を流れた。


 ——同時に、俺の左前腕が痛んだ。


 見た。自分の腕を見た。傷はない。血も出ていない。皮膚は無傷のままだ。なのに痛い。切られた痛みだった。刃物で肌を裂かれたときの、あの鋭い、線を引くような痛み。


 目が見ている現実と、体が感じている現実が一致しない。脳が混乱した。傷がないのに痛い。見えないのに確かにそこにある。


 「——ふざけるな」


 声が出た。


 「何してんだ。何勝手なことしてんだ」


 怒りだった。恐怖じゃない。怒り。理不尽に対する、剥き出しの怒り。


 「勝手に——勝手に巻き込むな。俺はこんなこと望んでない。お前のことなんか知らない。何で俺が——」


 男は黙って聞いていた。斧に寄りかかって、腕を組んで。言い返さない。弁解もしない。目を逸らしもしない。ただ、俺が怒鳴るのを聞いていた。


 声が枯れた。


 喉が限界だった。昨夜、「死にたくない」と叫んだときにやられていたのだろう。声が掠れて、途切れて、出なくなった。怒りが収まったわけじゃない。声が物理的に出なくなって、止まった。


 沈黙。


 朝の鴨川の水音だけが流れている。


 男が口を開いた。飄々とした調子は、消えていた。


 「……悪かったな。選べなかったんだ。俺も、お前も」


 初めて聞く声だった。低くて、静かで、感情のない声。怒りでも謝罪でもない。ただ事実を言っている声。


 俺は何も返せなかった。


      *


 橋を降りた。家に帰ろうとした。


 朝の京都は、昨日と何も変わっていなかった。堀川通に車が走っている。信号が青に変わる。自転車のベルが鳴る。通学路の途中にあるパン屋から、焼きたての匂いが漏れてくる。バターと小麦粉の、甘くて温かい匂い。


 隣に男がいる。姿が——薄い。半透明。朝日が男の体を透過している。さっきまで実体があったのに、橋を降りた瞬間に霧みたいに薄くなった。通勤途中のスーツの男が、すぐ横を通り過ぎた。俺の隣に人間の背丈を超える巨漢がいるのに、目もくれない。見えていない。


 「霊体だ。お前にしか見えねえ」


 男が言った。誰もいない空間に話しかけている俺は、傍から見たらどう見えるんだろう。


 自宅の前に着いた。小さな二階建て。門灯が消えている。朝になって消したのだろう。玄関脇のプランターにパンジーが咲いている。母親が先月植えたやつだ。


 鞄のポケットから鍵を出した。いつもの動作。何百回もやってきた動作。指先が鍵に触れた。


 「やめとけ」


 男の声。


 「お前の近くにいる人間も巻き込まれる。渡し場が開いてる間は、マスターの周りに彼岸の力が漏れ出す。昨夜の影みたいなもんが、家族にも寄ってくる」


 指が止まった。


 玄関の向こうから音がした。テレビ。朝のニュースの声。食器の音。流し台の水の音。母親が朝の支度をしている。いつもの朝だ。俺が学校に行く前に朝食を出して、「行ってらっしゃい」と言って、洗い物をする。


 「ごはん冷蔵庫に入れとくね」。あのLINE。返していない。「なんでも」が最後の返事だ。なんでも、なんて。もう少しちゃんと返せばよかった。ハンバーグがいいとか、カレーでいいとか、何でもよかったから何か一言。


 入れない。


 ドア一枚の向こうに、日常がある。母親がいる。テレビの音がする。だが俺がここに立っているだけで、あの人が危険に晒される。


 鍵をポケットに戻した。


 涙は出なかった。昨夜、全部使い切った。目の奥が乾いていて、痛いくらいだった。


 背を向けた。歩き出した。男が何も言わずについてきた。パン屋の匂いが背中に残った。


      *


 男に連れられて、鴨川沿いの廃屋に入った。


 茶室、だったのかもしれない。畳が敷いてある。六畳ほどの小さな部屋。壁は土壁で、ところどころ崩れて下地の竹が見えている。天井の染みが地図みたいな形をしていた。埃の匂い。古い木の匂い。人が住んでいない場所の匂いがした。


 だが屋根はある。窓もある。雨風は凌げる。


 俺は畳の上に座り込んだ。膝を抱えた。鞄を横に置いて。この鞄には教科書とノートが入っている。今日の時間割は数学と古典と化学だ。もう関係ない。


 男は壁に背中を預けて、戦斧を傍らに立てかけた。目を閉じた。


 沈黙。


 鴨川の水音が遠くに聞こえる。それ以外は何も。


 「あんた、名前は」


 口から出た。考えて聞いたんじゃない。沈黙に耐えられなかった。何か喋らないと、この部屋の静けさに押し潰される気がした。


 男は目を閉じたまま答えた。


 「ない」


 「……忘れたのか」


 「最初からない。記録に残ってねえんだ」


 意味が分からなかった。名前がない人間がいるのか。だが男の声には嘘の響きがなかった。感情もなかった。当たり前のことを言っている、という調子だった。天気の話でもするみたいに。


 聞き返そうとした。口を開きかけて、やめた。今はそれどころじゃない。名前がないことの意味を考える余裕が、俺にはまだなかった。


 目を閉じた。眠れるはずがない。でも目を開けていると、この部屋を見なければならない。崩れかけた壁、染みだらけの天井、窓の外のどんよりした空。ここが今日からの俺の居場所だという現実を。


 暗闇の中で、右手の甲が光っていた。瞼を閉じても分かる。紋様がぼんやりと脈打っている。数メートル先に、同じ光がある。名前のない男の手の甲。二つの光が、暗い部屋の中で同じ速さで明滅している。


 繋がっている。この男と。この光で。


 それが嬉しいのか恐ろしいのか、まだ分からなかった。


      *


 どれくらい眠ったのか。


 眠れないと思っていたのに、体が限界だったらしい。目を開けると、窓の外が暗かった。夕方を通り越して、夜になっている。丸一日、眠っていたことになる。


 体を起こした。筋肉の強張りは少しだけましになっていた。代わりに腹が減っている。最後に食べたのは昨日の昼の学食だ。


 男が目を開けた。


 いや——開けていたのかもしれない。寝ていたのかどうかも分からない。だが動きが変わった。壁に預けていた背中が起き上がる。右手が戦斧の柄に伸びる。ゆっくりと、だが淀みなく。


 窓の外を見ていた。


 俺も気づいた。空気が変わっている。部屋の中に、かすかに——あの匂い。土。湿った、古い土の匂い。昨夜、一条戻橋の上で嗅いだのと同じ匂い。


 手の甲の紋が速くなった。明滅の間隔が短くなっている。心臓も速い。


 男が言った。


 「——もう嗅ぎつけてきてるな」


 声は軽かった。いつもの調子だ。だが戦斧を握る手に力が入っているのが見えた。


 昨夜と同じだ。また来る。


 だが一つだけ、昨夜と違うことがあった。今度は、あの橋の上で一人じゃない。隣に男がいる。名前のない、でかい男が。それが心強いのかどうかは、まだ分からなかった。


 ただ——この街の夜は、昨日とは違う匂いがした。

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