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契約結婚の相手と夢で先に恋をしていました  作者: 月雅


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第9話「夢の外の言葉」

暖炉の火が、二人の影を壁に映していた。


夕食の皿はすでに下げられている。フィオナが食器を片付け、静かに扉を閉めていった。食堂には薪が爆ぜる音だけが残り、壁に揺れる影が呼吸のように伸び縮みしている。


エルヴィンは暖炉の前の椅子に座っていた。リーネを向かいの椅子に促し、自分は膝の上で手を組んでいる。組んだ手の指先が、微かに白い。


沈黙が長かった。薪の樹脂が焦げる甘い匂いが漂う中、エルヴィンは口を開きかけては閉じることを何度か繰り返した。


「俺は」


声が出た。低く、硬い。


「夢の中でしか上手く言えなかった。でも、もうそれじゃ駄目だと思った」


リーネは膝の上で手を握り、黙って待った。この人のための沈黙は、もう苦ではなかった。


エルヴィンが顔を上げた。暖炉の火が灰色の瞳を琥珀色に染めている。


「契約だとか、夢だとか、もうどうでもいい」


声が揺れた。言葉を選ぶ間が消え、喉の奥から直接出てくるような響きだった。


「お前がいないと、この家は暗い。俺の隣に、いてくれ。契約じゃなく」


最後の一語が落ちた瞬間、エルヴィンの組んだ手が解けた。指が膝を掴み、関節が白くなっている。目はリーネを見たまま逸らさない。逸らせないのだろう。逃げ場を自分で断ったような目だった。


リーネの喉が震えた。


「私には何もありません。肩書きも、財産も、後ろ盾も」


声は平坦だった。いつもの防衛。いつもの壁。自分でそれが分かっている。分かっていて止められない。


「何も持っていない人間が」


「お前が俺の全部だ」


遮られた。エルヴィンの声が重なり、リーネの言葉を押し戻した。


「何も持ってない人間が、全部になれるわけないだろう」


沈黙が落ちた。暖炉の火が一際大きく爆ぜ、影が壁の上で跳ねた。


目の奥が熱くなった。鼻の奥が痛い。止められない。涙が頬を伝い、顎から落ちた。拭おうとした手が震えて顔に届かず、膝の上に落ちた。


「夢の中で、ずっとエルヴィン様が好きでした」


声が掠れていた。涙で濡れて、形を成していないような声だった。


「でも現実のあなたを好きだと認めるのが怖かった。また失うと思ったから」


エルヴィンが椅子から立ち上がった。一歩、リーネの方へ踏み出す。暖炉の熱が背中側に回り、エルヴィンの影がリーネの膝の上に落ちた。


「もう、失わない」


低い声が、真上から降ってきた。リーネは顔を上げた。涙で滲んだ視界の中で、灰色の瞳がこちらを見下ろしている。夢の中で見えたあの顔と同じ。けれど夢よりも近く、夢よりも温度がある。


暖炉の火が揺れ、二人の影が壁の上で一つに重なった。


翌日の午後。


応接室にフィオナが茶の準備を整え終えた頃、馬車の音が門の前で止まった。


数日前に届いた訪問の申し入れだった。ホーエン侯爵家嫡男アルベルト・ランツェ・ホーエンの名で書かれた、正式な面会願い。婚姻の正当性を問う先日の書状とは異なる筆致で、簡潔に面会の日時が記されていた。リーネはエルヴィンの隣に立ち、応接室の長椅子の前で待っていた。


扉が開いた。


アルベルトは変わっていなかった。柔らかな金髪、穏やかな目元、仕立ての良い外套。その後ろに、セレナ・ヴィルトが控えている。華やかな装いに微笑みを湛えて、けれどその目がリーネの顔を捉えた瞬間、微笑みの端がほんの僅かに引きつったように見えた。


「久しぶりだね、リーネ」


アルベルトの声は穏やかだった。リーネは軽く頭を下げた。


「ようこそお越しくださいました、アルベルト様」


エルヴィンはリーネの半歩後ろに立っていた。腕を組み、アルベルトを見ている。表情はない。けれどその無表情の奥に、冷たく硬いものがあるのをリーネは感じていた。


アルベルトが長椅子に腰を下ろし、リーネとエルヴィンも向かいに座った。フィオナが茶を配り、静かに部屋の隅に下がる。


「僕は君に謝りたい」


アルベルトが切り出した。手元の茶杯に目を落とし、それから顔を上げる。


「婚約を破棄した時、僕は君のことを正しく見ていなかった。君が侯爵家に相応しくないと言ったのは、僕の判断が浅かったからだ」


声に偽りはないように聞こえた。けれどその言葉を受け取る場所が、リーネの中にはもうなかった。


「お気持ちだけ受け取ります、アルベルト様」


リーネの声は穏やかだった。平坦でも事務的でもなく、ただ穏やかだった。


「でも、私はもうここにいます」


アルベルトの目がリーネの顔を見た。婚約中の五年間、一度も見せなかった表情がそこにあった。穏やかで、確かで、どこにも揺らぎがない笑顔。アルベルトの手が杯の上で止まり、指が取っ手を握り直した。


リーネの隣で、エルヴィンが微かに身じろぎした。腕を解き、手が一瞬だけリーネの椅子の背に触れ、すぐに膝の上に戻る。その仕草の中にある、控えめで不器用な確認を、リーネは背中越しに感じていた。


セレナは長椅子の端に座ったまま、リーネの顔を見つめていた。かつて社交界の片隅で「あの方には侯爵家の華やかさは荷が重いのでは」と口にした時、この結末は想像していなかっただろう。自分が追い出した相手が、こんな顔をしていることは。セレナの手が膝の上で握りしめられているのが、リーネの視界の端に映った。


アルベルトが立ち上がった。


「……邪魔をした。辺境伯、夫人を頼む」


エルヴィンが一言だけ返した。


「言われるまでもない」


フィオナが客人を玄関まで案内していく。廊下に足音が遠ざかり、応接室に二人が残った。


エルヴィンが口を開いた。


「……あいつの前で、ちゃんと隣に立てたか」


リーネはエルヴィンの方を向いた。不安と緊張を押し隠した横顔が、午後の光に照らされている。


「立ってくれていました」


エルヴィンが小さく息をついた。口元が僅かに緩む。


「今夜、夢を見るか」


「見なくても、大丈夫な気がします」


「……そうか」


二人は立ち上がり、食堂へ向かった。廊下の窓から夕暮れの光が差し込み、並んで歩く二つの影が石の床に伸びていた。

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