第8話「顔のない恋人」
あと少しだった。あの顔が、見えるところまで来ていた。
朝の光の中でノートを開き、昨夜の記録を読み返す。「顔。一瞬だけ見えかけた。灰色の瞳。」自分の字が、最後の画で滲んでいる。ペンを握る手が止まらなかった証だ。
先代夫人の手記に書かれていた伝承が、頭の中で鳴り続けている。魂の対が互いを受け入れた時、夢は変わる。顔が見えかけているということは、私の心が動いているということだ。
前の世界の知識で言い換えれば、深い眠りの中で共有される意識が、覚醒時の感情と同期し始めている。心が相手を受け入れる方向に傾けば、夢の中の制限が緩む。
自分の心の変化を、こうして客観的に観察できてしまうことが、救いなのか呪いなのか分からなかった。ノートを閉じ、机の引き出しにしまった。
午後。エルヴィンの執務室。
領地の南部にある森林地帯の管理区画を見直す作業を、二人で行っていた。大きな地図が机いっぱいに広げられ、エルヴィンが区画の境界線を指でなぞりながら説明する。リーネは隣に立ち、帳簿と地図を照らし合わせて記録を取っていた。
「この一帯は先代の頃から木材の伐採量を制限している。土壌が崩れやすい」
エルヴィンの声は低く、簡潔だ。指が地図の等高線を辿る動きに迷いがない。領地のことを語る時の彼は、食卓で言葉に詰まる人とは別人のように見えた。
リーネが帳簿の数字を地図の区画に書き込もうとした時、ペンを持つ手がエルヴィンの指に触れた。
地図の同じ場所を、二人が同時に指していた。
肌が触れた箇所から、じわりと熱が広がる。庭で手首を掴まれた時よりも穏やかで、けれど確かな温度だった。今度はリーネも、エルヴィンも手を引かなかった。
窓の外で風が木の枝を揺らす音だけが聞こえている。
「……俺は」
エルヴィンの声が、執務の声から別のものに変わった。低さは同じだが、言葉を選ぶ間が長くなる。地図から目を上げないまま、続けた。
「夢の中でしか上手く話せない。現実のお前に、何て言えばいいか分からない」
指が地図の上で僅かに動き、リーネの指先に触れたまま離れない。
「夢ではもっと……言葉が出る。お前のことを、お前に伝えられる。でも目が覚めると、全部消える。口がその通りに動かない」
リーネは指先の温度を感じながら、黙って聞いていた。この人が自分の弱さを口にするのは初めてだ。夢の中の饒舌な彼ではなく、現実の不器用な彼が、言葉を一つずつ絞り出している。
「エルヴィン様」
リーネの声は静かだった。
「夢の中の言葉も、現実の言葉も、同じあなたのものです」
エルヴィンの指が、ほんの少しだけ強くリーネの指に触れた。それから手を引き、地図の端を整え始めた。顔は地図に向いたままで、首の後ろがほんのり色づいている。
部屋に戻り、先代夫人の手記を開いた。
何度も読み返した箇所。「魂の対が互いを受け入れた時、夢は穏やかな眠りに変わる。」
変わる。つまり、夢が終わる。あの食卓が消える。毎晩座っていたあの椅子が、向かいの席の声が、すべて穏やかな眠りの中に溶けていく。
手記を持つ指に力がこもった。
あの食卓を失いたくない。あの声を聞けなくなるのが怖い。半年間、毎晩通い続けた場所だ。エルヴィン様にとっては十二年の場所だ。
けれど。
手記を膝に置き、窓の外を見た。夕暮れの光が部屋に差し込んでいる。あの光。夢の食卓の窓から差していた光と同じ方角。
現実にも食卓がある。同じ人が向かいに座っている。「おかえり」と言ってくれた。スープが冷めるからと声をかけてくれた。茶の好みを覚えていてくれた。
夢の中の彼と、現実の彼。その二人が同じ人だと、頭では分かっていた。声で確認し、手の温度で確認し、仕草で確認した。けれどそれは認識であって、まだ感情ではなかった。
今、指先に残る温度が、その境界を溶かしかけている。
その夜。
食卓に座っていた。いつもの木の卓。二人分の食器。向かいの席に、彼がいる。
彼が顔を上げた。
影が薄れていく。輪郭が鮮明になる。額から眉、鼻筋、頬の線。灰色の瞳が、夢の中の柔らかな光を受けて、こちらを見ていた。
エルヴィンだった。
分かっていた。声で分かっていた。手の温度で分かっていた。それでも、夢の中で初めてその顔を見た瞬間、胸の底から何かがせり上がってきて、呼吸ができなくなった。
頬が濡れていた。夢の中で涙が出るのは、二度目だった。一度目は、あの城砦の夜。「来てくれたのか」と言われた夜。
「知ってた」
声が出た。夢の中で自分の声が出ないことがあるのに、今夜は出た。震えて、掠れて、けれど確かに音になった。
「ずっと、あなただって」
夢の中のエルヴィンが微笑んだ。顔が見えている。影はもうない。その笑みは、現実の食卓で「おかえり」を言った後の、あの表情と同じだった。
視界が明るくなっていく。夢が終わる合図だ。食卓が遠ざかり、エルヴィンの顔が光の中に溶けていく。けれど今度は、消えていく顔に怯えなかった。
目を覚ませば、同じ顔がこの屋敷のどこかにある。
朝の廊下。
自分の部屋を出たところで、足が止まった。
エルヴィンが、部屋の前に立っていた。壁に背を預けるでもなく、ただまっすぐに立っている。リーネの顔を見て、口を開いた。
「今日、話がある」
声は硬かった。いつもの寡黙さとは違う、意志を含んだ硬さ。
「夕食の後に」
リーネは頷いた。エルヴィンの手が体の横で微かに震えているのが見えた。この人は、夢の中ではない場所で、何かを言おうとしている。
エルヴィンは踵を返し、廊下の奥へ歩いていった。その背中の肩甲骨のあたりに力が入っているのが、朝の光の中ではっきりと見えた。




