第7話「食卓の守り方」
エルヴィンは書状を破り捨てた手で、そのまま朝食のパンを千切った。
破れた紙片がまだ卓の端に散っている。マルクスがそれを黙って集め、懐に収めた。朝の光が窓から差し込み、パンの焼けた香りと紅茶の湯気が漂う食堂は、数秒前に書状が破られたとは思えないほど静かだった。
リーネは椅子の肘掛けを握ったまま、呼吸を整えていた。ホーエン侯爵家からの書状。婚姻の正当性に対する問い合わせ。アルベルト様が、動いた。
「マルクス殿」
リーネは声を出した。平坦に、事務的に。
「書状の法的な意味合いを教えてください」
マルクスは破片を集め終えた手を膝の上に置き、背筋を正した。
「法的には、辺境伯と子爵家令嬢の婚姻は貴族院に正式に届出済みであり、完全に正当です。ホーエン侯爵家に異議を申し立てる法的根拠はありません。ただし」
間を置いた。
「政治的な嫌がらせとして、今後も書状や噂を通じた圧力が続く可能性はあります」
リーネの指が肘掛けの上で開いた。
「私が原因なら、私が対処します」
「お前が原因じゃない」
エルヴィンの声が割り込んだ。パンを千切る手が止まり、灰色の瞳がリーネを見ていた。抑えた声だったが、その奥に熱が籠もっている。これまでの食事の席で聞いたどの言葉とも違う響きだった。
リーネは口を開きかけ、閉じた。エルヴィンが感情を込めて反論したのは、初めてだった。
午後、リーネはマルクスの執務室に向かった。
帳簿を広げ、辺境伯領の交易記録を一年分遡った。輸出品目、取引先、価格の推移。数字を追いながら、頭の中で計算を組み立てていく。
「マルクス殿。辺境伯領の木材と薬草は王都の商会に直接卸していますが、中間の宿場町を経由して手数料が二重にかかっています。王都の商会と直接契約を結び、輸送路を一本にすれば、手数料が圧縮できます」
帳簿の該当箇所を指で示しながら、リーネは交易拡大の計画を説明した。数字の根拠、予想される収益の改善幅、商会への打診の手順。
マルクスは腕を組み、リーネの指先と帳簿を交互に見ていた。説明が終わると、数秒の沈黙があった。
「……これは使える」
声に感情は薄かったが、腕を解いて帳簿に手を伸ばし、リーネの示した箇所に付箋を挟む動作には迷いがなかった。
夕方、フィオナがリーネの部屋を訪ねてきた。手に二通の書状を持っている。
「奥様、ホーエン侯爵家の件とは別に、もう一通お手紙が届いています」
差し出された封書の封蝋を見て、リーネの指が一瞬止まった。フォーゲル家の紋章。差出人はディルク・フォーゲル。
封を切り、目を通した。
文面は居候時代のものとは別人のようだった。丁寧な、ほとんど媚びた言い回しが並んでいる。「辺境伯夫人となられたリーネ様に、改めてお祝いを申し上げます」「子爵家としても、かねてよりリーネ様のご活躍を」
一読して、引き出しにしまった。
「お返事は」
フィオナが尋ねた。
「必要ありません」
リーネの声は穏やかだったが、引き出しを閉める手に迷いはなかった。フィオナは小さく頷き、それ以上は何も言わなかった。
もう一通の書状について、フィオナが口を開いた。
「王都の商人から聞いた話ですが、ホーエン侯爵領で帳簿の混乱が起きているそうです。先日の貴族院の収支報告で是正勧告を受けたとか」
リーネの手が止まった。あの帳簿。自分が婚約中に整理していた帳簿。後任が機能していないのだろうか。
「社交は華やかでも、数字には向き不向きがあるものです」
フィオナの声は淡々としていた。それ以上は語らず、一礼して部屋を出ていった。
リーネは窓辺に立ち、夕焼けに染まる牧草地を眺めた。あの場所で起きていることに、もう関わりはない。関わる理由もない。
ただ、帳簿の混乱と聞いて真っ先に数字の並びを思い浮かべた自分がいた。それは同情ではなく、ただの職業的な反射だった。
夕食の席。
いつもの食堂。木の卓に二人分の食器。焼いた鶏肉の香ばしい匂いが立ち上り、湯気が蝋燭の灯りの中をゆっくり昇っていた。
エルヴィンは向かいの席で、スープの皿に視線を落としている。いつもの沈黙。いつもの間。リーネはパンを手に取り、一口食べた。
食事が半ばを過ぎた頃だった。
エルヴィンのスプーンが皿の縁に当たり、小さな音を立てた。彼の手が卓の上で握られ、開かれる。喉仏が動くのが、灯りに照らされて見えた。
「おかえり」
小さな声だった。スープの湯気が揺れなければ聞き逃していたかもしれない。けれど確かに、その言葉はリーネの耳に届いた。
あの執務室の扉の向こうで、何度も練習していた言葉。一人で、繰り返し、声に出していた言葉。それが今、食卓の上の温かい料理と灯りの中で、リーネに向けられている。
身体が固まった。フォークを持つ手が止まり、視線がエルヴィンの顔に吸い寄せられる。彼は目を逸らしていた。首筋がうっすらと赤い。
「……ただいま、です」
自分の口から出た声が、僅かに裏返った。夢の中で何百回も聞いた言葉を、現実で初めて交わしている。あの食卓と同じ言葉が、この食卓の上に落ちた。
エルヴィンが顔を上げた。灰色の瞳がリーネを見ている。その目の中に、何かが揺れていた。口元が僅かに動いたが、言葉にはならなかった。代わりにスプーンを取り直し、スープを一口すすった。
リーネもフォークを持ち直した。鶏肉を切り、口に運ぶ。塩と香草の味が舌に広がった。向かいの席で同じように食事をする人の気配が、あの夢の食卓と重なって、境目が分からなくなる。
けれどこちらには温度がある。蝋燭の熱。スープの湯気。そして向かいに座る人の、微かに荒い呼吸の音。夢にはなかったものが、ここにはある。
その夜、夢を見た。
食卓に着いている。いつもの椅子。いつもの食器。向かいに座る彼の影。
けれど今夜、その影の輪郭が揺れた。影の中に、一瞬だけ色が差した。灰色。あの瞳の色だ。見えた、と思った瞬間に視界が白く溶け、食卓が遠ざかっていく。
目が覚めた。
心臓が速く打っている。枕元のノートを手繰り寄せ、震える手でペンを握った。
「顔。一瞬だけ見えかけた。灰色の瞳。」
書き終えた文字を見つめる。ペンを握る指が止まらず、インクの最後の一画が紙の上で滲んでいた。




