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契約結婚の相手と夢で先に恋をしていました  作者: 月雅


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第6話「十二年の重さ」

あなたは、十二年間同じ人を探し続けられますか。


手記の革表紙は体温で少し温まっていた。フィオナがリーネの部屋の椅子に腰を下ろし、手を膝の上で組んでいる。朝の光が窓から斜めに差し込み、古い革の表面の傷を浮き上がらせていた。


「先代の奥様、つまりエルヴィン様のお母様は、夢のことを記録されていました。食卓の夢です。向かいに座る方の顔は見えないが、声が聞こえると」


リーネは手記の頁をめくった。褪せたインクで書かれた文字。筆跡は丁寧で、けれどところどころ乱れている。感情を抑えきれなかった箇所だろうか。


一つの記述に目が止まった。「魂の対は夢で再会する。顔は見えず、声だけが繋がる。」その横に、先代夫人の注釈がある。「古い伝承の写し。出典は辺境の口承記録。」


夢渡り。


手記にはその名は記されていなかったが、伝承の内容は明確だった。前世で深い絆を持った魂が同じ世界に転生した場合、夢を通じて再会する。顔は見えない。声と温度と感情だけが共有される。


前の世界の知識では説明がつかなかった現象に、この世界の言葉が与えられた。リーネは頁を握る指に力が入るのを感じた。


「先代の奥様も、この夢を見ておられたのですか」


「ええ。ただ、お母様の場合は先代の旦那様と出会われてすぐに夢は穏やかなものに変わったと聞いています。お二人は幼馴染でしたから」


フィオナの声が、少しだけ柔らかくなった。膝の上の手が解かれ、指先が自分の袖口に触れる。


「エルヴィン様は違いました」


フィオナが語ったのは、十五歳の少年の話だった。


両親を流行病で亡くし、十二歳で辺境伯を継いだ少年。三年後の十五の年から、毎晩のように食卓の夢を見るようになった。向かいに座る誰かの声を聞き、目覚めるたびにその声を記憶に刻んだ。


「最初は夢に怯えておられました。夢の中で話しかける相手が誰なのか分からない。でも声だけは覚えている。その声を聞くと安心すると、ある朝ぽつりと仰ったのです」


リーネは手記を膝の上に置いたまま、動けなかった。


「領主会議の場で、社交の場で、あの方はずっと耳を澄ませていました。夢の中の声と同じ声を持つ人を探して。何人もの女性と言葉を交わし、その度に首を振りました」


フィオナの目がリーネを捉えた。穏やかだが、揺るぎのない眼差し。


「十二年です、奥様。あの方にとって、夢のあなたが全部だったのです」


喉の奥が締まった。呼吸が浅くなる。手記の革表紙が指の下で滑り、リーネは両手で押さえ直した。


「……でも」


声が出た。自分でも驚くほど平坦な声だった。


「彼が探していたのは夢の中の私であって、現実の私ではありません」


言い切った瞬間、自分の声が事務的になっていることに気づいた。防衛だ。壊れないための壁を立てている。


フィオナは数秒の間、黙っていた。窓の外から鳥の声が聞こえる。朝の空気に混じる草の匂いが、開いた窓から流れ込んでいた。


「夢の中で十二年間一緒に食卓を囲んだ相手と、現実で食卓を囲んでいる相手が同じ人なのに、別だと仰るのですか」


リーネの唇が動いたが、言葉は出なかった。


フィオナの声に厳しさはなかった。けれど柔らかさの奥に、譲らないものがあった。侍女長の目がリーネの顔を見つめている。その視線の中で何かが変わったように感じた。品定めの慎重さが消え、代わりに別の色が浮かんでいる。


「奥様。あなたは本当に、ご自分に価値がないとお思いなのですね」


返す言葉がなかった。図星だったからではない。図星であることを、この人に見抜かれたことに、息が詰まった。


フィオナが立ち上がった。手を前で組み、口元を引き締める。いつもの侍女長の姿勢に戻っている。けれど目だけが、先ほどまでとは違っていた。


「失礼いたしました。朝食の準備が整っておりますので」


一礼して、部屋を出ていった。


一人になった部屋で、リーネは手記を読み返した。


先代夫人の記述。「魂の対が互いを受け入れた時、夢は穏やかな眠りに変わる。」それは解除ではなく統合であり、特別な夢が日常に溶け込むということだと記されていた。


三冊のノートを鞄から出し、手記と並べた。自分の記録と先代夫人の記録。書き手は違うが、描かれている食卓は同じものだ。


エルヴィン様は十二年間、この食卓で私の声を聞いていた。私はまだ半年しか座っていない。その差が、胸の底に重く沈んだ。


十二年。十五から二十七まで。少年が青年になり、領主になり、辺境を治め、その間ずっと毎晩あの食卓で声を聞いていた。そして目覚めるたびに、声の主を探した。


怖い。


この事実を受け止めてしまったら、もう「契約だから」とは言えなくなる。夢の残像だと自分に言い聞かせることもできなくなる。この人の十二年を知ってしまった以上、軽い言葉で自分の気持ちを覆い隠すことが、もうできない。


それなのに、本物だと信じてまた失うことの方が、もっと怖い。


手記を閉じた。ノートも閉じた。机の上に四冊の記録が並んでいる。窓から差し込む光の角度が変わり、革表紙の上を影が横切った。


夕暮れ。


執務室の前を通りかかった時、扉の隙間から声が漏れていた。


低い声。エルヴィン様の声。誰かと話しているのかと思い、足を止めた。けれど返事はない。独り言だろうか。


「……リーネ」


名前だった。小さく、慎重に、音の形を確かめるように繰り返されている。


「リーネ。……リーネ」


そして、間が空いた。長い間。息を吸い込む音が聞こえ、それから。


「おかえり」


声が震えていた。練習しているのだと分かった。現実の言葉として口に出す練習を、一人の部屋で、何度も。


リーネはその場を離れた。足音を殺して廊下を戻り、自分の部屋に入り、扉を背にして立ち尽くした。


目の奥が熱い。手で覆っても止まらない。


廊下の反対側で、別の足音が静かに遠ざかっていくのが聞こえた。フィオナだろうか。確かめる余裕はなかった。


翌朝、朝食の席に着こうとした時、マルクスが足早に食堂に入ってきた。手に封書を持ち、眼鏡の奥の目がいつもより鋭くなっている。


「辺境伯。ホーエン侯爵家から書状です」


エルヴィンがパンを置いた。マルクスから封書を受け取り、封蝋を割る。目が文面を追い、数秒で紙面の端まで達した。


「内容は、奥方様の婚姻の『正当性』に対する問い合わせです」


マルクスの声は事務的だったが、リーネの方を見る視線に配慮が滲んでいた。


リーネの顔から血の気が引いた。椅子の肘掛けを掴む指が白くなる。アルベルト様が動いた。公報が届いたのだ。


エルヴィンは書状を一瞥し、両手で紙を掴み、静かに破った。


「正当性なら、貴族院に聞け」


破れた紙片が卓の上に散った。エルヴィンの声には抑揚がなかったが、紙を破る指先には力がこもっていた。


マルクスが破片を集めている横で、リーネは肘掛けを握ったまま動けなかった。

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