第5話「夢より温かい手」
婚約の五年間で、アルベルト様に手を握られたことは一度もなかった。
社交の場で腕を差し出されることはあった。舞踏会でエスコートされることもあった。けれどそれは形式であって、体温を伝える行為ではなかった。指先が触れ合っても、そこから何かが伝わることはなく、礼儀という名の空白だけが残った。
今朝、食堂でエルヴィン様がパンの籠をこちらに寄せた時、指がかすかに触れた。ほんの一瞬だった。けれどその一瞬に、あの夢の食卓で手を握られた時と同じ温度が走り、リーネは思わず手を引いてしまった。
エルヴィンは何も言わなかった。パンの籠を卓の中央に置き直し、自分の皿に目を落とした。
リーネは引いた手を膝の上で握り、黙って紅茶の杯を持ち上げた。
辺境伯邸での暮らしは、少しずつ輪郭を帯び始めていた。
朝食はエルヴィンと二人。昼は各自の用事をこなし、夕食にまた食堂で顔を合わせる。エルヴィンは相変わらず寡黙で、一回の食事で口にする言葉は片手で数えられるほどだった。けれど翌日の朝食には、リーネが前日に飲んでいた茶の種類が変わっていた。
「フィオナ、今朝のお茶は」
「林檎の花の茶でございます。旦那様から、奥様がお好みかもしれないとご指示がありまして」
一度だけ口にした茶を覚えていた。リーネは杯を両手で包み、湯気の向こうにあるエルヴィンの横顔を見た。彼は窓の外を見ている。視線がこちらに向くことはなかった。
午前中、リーネは厨房に足を運んだ。
竈の熱気と焼いた小麦の香りが充満する空間で、料理番の老女と侍女が二人、昼食の仕込みをしている。リーネが入ってくると手が止まった。
「奥様、何かご用でしょうか」
「少しお願いがあるのですが。この季節は空気が乾いて喉を傷めやすいので、蜂蜜湯を常備していただけませんか。竈番の方も、乾燥で咳が出やすくなると思いますので」
料理番の老女が目を瞬かせた。侍女が顔を見合わせる。リーネは棚にあった蜂蜜の壺を確認し、分量と作り方を伝えた。
厨房を出ると、廊下にフィオナが立っていた。
「奥様。どちらでそのような知識を」
穏やかな声だったが、目には観察の色がある。リーネは一瞬だけ間を置き、それから答えた。
「幼い頃に読んだ古い医術書に載っていました。父の書斎に、そういった類の本が多かったので」
フィオナは小さく頷いた。それ以上は問わなかった。リーネは息を吐いた。前の世界の知識は、この世界の書物に置き換えて伝えるしかない。深い眠りとか、夢を見る眠りとか、そういう言葉ならこの世界にもある。けれど内心で使う専門的な概念を、そのまま口にすることはできない。
午後。マルクスの執務室を訪ねた。
机の上に積まれた帳簿の山を見て、つい足が止まった。背表紙に年度が振られた帳簿が十数冊、整然と並んでいる。
「何か御用ですか、奥方様」
マルクスが眼鏡越しに見上げた。リーネは一歩踏み込んだ。
「領地の帳簿を見せていただくことは可能ですか。契約上の妻ではありますが、ここで暮らす以上、領地の収支くらいは把握しておきたいのです」
マルクスは数秒の沈黙の後、帳簿を一冊引き抜いてリーネの前に置いた。今年度の収支台帳。リーネは椅子を借りて腰を下ろし、頁を繰り始めた。
数字を追う目が、途中で止まった。
「マルクス殿。ここの農産物の出荷量と、こちらの税収の数字が合いません。差分が月ごとに膨らんでいます」
マルクスの手が卓の上で止まった。
「……どこですか」
リーネが指で示した箇所を、マルクスが身を乗り出して確認する。頁を何枚かめくり、別の帳簿と突き合わせ、それから椅子の背にもたれた。
「仲買人の報告が遅延している分が未計上でした。見落としていた」
声に苛立ちはなかった。ただ事実を認める、簡潔な口調だった。帳簿を閉じ、少し間を置いてからリーネの方を向いた。
「奥方様。帳簿は今後も見ていただけますか」
リーネは頷いた。フォーゲル子爵邸では見せてもらえなかった帳簿。ホーエン侯爵家では任されていた帳簿管理。数字を読み、整理し、報告する作業は、自分にできる数少ないことの一つだった。
迷惑をかけない、ではなく、役に立てる。その感覚が、指先にじわりと広がった。
夕食後、リーネは庭に出た。
日が沈みかけて空が赤く染まり、石畳の小道に長い影が伸びている。涼しい風が頬に当たり、草の匂いを運んできた。
小道の段差に足を取られた。身体が前に傾ぐ。
手首を掴まれた。
引き戻される力は強く、けれど乱暴ではなかった。掌が手首を包むように広く、指先には剣だこの硬さがある。夢の中で握られた手と同じ温度が、手首から腕を伝って全身に広がった。
エルヴィンが庭に出ていたことに、リーネは気づいていなかった。彼は手首を掴んだまま、リーネの顔を見下ろしている。夕焼けの赤い光が灰色の瞳に映り込んでいた。
口元が緩んだ。自分でも気づかないうちに、笑っていた。転びかけた気恥ずかしさでも、助けられた安堵でもない。ただ、この手の温度を現実で感じられたことが、どうしようもなく心地よかった。
エルヴィンの呼吸が一瞬途切れた。掴んでいた手首が離れる。彼は一歩下がり、口を開きかけて閉じ、視線を地面に落とした。
「足元が暗い。気をつけろ」
それだけ言って、屋敷に戻っていった。
リーネは手首を反対の手で包んだ。温度が残っている。あの宿場町の朝と同じだ。消えない温度。夢の中の感覚が、現実に浸食してきている。
これは夢の残像だ、と自分に言い聞かせた。この安心感は、毎晩あの食卓で積み重ねてきた記憶が作り出した錯覚だ。
けれど言い聞かせる声が、以前より小さくなっていることに気づいていた。
その夜、夢を見た。
食卓に座っている。向かいの席に、彼がいる。いつもと同じ。けれど今夜、彼が口にした言葉はいつもと違った。
「笑ってくれた」
声が震えていた。低く、静かな声が、抑えきれない何かを含んで揺れている。
目が覚めた。天井を見つめる。
夢の中の彼が、現実の出来事を知っている。庭でリーネが笑ったことを、知っている。夢はただの夢ではなく、現実と繋がっている。今も。
枕元のノートを取り、書いた。「夢の中の彼が現実の出来事に言及。夢と現実が連動している。原因不明。」
ペンを置いた時、扉が叩かれた。
フィオナの声が廊下から聞こえる。
「奥様、少しお話があります」
扉を開けると、フィオナが手に古い一冊の手記を持って立っていた。革の表紙が擦り切れ、角が丸くなっている。
「これは先代の奥様が遺されたものです」
フィオナの目が、リーネの顔をまっすぐに見ていた。
「あの方も、夢を見ていました」
リーネの指が、手記の革表紙に触れた。




