第4話「おかえり、の練習」
「ようこそ、ヴァイデン伯爵邸へ」
声の主は、玄関広間の中央に背筋を伸ばして立つ女性だった。栗色の髪をきちんと結い上げ、侍女長の証である銀の鍵飾りを胸元に下げている。年齢は三十代半ばだろうか。穏やかだが隙のない佇まいで、その目はリーネの顔を、靴の先を、手に持った鞄を、静かに順に辿っていた。
「フィオナ・ベルントと申します。邸内のことは何なりとお申し付けくださいませ」
丁寧な言葉遣いの裏に、品定めをするような慎重さがある。リーネはそれを責める気にはなれなかった。主人が突然連れ帰った契約上の妻を、無条件で歓迎するほうが不自然だ。
「リーネ・フォーゲルです。お世話になります、フィオナ」
頭を下げた。侍女長の目が一瞬だけ細くなったのは、名前で呼ばれたことへの反応だったのかもしれない。
契約書の確認は、執務室で行われた。
窓から午後の光が差し込み、机の上に広げられた羊皮紙の文字を照らしている。インクの匂いが微かに漂う部屋で、リーネの向かいにマルクス・ゼーリヒが座っていた。眼鏡の奥の目は表情を読ませず、羊皮紙を指で示しながら条項を読み上げていく。
「婚姻期間は三年。生活費は伯爵家の家計から支給。離縁は双方合意。子供に関する義務はなし」
一つ一つが、リーネの生活を保障する内容だった。住居、食事、衣服、小遣い。どれも、子爵邸での居候生活では考えられなかったものばかりだ。
「……私に与えられるものが、多すぎるように思います」
声が硬くなったのは、自分でも分かっていた。条件が良すぎる契約には裏がある。前の世界でも、この世界でも、それは変わらない。
マルクスは眼鏡の位置を直し、羊皮紙から目を上げた。
「辺境伯がそう決めました」
それだけだった。補足も弁明もない。事実だけを述べる簡潔さに、この人の性格が透けて見える。リーネはペンを取り、契約書の末尾に署名した。インクが羊皮紙に染みるのを見つめながら、自分の指先が僅かに震えていることに気づいた。
案内された部屋は、二階の東寄りにあった。
扉を開けた瞬間、窓から差し込む光が目に入る。午後の陽光が斜めに射し、床板の上に長い帯を作っていた。
足が止まった。
この光の角度を知っている。夢の中の食卓で、いつも窓から差していた光と同じ方角だ。偶然だろうか。エルヴィン様がそう指示したのだろうか。分からない。分からないが、胸の底がざわついた。
部屋には簡素だが清潔な寝台と、小さな書き物机、衣装棚が置かれていた。子爵邸の物置部屋とは比べようがない。窓辺に立つと、広い庭園の向こうに牧草地が広がり、さらにその先に深い緑の森が見える。
鞄を机の上に置いた。三冊のノートが鞄の底で重なっている。ここが、しばらくの間の自分の部屋になる。
ここにいていいのだと、まだ思えない。
夕食は、食堂と呼ぶには素朴な部屋で取られた。
木の卓に二人分の食器が並んでいる。燭台が一つ、卓の中央に置かれ、蝋燭の炎が揺れるたびに壁に影が踊った。焼いたパンと根菜のスープの匂いが立ち上り、湯気が静かに揺れている。
エルヴィンは先に席に着いていた。リーネが入ってくると顔を上げたが、すぐに視線を卓に落とす。背筋は伸びているのに、肩のあたりにぎこちなさがあった。
リーネは向かいの椅子を引いた。座る。二人の間に、卓の幅だけの距離がある。
沈黙が降りた。
夢の中の彼は、もう少し饒舌だった。間を置きながらもぽつぽつと言葉を選び、食事の感想を言い、時折こちらに問いかけてくれた。目の前のエルヴィンは、スープの皿を見つめたまま唇を引き結んでいる。
「……リーネ」
名前を呼ぶ前に、一瞬の間があった。声が喉の奥に引っかかったような、ためらいを含んだ呼び方。領主会議の席で零れ落ちた時とは違う。意識して、選んで、口にしている。
「スープが冷める」
それだけ言って、エルヴィンは自分のスプーンを取った。
リーネもスプーンを手にした。一口含む。根菜の甘みが舌に広がり、温かい液体が喉を下りていく。宿場町の豆の煮込みともフォーゲル家の冷えた粥とも違う、丁寧に煮込まれた味だった。
二口目を口に運んだ時、向かいで小さく息をつく音が聞こえた。エルヴィンがスプーンを持ったまま、こちらを見ている。リーネが食事に手をつけたことを確認するような、ほとんど無意識の視線だった。
リーネはスープの皿に目を戻した。
夢の食卓と、同じだった。向かいに座る人が、こちらが食べるのを待ってから自分も食べ始める。あの癖と、同じ。
パンを千切る。バターの塩気が口に広がった。エルヴィンもパンに手を伸ばし、同じように千切った。二人の咀嚼の音だけが、静かな部屋に響く。
食事が終わりに近づいた頃、エルヴィンが椅子から立ち上がった。何か言おうとしているのが分かった。口が開きかけて、閉じる。喉仏が動いた。
「……明日も、ここで」
それだけ言って、足早に部屋を出ていった。
扉が閉まった後、廊下の足音が遠ざかっていく。リーネは椅子に座ったまま、空になった向かいの席を見つめていた。
「おかえり」と言いたかったのだろうか。
あの間は、別の言葉を飲み込んだ間だったように思えた。確かめる術はない。けれど夢の中で何百回も交わした挨拶の重みを知っている人が、現実で同じ言葉を口にできずにいる姿が、胸の奥の柔らかい場所を圧した。
皿を重ね、燭台の火を細めようとした時、廊下の向こうに人の気配があった。フィオナが壁に背を預けて立っている。リーネが気づくと、侍女長は小さく頷いて微笑んだ。何も言わなかった。その表情は、朝の品定めとは少し違っているように見えた。
翌朝。
朝食の支度をしようと食堂に向かうと、入口でマルクスと鉢合わせた。手に書類の束を抱えている。
「奥方様、少々よろしいですか」
眼鏡の奥の目が、いつもと同じ無表情でリーネを見ている。けれど手に持った書類の一枚目に、貴族院の紋章が押されているのが見えた。
「貴族院公報に婚姻届が掲載されました。昨日の便で届いたものです」
マルクスの声は淡々としていた。リーネの手が、食堂の扉の取っ手を握ったまま止まる。
「王都にも届く頃です」
掲載から公報が届くまでの時差。辺境から王都への所要日数。あの人が知る。あの人の隣にいる人も知る。王都の社交界が知る。
「……契約ですから」
リーネの声は震えていた。指先が取っ手の上で白くなり、マルクスが差し出した書類の紋章が、朝の光の中で鈍く光っていた。




