第3話「あの食卓にいますか」
足が動かなかった。
広間の空気は石壁に冷やされて重く、蝋燭の油が焦げる匂いが薄く漂っている。数人の領主とその随行者が席に着き始める中、リーネは扉の脇に立ったまま動けずにいた。
あの声が、すぐ近くにある。
広間の奥で、背の高い男が眼鏡の文官と言葉を交わし終えたところだった。文官が一歩下がり、男がゆっくりと視線を入口へ向ける。
目が合った。
男の動きが止まった。文官に向けていた顔がそのままリーネの方に固定され、瞬きすら落ちない。唇が微かに開き、何か言いかけたように見えた。けれど言葉にはならず、その口元が引き結ばれる。
リーネは鞄の取っ手を握り直し、視線を外した。足に力を入れ、末席へ向かう。広間の端と奥。二人の間には領主たちの席が幾つも並び、そのすべてがリーネの席より上座だった。
会議は税収報告から始まった。各領主が順に前年の数字を読み上げ、眼鏡の文官がそれを記録していく。リーネは末席で、フォーゲル子爵領の報告書を手に順番を待った。
議長席の隣に座る男の名は、会議の冒頭で読み上げられた出席者名簿で知った。エルヴィン・クラウス・ヴァイデン。ヴァイデン辺境伯。
声が同じだった。低く、間を置いてから話す癖。語尾を僅かに落とす調子。会議中に二度、三度と発言するたびに、リーネの指先が震えた。ノートに記録した声の特徴が、一つ残らず一致する。
フォーゲル子爵領の報告番が来た。リーネは立ち上がり、声が揺れないように注意しながら数字を読み上げた。読み終えて席に戻る。その間、辺境伯の視線がずっと自分に向けられていることに気づいていた。気づいていたが、応えなかった。
会議後の夕食会は、同じ広間に長卓を据えて行われた。
席順は身分に準じて決まる。末席のリーネから議長席の辺境伯までは遠いはずだった。なのに、食事の皿が並び始めた頃、隣の椅子が引かれる音がした。
石壁に染みついた煤の匂いに混じって、木と草を合わせたような香りがすぐ近くまで来る。
「……失礼する」
辺境伯が、リーネの隣に座った。
周囲の領主たちが怪訝な顔をしているのが視界の端に映る。末席に上座の人間が移ってくるのは、明らかに異例だった。けれど辺境伯は周囲を気にする素振りもなく、リーネとの間に一つ分の椅子の距離を残して腰を下ろした。
沈黙が落ちた。長い沈黙だった。
料理が運ばれてくる。根菜の焼いたものと、薄切りの肉、硬めのパン。リーネはフォークを取り上げたが、手をつけられない。隣に座る人の呼吸が、耳に届く距離にあった。
辺境伯が口を開いた。
「あなたも毎晩、あの食卓にいますか」
フォークが皿に当たり、小さな音を立てた。リーネの手が止まったまま戻らない。
聞き間違いではない。「あの食卓」。他の誰かには意味を持たない言葉。けれどノートに三冊分書き続けた自分には、それが何を指すのか分からないはずがなかった。
共有された夢。前の世界の知識を総動員しても、この現象には名前がない。意識の同調も、集合的無意識の偶然も、ノートに記録された細部の一致を説明しきれない。なのに、この人は知っている。私が毎晩座っている、あの食卓のことを。
「……なぜ」
声がかすれた。リーネは水の杯を取り、一口含んでから言い直した。
「なぜ、そのことをご存じなのですか」
「同じものを見ているからだ」
辺境伯の声は抑えられていたが、その奥にある何かが抑えきれていないように聞こえた。指が卓の上で組まれ、解かれ、また組まれる。
「声を覚えている。毎晩聞いていた。十二年、ずっと」
十二年。リーネが夢を見始めたのは半年前だ。この人は、その遥か前から同じ夢を見ていたということになる。
辺境伯が不意にこちらを向いた。目が合う。濃い灰色の瞳が、蝋燭の光を拾って揺れている。
「リーネ」
名前を呼ばれた。敬称もなく、ただ名前だけが、低い声で零れ落ちた。辺境伯自身が驚いたように一瞬目を見開き、視線を逸らす。
「……失礼した。フォーゲル嬢」
言い直した声は硬かった。けれど最初に零れた呼び方は、夢の中で何度も聞いた響きと重なっている。あの食卓で、向かいの席から聞こえていた、あの呼び方と。
リーネの胸の底で、何かが軋んだ。喉が詰まり、目の奥が熱くなる。
その反応を悟られたくなくて、視線を皿に落とした。焼いた根菜の香ばしい匂いが鼻に届くが、食欲は遠い場所にある。
「俺は十二年、あの声を探していた」
辺境伯の声が続く。
「条件は何でも出す。ただ、同じ食卓に座ってほしい」
契約結婚の提案だった。言葉は簡潔で、修辞も駆け引きもない。条件を示し、求めるものを述べただけの、むき出しの申し出。
リーネのフォークを持つ手が、膝の上に降りた。指先が冷えている。
夢の中の幸福を、現実に持ち込んだらどうなるか。あの食卓が壊れるかもしれない。目覚めるたびに手の中に残っていた温もりが、現実の中で色褪せていくかもしれない。
それが、怖い。
けれど、嬉しいと思ってしまった自分がいる。この声の主が、自分を探していたと知って、胸の底が震えた。その震えを認めてしまったら、もう戻れない。
「……一晩だけ、お時間をいただけますか」
リーネの声は平坦だった。感情を切り離した、事務的な響き。自分でもそれが分かる。これは防衛だ。前の世界で身につけた、壊れないための方法。
辺境伯は黙って頷いた。それ以上何も言わず、静かに自分の皿に向き直った。
隣の席で辺境伯が食事をとる気配がある。フォークが皿に触れる音、パンを千切る音。夢の中で何百回と聞いた、食卓の音だった。
リーネは目を伏せたまま、自分のパンを一口だけ千切った。味はしなかった。
客室に戻ったリーネは、寝台に座ったまま動けなかった。
眠れば夢を見る。夢を見れば、あの食卓に座る。そして今度は、向かいに座る彼の顔を探してしまう。さっき見た灰色の瞳を、夢の中の影に重ねてしまう。
目を閉じることが、怖い。
目を閉じないことも、怖い。
どれほどそうしていたのか分からない。疲労が身体を引き倒し、意識が薄れていった。
食卓が見えた。木の卓。二人分の食器。向かいの席で、彼が笑っている。顔は、まだ見えない。影の中に沈んだ輪郭が、けれど確かに笑みの形をしている。
「来てくれたのか」
声が降る。低く、静かで、安堵を含んだ声。
頬が濡れていた。夢の中で涙が出たのは、初めてだった。拭おうとして手を伸ばしたが、指が頬に届く前に、視界が白く溶けた。
朝の光が瞼を刺す。
目を開けると、枕が湿っていた。涙の跡だ。現実の顔を、現実の涙が濡らしている。
リーネは寝台の上で身体を起こし、しばらく枕の染みを見つめた。
それから鞄を手に取り、部屋を出た。石の廊下を歩く足音が、静かな城砦に響く。辺境伯が滞在している客室は、廊下の反対側だと昨夜のうちに確認していた。
扉の前に立つ。一度深く息を吸い、叩いた。
扉が開くまでの数秒が長かった。
現れた辺境伯は、すでに身支度を整えていた。リーネの顔を見て、目が僅かに見開かれる。
「契約書を見せてください」
リーネの声は、昨夜よりも少しだけ、震えが少なかった。




