第2話「三冊目のノート」
馬車の窓から見える景色が、王都の石畳から麦畑に変わった。
穂先が風に揺れるたび、乾いた草の匂いが車内に入り込む。御者は相変わらず無言で、聞こえるのは車輪の軋みと馬の蹄だけだった。
リーネは膝の上に三冊のノートを広げていた。
一冊目。半年前に書き始めたもの。最初の記録はひどく曖昧だ。「食卓のようなもの。向かいに誰かがいた気がする。声は覚えていない。」それだけ。夢の輪郭すらおぼつかない、ぼんやりとした記述が数ページ続いている。
二冊目に入ると、記述の密度が変わる。食卓の木目、皿の縁の欠け、窓枠の形。料理の湯気が立ち昇る方向。向かいの席の人物は依然として顔が見えないが、声が記録され始めていた。「低い声。落ち着いている。言葉を選ぶように、間を置いてから話す。」
三冊目。直近の記録。食卓の料理の味が書かれている。焼いた根菜の甘さ。パンの皮が割れる音。窓から差す光の角度が季節ごとに変わること。そして声は、もはや他人のものとは思えないほど細部まで刻まれていた。
ノートを閉じ、窓の外に目を向ける。
前の世界の記憶がよぎった。睡眠外来の診察室。棚に並んだ患者のカルテ。繰り返し同じ夢を見る患者は少なくなかった。けれどあれは同じ場面の反復であって、夜ごとに続きが進む夢ではない。毎晩、同じ食卓に座り、同じ相手と食事をし、少しずつ会話が深まっていく。こんな症例は、あの世界のどの文献にも載っていなかった。
ノートの背表紙を指でなぞる。
依存だ、と思った。あの食卓に座ること、あの声を聞くことに、私は依存している。眠ることが怖いのではない。目覚めることが怖い。夢から引き剥がされる瞬間が、毎朝、少しずつ私を削っている。
それを分かっていて、やめられない。
宿場町に着いたのは、日が傾き始めた頃だった。
馬車を降りると、焼けた土と家畜の匂いが混ざった空気が肌にまとわりつく。小さな宿の扉を押すと、中はランプの灯りで薄暗く、竈の煙がうっすらと漂っていた。
帳場に立っていた女将が、リーネの姿を見て目を丸くした。
「おや。領主会議にお越しで?」
「はい。フォーゲル子爵家の代理として参ります」
「まあ……お嬢さんが一人で?」
女将の視線がリーネの旅装を上から下まで辿った。従者もなく、荷物は自分で持ち、護衛の騎士もいない。貴族の令嬢がこの町に一人で現れることが、どれほど不自然かは女将の表情を見れば分かる。
リーネは背筋を伸ばした。
「一部屋お借りできますか」
「ええ、ええ、もちろん。奥のお部屋をお出しします。お食事も用意しますからね」
女将の声は親切だった。けれどその親切さの中に、憐れみに似た何かが混じっているのを、リーネの耳は拾ってしまう。前の世界でも、患者の声色から体調を読み取る癖があった。今はそれが自分に向けられている。
案内された部屋は狭いが清潔だった。子爵邸の物置部屋よりずっと居心地がいい。そのことに気づいて、唇の端が引きつるように動いた。
夕食は竈で焼いたパンと豆の煮込みだった。素朴だが温かく、フォーゲル子爵邸の冷えた粥とは比べものにならない。
食べ終え、部屋に戻り、ランプの芯を落とす。窓の外はもう真っ暗で、虫の声だけが規則的に鳴り続けていた。
寝台に横たわる。毛布を顎まで引き上げ、目を閉じた。
眠りたい。あの食卓に行きたい。その欲求が、身体の奥から湧き上がってくる。止められない。止めたくない。
意識が沈んでいく。
椅子に座っていた。
木の卓。二人分の食器。向かいの席に、彼がいる。顔は見えない。いつものように影に沈んでいて、輪郭だけがぼんやりと揺れている。
けれど今夜は、彼が立ち上がった。
卓を回り込んで、こちらに歩いてくる。足音はしない。夢の中にはいつも音がないのに、声だけは聞こえる。その不均衡さが、意識の端に引っかかる。
彼がリーネの前に立った。そして手を伸ばし、リーネの右手を取った。
指先に、温度が伝わった。
夢の中の感覚は曖昧なはずだ。視覚も聴覚も現実とは違う質感で届く。なのに、この手の温度だけは明瞭で、ひどく具体的だった。大きな手。乾いた掌。指の関節が少しごつごつしている。
「待っていた」
声が降ってきた。低く、静かで、ほんの僅かに震えを含んでいる。
リーネは何か言おうとした。けれど声が出ない。夢の中で自分の声が出ないことは、これまでにもあった。代わりに握り返すことだけが、今の自分にできるすべてだった。
指に力を込める。彼の手が、応えるように握り返される。
その温度が、腕を伝って胸の奥まで広がっていく。
目が覚めた。
天井に虫の影が揺れている。ランプはとうに消えていた。窓から薄い月明かりだけが差し込んでいる。
右手を顔の前に持ち上げた。
温かい。
毛布の中で握りしめていたわけではない。手は開いたまま、寝台の上に置かれていた。なのに掌の芯に、あの温度が残っている。指の関節が触れていた感触が、皮膚の上にまだある。
深い眠りの中で見た夢の感覚は、覚醒とともに消えるのが正常だ。触覚であればなおさら、目覚めてから数秒で薄れるはずだった。それが消えていない。
掌を握り、開く。もう一度握る。温度は変わらない。
これは、夢ではない。
夢として処理できる範囲を、とうに超えている。同じ食卓が毎晩現れ、夜ごとに続きが進み、声が鮮明になり、そして今、手の温度が現実に残った。前の世界の知識でも、この世界の常識でも、説明がつかない。
それでも。
あの声を、もう一度聞きたい。
あの手を、もう一度握りたい。
説明がつかないことと、求めることをやめられないことは、別の問題だった。ノートを手に取り、ペンを握る。「手の温度。覚醒後も残存。消失せず。」書き終えた文字が、ランプのない部屋の中で白く浮かんでいた。
翌朝。
宿を発ち、馬車は緩やかな丘陵を越えた。午前の光の中に、石造りの城砦が見えてくる。領主会議の会場だ。辺境の領主たちが集まる、古い砦の広間。
馬車が門の前で止まる。御者に礼を言い、鞄を持って降りた。門番に領主会議の代理参加を告げ、通用口から広間へ向かう。
石の廊下は冷たく、足音が響いた。広間に通じる扉が開いている。中から複数の声が漏れていた。すでに何人かの領主が到着しているらしい。
扉をくぐり、広間に足を踏み入れた瞬間だった。
声が聞こえた。
低く、短く、誰かに指示を出している声。言葉の内容は聞き取れない。けれど声の質が、音の粒が、鼓膜に届いた瞬間に全身の血が止まった。
あの声だ。
毎晩、食卓の向かいで聞いていた声。「待っていた」と言った声。昨夜、手を握りながら震えていた声。
足が動かなくなった。鞄の取っ手を握る指が白くなり、呼吸が浅く速くなっていく。広間の空気が急に重くなったように感じた。
声の主は、広間の奥にいた。長身の男が、隣に立つ眼鏡の文官に何かを伝えている。こちらには背を向けたままだった。
リーネの唇が、かすかに動いた。声にはならなかった。
鞄の中で、三冊のノートが重さを主張している。




