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契約結婚の相手と夢で先に恋をしていました  作者: 月雅


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第10話「おかえり」

「おかえり、リーネ」


朝の食堂に、その声が自然に響いた。


エルヴィンは椅子に座ったまま顔を上げ、扉から入ってきたリーネを見ていた。ためらいも、言い直しも、声の手前で立ち止まることもない。ただ当たり前のように、名前を呼んだ。


「ただいま、エルヴィン様」


リーネは向かいの席に座った。卓の上にはパンと目玉焼き、林檎の花の茶が二人分並んでいる。窓から朝の光が差し込み、湯気を白く浮かび上がらせていた。


パンを千切り、口に運ぶ。小麦の素朴な甘さが舌に広がった。向かいの席でエルヴィンが同じようにパンを千切る音が聞こえる。かつて夢の中でだけ聞いていた音が、今は毎朝ここにある。


朝食の後、リーネは自室の書き物机に向かった。


三冊のノートが引き出しの中に並んでいる。その最後の一冊を取り出し、最後の頁を開いた。ペンを取り、書く。


「昨夜、夢を見た。普通の夢だった。食卓はなかった。目が覚めて、隣に寝息が聞こえた。夢より温かかった。」


書き終えたペンを置いた。インクが紙に染み込むのを見つめ、ノートを閉じた。三冊の背表紙を指で順に撫でる。一冊目の擦り切れた角。二冊目の折り癖。三冊目の、最後の頁。


引き出しにしまい、鍵はかけなかった。


午前、リーネとエルヴィンは領地の朝市に出向いた。


広場には露店が並び、野菜や果物の鮮やかな色が朝日に照らされている。焼き立てのパンの香り、家畜の鳴き声、荷車の車輪が石畳を転がる音。辺境の朝はいつも賑やかだった。


「奥様、今朝の蜂蜜はいかがですか。今年は花の出来がいいですよ」


露店の男がリーネに声をかけた。リーネは足を止め、壺の中の蜂蜜を覗き込んだ。琥珀色の液体に朝日が反射して光っている。


「いただきます。厨房の常備用に」


「毎度ありがとうございます、奥様」


エルヴィンはリーネの半歩後ろに立ち、広場を見回していた。領民がすれ違いざまに頭を下げ、エルヴィンが短く頷き返す。その横でリーネが露店の品を選び、領民と言葉を交わしている姿を、彼は黙って見ていた。


帰り道、並んで歩きながら、エルヴィンが口を開いた。


「蜂蜜、好きなのか」


「喉にいいから常備しているだけですよ」


「……毎回、嬉しそうに選んでいる」


リーネは足を止めかけ、そのまま歩き続けた。頬に朝の風が当たり、少しだけ温度が上がったのを感じた。


午後。マルクスが執務室にリーネを呼んだ。


机の上に広げられた帳簿と報告書。マルクスは眼鏡の蔓を指で押さえながら、数字を指し示した。


「奥方様が提案された王都商会との直接契約の件です。初年度の成果が出ました。辺境伯領の交易収入が前年比で改善しています」


数字を追う。中間手数料の圧縮分がそのまま利益に転じている。想定通りの数字だった。


「奥方様の功績です」


マルクスの声は相変わらず事務的だったが、報告書をリーネの前に差し出す手つきが、いつもより丁寧に見えた。


「マルクス殿のお力添えあってのことです」


「私は数字を整理しただけです。構想は奥方様のものだ」


それ以上は何も言わず、マルクスは帳簿を閉じた。リーネは一礼して執務室を出た。


夕方、自室にフィオナが訪ねてきた。


手に持っているのは、先代夫人の手記だった。あの革表紙。擦り切れた角。フィオナがリーネの前にそっと差し出した。


「もう必要ないでしょう」


リーネは手記を受け取った。革の感触が掌に馴染む。この手記がなければ、夢渡りの伝承を知ることはなかった。あの食卓の意味を理解することも、自分の心の変化を受け入れることも。


「大切に保管します。この手記がなければ、私は夢渡りを理解できませんでした」


フィオナは微笑んだ。出会った日の品定めの目はもうどこにもなく、その代わりに深い信頼が静かに宿っていた。


「先代の奥様も、お喜びになるでしょう」


一礼して、フィオナが部屋を出ていった。リーネは手記を三冊のノートの隣に並べた。四冊の記録が、引き出しの中で静かに並んでいる。


夕食の席。


木の卓。二人分の食器。蝋燭の灯りの中、焼いた魚と根菜の温かな匂いが漂っている。いつもの食堂、いつもの椅子。


エルヴィンが魚の骨を丁寧に外しながら、ふと手を止めた。


「今日の夢の記録は」


リーネはスプーンを置いた。


「記録するような夢は、もう見ていません」


エルヴィンの視線が卓の上からリーネの顔に移った。蝋燭の光が灰色の瞳の中で小さく揺れている。


「……寂しいか」


「いいえ」


リーネは卓の上に手を伸ばした。エルヴィンの手に、自分の手を重ねる。掌の温度が伝わってくる。剣だこの硬さも、指の節の形も、触れるたびに少しずつ馴染んできた手だった。夢の中で初めて握られた夜とは違う。あの時は驚きと切望だけがあった。今あるのは、毎日の食卓で積み重ねた、静かな確かさだった。


「現実の方が、夢より温かいと知ってしまったので」


エルヴィンの指が動いた。不器用に、けれど確かに、リーネの手を握り返す。力の加減が分からないのか、一度強く握ってから少し緩め、またそっと握り直した。


暖炉の火が揺れた。窓の外に、辺境の夕焼けが広がっている。牧草地の上に伸びる長い影が、だんだんと薄くなっていく。


「おかえり」


「ただいま」


もう夢ではない。


その夜、リーネは眠りに落ちた。普通の夢。花が咲いている野原を歩く、穏やかな夢。食卓はなかった。


けれど夢の片隅に、小さな食卓が見えた気がした。木の卓。食器が並んでいる。椅子は二つではなく、三つだった。


リーネは眠ったまま、微笑んでいた。朝の光が窓から差し込み、隣で規則正しい寝息が聞こえている。


(完)


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