第1話「目覚めたくない朝」
「また、あの夢だった。」
目を開けた瞬間、食卓の温もりが指先から剥がれていく。焼きたてのパンの香り、窓から差し込む夕暮れの光、向かいの席に座る誰かの気配。すべてが薄れて、残ったのは天井の染みと、毛布一枚では防げない早朝の冷気だけだった。
リーネは身体を起こし、枕元のノートを手に取った。三冊目。表紙の角はすでに擦り切れている。
ペンを走らせる。日付、入眠時刻、覚醒時刻。夢の内容を書き留めていく手は淀みない。食卓、二人分の食器、窓の位置、声の調子。今夜の声はいつもより近かった。何か言いかけて、やめたような間があった。
ペンが止まる。
深い眠りからそのまま夢に入っている。浅い眠りを経ずに、あの食卓に座っていた。前の世界で睡眠外来に勤めていた頃、何百もの患者の夢日記を読んだ。けれどこんな入り方をする夢は、あの頃の記録にも文献にもなかった。
ノートを閉じ、鞄の底にしまう。三冊のノートが重なる厚みを、指で確かめた。
朝食の席は、廊下の突き当たりにある小さな部屋だった。使用人たちが食事をとる部屋と同じ卓、同じ椅子。皿の上には硬くなったパンと薄い粥。
廊下の向こうから足音が近づき、ディルク・フォーゲルが姿を見せた。寝巻きの上に羽織りものを引っかけただけの格好で、リーネの姿を認めると眉をひそめる。
「……まだいたのか」
声が小さいのは寝起きのせいだろう。けれど顔を背けて通り過ぎようとする所作に、遠慮というものはなかった。リーネは席を立ち、軽く頭を下げた。
「おはようございます、ディルク様。ご体調はいかがですか」
「咳が止まらん。昨夜も眠れなかった」
ディルクは答えながらリーネの方を見なかった。卓上のパンを一瞥し、舌打ちのような音を喉の奥で鳴らす。
「それと、話がある。領主会議の件だ」
「領主会議、ですか」
「来月のは俺が出るつもりだったが、この体では無理だ。代理で行ってくれ。フォーゲルの名前で席がある以上、誰か出さねば格好がつかん」
押し付ける、という言い方すらしない。当然のことを伝えているだけの口調だった。リーネの指先が、膝の上で一瞬だけ強く握られる。
「……承知しました」
断る理由がなかった。ここに残ったところで、この屋敷での自分の居場所は、物置を片付けて作った小部屋と、使用人と同じ食卓の端だけだ。
ディルクは「ああ」とだけ返し、廊下の奥へ消えた。
部屋に戻り、出発の支度を始める。荷物は少ない。着替えが二着、父の残した信託の受取証、母の形見の小さなブローチ。それから三冊のノート。
旅装に着替えながら、窓の外に目をやった。フォーゲル子爵邸の庭は手入れが行き届いていない。父が生きていた頃は違った。あの頃の庭には季節ごとの花があり、父の書斎には蔵書が溢れ、食卓にはいつもリーネの席があった。
今、この家にリーネの席はない。
鏡に映る自分の顔を見た。顔色が悪い。目の下に影がある。前の世界で看護師をしていた頃の自分が見たら、真っ先に「ちゃんと眠れていますか」と聞くだろう。眠れてはいる。ただ、眠るたびにあの食卓に引き戻される。目覚めるたびに、ここに帰される。
どちらが夢なのか、時々わからなくなる。
階下で使用人の声がした。荷運びの馬車が来たらしい。
廊下を歩きかけたとき、玄関脇の小卓の上に、見慣れない印刷物が置かれていた。号外だ。使用人の誰かが受け取ったのだろう。
手に取る。
ホーエン侯爵家嫡男アルベルト・ランツェ・ホーエンとヴィルト伯爵家令嬢セレナ・ヴィルトの婚約が正式に発表された、と書かれていた。
文字を追う目が、途中で止まる。止まったまま、動かない。
あの夜のことが、喉の奥からせり上がってくる。
侯爵邸の応接室。磨き上げられた床。向かいに座るアルベルト様の柔らかな声。隣に立つ、華やかな装いの女性。
「君は侯爵家には相応しくない」
五年だった。五年間、侯爵夫人に相応しい自分になろうと努力した。帳簿の管理を覚え、社交の作法を磨き、領地の収支に目を通した。それでも「地味すぎる」と言われた。
思い出したのは、その少し前のこと。夜会の片隅で耳に入った、誰かの声。
「あの方には侯爵家の華やかさは荷が重いのでは」
振り返ったとき、声の主は人混みに紛れていた。けれど笑い声の残響と、かすかに漂う甘い香水の方角に、見覚えのある横顔がちらりと見えた気がした。気がしただけだ。確かめようがなかった。
その噂は、それから何度も形を変えてリーネの耳に届いた。
号外を卓に戻す。指先が冷たかった。
紙面の片隅に、もうひとつ記事があった。ホーエン侯爵領の半期収支が貴族院の基準を下回り、是正勧告が出されたという短い報告。リーネが婚約中に整理していた帳簿は、今、誰が管理しているのだろう。
考えても仕方がない。もう関わりのないことだ。
号外を元の位置に置き、玄関へ向かった。
馬車は小さく、座面は硬かった。御者は子爵家の下男で、リーネに話しかけてくることはない。
鞄の中で三冊のノートが揺れている。その重さだけが、今の自分に確かなものだった。
車輪が石畳を離れ、土の道に変わる。王都の喧騒が遠ざかり、窓の外に麦畑が広がり始めた。
目を閉じる。
今夜も、あの食卓に座れるだろうか。
あの声を、聞けるだろうか。
眠りに落ちる境目は、いつも曖昧だ。気がつけば、椅子に座っていた。木の卓。向かいの席に、影のような輪郭。顔は見えない。いつも見えない。
けれど声が聞こえた。低く、静かで、少しだけ緊張を含んだ声。
「もうすぐ、会える気がする」
心臓が跳ねて、目が覚めた。
馬車の天井が揺れている。窓の外はもう暗い。自分の手が胸の上に置かれていて、その下で脈が速く打っていた。
今の声が、近かった。夢の中の距離ではなく、すぐ隣で囁かれたような近さで、鼓膜がまだ震えている。
鞄からノートを引き出し、揺れる馬車の中でペンを握った。
「声。これまでで最も近い。距離が縮まっている」
書き終えた文字を見つめる。ペン先が紙の上で止まったまま、馬車は辺境へ向かって走り続けていた。




