第7話「騎士たちの困惑と覚醒の光」
アルヴィンが屋敷を出て行ってから、数時間が経過していた。
王都全体に鳴り響く警鐘の音は止んだものの、屋敷の中は依然としてピリピリとした緊張感に包まれていた。
リアンはベッドの中で膝を抱え、窓の外を見つめていた。
厚いカーテンの隙間から見える空は暗く、星も見えない。
不安だ。
アルヴィンは少し出かけると言ったけれど、あの険しい表情と、廊下を走る足音の慌ただしさは尋常ではなかった。
何か大変なことが起きているのではないか。
じっとしていられず、リアンは布団を跳ね除けた。
足元で寝ていたポチが驚いて顔を上げる。
「ごめん、ポチ。ちょっと様子を見てくるよ」
リアンは着替えを済ませると、部屋を出ようとした。
しかし、ドアノブに手をかけた瞬間、強い目眩が襲ってきた。
視界が揺れ、膝から崩れ落ちそうになる。
熱い。
体の芯から湧き上がるような熱が、思考を鈍らせる。
呼吸が荒くなり、甘い溜息が漏れる。
「っ……はぁ……」
壁に手をついてなんとか堪える。
じわじわと血脈を這い回る熱っぽい感覚が、正常な判断力を真っ白に塗りつぶしていく。自分の肉体が勝手に未知の存在へと作り替えられていく恐怖に、リアンは震える唇を固く噛み締めた。
これが風邪や病気ではないことは、薄々気づき始めていた。
今まで感じたことのない感覚。
肌が敏感になり、服が擦れるだけで電流が走るような刺激を感じる。
そして、鼻腔の奥にこびりつく、あの人の香り。
アルヴィンの匂いを求めている自分がいる。
(おかしい……俺、どうしちゃったんだろう)
恐怖と羞恥心がない交ぜになり、涙が滲む。
それでも、じっとしてはいられなかった。
アルヴィンが心配だ。
もし彼が危険な目に遭っていたら。
その一心で、リアンは重い体を引きずりながら廊下へと出た。
***
1階へ降りると、エントランスホールは無人だったが、外からは複数の気配が感じられた。
屋敷の正面にある広場、そこは騎士団の訓練場にもなっている場所だ。
窓から覗くと、篝火の灯りの中に、数十人の騎士たちが集まっているのが見えた。
中心にいるのはアルヴィンではない。副団長の男だ。
彼らは何やら深刻な顔で話し込み、時折、大きな檻のようなものを囲んで騒いでいる。
檻の中からは、耳をつんざくような咆哮が聞こえてきた。
魔獣だ。
それも、かなり凶暴な種類のものらしい。
リアンはふらつく足取りで玄関を出た。
夜風が熱った頬に心地よい。
近づくにつれ、騎士たちの声がはっきりと聞こえてくる。
「くそっ、鎮静剤が効かないぞ!」
「暴れすぎだ! このままじゃ檻が壊れる!」
「団長は王宮へ報告に行かれた! 我々だけでなんとか抑えるんだ!」
檻の中には、巨大な黒い狼型の魔獣がいた。
全身からどす黒い瘴気を放ち、赤い目を血走らせて暴れ回っている。
その迫力に、屈強な騎士たちでさえ尻込みしていた。
リアンは思わず駆け寄ろうとした。
「あ……」
その時、足元の砂利を踏む音が響いた。
騎士たちが一斉に振り返る。
「誰だ!?」
「一般人は立ち入り禁止だぞ!」
鋭い声が飛んでくる。
リアンはビクリと立ち止まった。
自分の姿は、彼らの目にはどう映っているのだろう。
病み上がりで顔色は悪く、着ているのは部屋着のような軽装。
しかも、足元には白い子犬のポチがちょこんと座っている。
場違いにもほどがある。
「す、すみません……あの、アルヴィン様は……」
消え入りそうな声で尋ねるが、魔獣の咆哮にかき消されてしまう。
その時、檻の中の魔獣が、ドンッと激しい音を立てて鉄格子に体当たりした。
留め金が悲鳴を上げ、ひしゃげる。
「まずい! 逃げるぞ!」
「総員、構え!」
騎士たちが剣や杖を抜く。
鋼の刃が一斉に鞘から解き放たれる鋭い金属音と共に、夜の空気に決定的な殺意が走った。獣の硬い爪が鉄格子を削る不快な音、風に乗って押し寄せる獣特有の異臭と、これまでの乱闘で流れた血と土煙の生々しい匂いが鼻を突く。一歩間違えれば首を食いちぎられる命の危機がすぐそばにある絶対的な緊迫感の中で、騎士たちの額には焦燥の汗が浮かんでいた。
殺気立った空気が場を支配する。
リアンはその光景を見て、恐怖よりも先に悲しみを感じた。
あの魔獣は怒っているのではない。
怯えているのだ。
何かに追われ、傷つき、パニックになっている。
その感情が、痛いほど伝わってくる。
「待ってください! 攻撃しないで!」
リアンは叫んだ。
騎士たちが驚いてリアンを見る。
「何言ってるんだ! 危ないから下がれ!」
副団長が怒鳴るが、リアンは止まらなかった。
ふらふらと、しかし確かな足取りで檻に近づいていく。
ポチもリアンの横に並び、小さな体で魔獣を見据えている。
「やめろ! 死にたいのか!」
騎士の一人が止めようと手を伸ばしたが、リアンの体から発せられる不思議な気配に、思わず手を引っ込めた。
甘く、清冽な香り。
そして、目に見えない光の粒子のようなものが、彼の周りに舞っている。
それは精霊の加護だった。
無自覚なオメガの覚醒に加え、リアンの特異体質である「精霊愛され」が、極限状態で発動していたのだ。
檻の前まで来たリアンは、ゆっくりと手を伸ばした。
魔獣が牙を剥き、彼の喉元を狙う。
騎士たちが息を呑む。
しかし、その牙が届く寸前で、魔獣の動きが止まった。
リアンの瞳が、月明かりを受けて神秘的に輝いている。
「……怖くないよ。大丈夫だから」
優しい声。
それは言葉というより、心に直接響く歌のようだった。
リアンは鉄格子の隙間から手を差し入れ、魔獣の鼻先に触れた。
騎士たちは絶句した。
あの凶暴な魔獣が、まるで魔法にかかったように大人しくなり、リアンの手に擦り寄っているのだ。
荒い呼吸が落ち着き、赤い瞳から狂気が消えていく。
甘えるような声。
リアンは微笑み、魔獣の頭を撫でた。
「いい子だね。もう痛くないよ」
その瞬間、魔獣の体から黒い瘴気が霧散し、本来の美しい毛並みが現れた。
周囲に漂っていた殺伐とした空気が、一気に浄化されていく。
騎士たちは剣を下ろし、呆然と立ち尽くしていた。
これはテイマーの技ではない。
もっと根本的な、魂の対話だ。
「……信じられん」
副団長がつぶやいた。
「あれはランクAの魔獣だぞ。それを、触れるだけで……」
ざわめきが広がる中、リアンは力が抜けたようにその場に座り込んだ。
急激な疲労感と、再びぶり返した熱が体を襲う。
視界が暗転しかけたその時。
「リアン!!」
聞き慣れた、焦燥に満ちた声が響いた。
アルヴィンだ。
王宮から戻ってきた彼は、馬から飛び降りるなり、リアンの元へ駆け寄った。
「何をしている! 部屋から出るなと言っただろう!」
怒声と共に、リアンの体を抱き上げる。
その腕は力強く、温かかった。
「あ、アルヴィン様……」
リアンは安心して、そのまま意識を手放した。
アルヴィンの腕の中で、深い眠りに落ちていく。
最後に見たのは、アルヴィンの瞳に浮かぶ、見たこともないほどの必死な色だった。




