第6話「巣ごもりと予期せぬ来訪者」
翌朝。
アルヴィンが朝食の席で待っていても、リアンは現れなかった。
いつもならとっくに起きている時間だ。
胸騒ぎがしたアルヴィンは、執事の制止も聞かずに2階へ駆け上がった。
「リアン! 入るぞ!」
返事を待たずにドアを開ける。
部屋の中は薄暗かった。カーテンが閉め切られ、異様な静けさが漂っている。
そして、ベッドの上には異様な光景があった。
毛布、シーツ、クッション、さらにはリアンの着替えまでが、まるで鳥の巣のように積み上げられている。
その中心で、リアンが小さく丸まって眠っていた。
そばにはポチが寄り添い、警戒した目でこちらを見ている。
「……これは」
アルヴィンは息を呑んだ。
間違いなく「巣」だ。
オメガが本能的に作る、最も安心できる場所。
つまり、リアンはオメガとして覚醒しつつあるということだ。
部屋中に満ちている甘い香り。
昨夜よりも濃厚で、熟れた桃のような芳醇な匂いが鼻をつく。
アルヴィンの理性が警鐘を鳴らす。
今すぐここを離れろ、と。
しかし、本能は逆を叫んでいた。
俺の番だ。今すぐ抱いてマーキングしろ、と。
アルヴィンは拳を固く握りしめ、爪が掌に食い込む痛みで正気を保った。
ゆっくりとベッドに近づく。
リアンの顔は赤く上気し、苦しそうに呼吸をしている。
「リアン……」
そっと額に手を触れると、驚くほど熱かった。
発熱だ。覚醒に伴う知恵熱のようなものだろう。
リアンがうっすらと目を開ける。
潤んだ瞳がアルヴィンを捉え、焦点が合わないままぼんやりと見つめる。
「……アルヴィン、さま?」
掠れた声が、アルヴィンの理性を削る。
「ああ、俺だ。気分はどうだ」
「あつい……体が、変なんです……。まるで自分の体じゃないみたいで、頭の芯がどろどろに溶けてしまいそうで……怖い」
リアンは涙目で訴える。自身から放たれる甘い匂いが、容赦なく自分の思考を甘く痺れさせ、残されたわずかな理性すらも熱い泥の中に沈めていくようだった。
「なんか、寂しくて……ここにいないと、怖くて……」
巣から出られないのだ。
アルヴィンは胸が締め付けられる思いだった。
何も知らないリアンにとって、この体の変化は恐怖でしかないだろう。
「大丈夫だ。俺がついている」
アルヴィンは優しく頭を撫でた。
その手つきは、ポチを撫でるリアンのそれと同じくらい慈愛に満ちていた。
リアンはアルヴィンの手に頬をすり寄せた。
「……いい匂い」
無意識の言葉。
アルヴィンのフェロモンを求めているのだ。
限界だった。
アルヴィンは思わずリアンを抱きしめそうになったが、寸前で踏みとどまった。
今手を出せば、ただの獣と同じだ。
リアンを大切にするなら、まずは医者を呼ぶべきだ。それも、信頼できる口の堅い医者を。
「待ってろ。すぐに楽にしてやる」
アルヴィンは後ろ髪を引かれる思いで部屋を出ようとした。
その時、ポチが短く吠えた。
振り返ると、ポチが何かを咥えて持ってきた。
それは、アルヴィンが昨日置き忘れたハンカチだった。
ポチはそれをリアンの枕元に置く。
リアンは無意識にそのハンカチを掴み、鼻を埋めて深呼吸をした。
表情が和らぎ、安らかな寝息を立て始める。
アルヴィンは呆然とした。
自分の匂いがついたハンカチで安心するなんて。
それはつまり、リアンが本能的に自分を求めているという証拠ではないか。
喜びと、背徳感と、愛おしさが綯い交ぜになり、アルヴィンは壁に手をついてうなだれた。
「……勘弁してくれ」
***
その日の午後、騎士団専属の医師が屋敷を訪れた。
アルヴィンの旧友でもあるベータの医師、◆クラウスだ。
診察を終えたクラウスは、リビングで待つアルヴィンに深刻な顔で告げた。
「間違いなくオメガの覚醒兆候だ。しかも、かなり強い反応が出ている」
「やはりか」
「本来なら10代前半で来るはずのものが、今まで抑制されていた反動で一気に来ている。このままだと、数日以内に本格的なヒートが来るぞ」
クラウスは眼鏡の位置を直しながら続けた。
「問題は、彼が自分をベータだと思い込んでいることだ。心の準備ができていない状態でヒートを迎えるのは精神的な負担が大きい」
「どうすればいい」
「薬で一時的に抑えることはできるが、根本的な解決にはならない。一番いいのは……番を作ることだが」
クラウスは意味ありげにアルヴィンを見た。
「お前、彼を狙ってるんだろ?」
「……うるさい」
「図星か。なら話は早い。彼とお前は相性がいいはずだ。フェロモンの波長が合っている」
アルヴィンは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「無理強いはしたくない。あいつは俺を借金取りの悪徳騎士だと思っているんだぞ」
「なんだその設定は。お前の不器用さも大概にしろよ」
クラウスは呆れたように笑った。
「まあ、とにかく今は安静にさせることだ。刺激を与えないように。特に他のアルファには絶対に会わせるな」
「わかっている」
***
その夜、リアンの熱は少し下がったが、巣からは一歩も出てこなかった。
アルヴィンは夕食のトレイを持って部屋に入った。
「リアン、少しは食べられるか?」
リアンは毛布から顔だけ出して頷いた。
アルヴィンはベッドの端に座り、スープをスプーンですくって口元へ運んだ。
「あーん」
「……自分で食べられます」
「いいから口を開け」
恥ずかしそうに口を開けるリアン。
小鳥に餌を与えるような感覚に、アルヴィンは奇妙な満足感を覚えた。
これが「過保護」というやつか。悪くない。
食事が終わると、リアンはもじもじしながら言った。
「あの……ご迷惑をおかけして、すみません」
「迷惑なものか。病人の世話をするのは家主の義務だ」
「でも……仕事もしないで、こんな……」
「仕事の話は忘れろ。今は治すことだけ考えろ」
アルヴィンはリアンの乱れた前髪を指で梳いた。
その指先が触れた瞬間、リアンがビクリと震え、顔を赤くした。
「ど、どうした?」
「な、なんでもないです! ただ、ちょっと……くすぐったくて」
リアンは嘘をついた。
本当は、触れられた場所から熱が広がって、頭が真っ白になりそうだったのだ。
アルヴィンの指は魔法のように心地よく、もっと触れてほしいと体が訴えていた。
その時、廊下から騒がしい声が聞こえてきた。
「団長! 大変です! 緊急招集がかかりました!」
部下の騎士の声だ。
アルヴィンの顔が一瞬で騎士団長のそれに変わる。
「……チッ、こんな時に」
舌打ちをして立ち上がる。
「リアン、俺は少し出かける。絶対に部屋から出るなよ」
「は、はい……」
アルヴィンは後ろ髪を引かれながら部屋を出て行った。
残されたリアンは、急に部屋が寒くなったように感じた。
アルヴィンがいなくなると、寂しさが波のように押し寄せてくる。
ポチが心配そうに擦り寄ってくるが、心の穴は埋まらない。
窓の外では、遠くで警鐘の音が鳴り響いていた。
王都に何かが迫っている。不穏な空気が、平穏な日々を侵食し始めていた。




