第5話「甘い香りと歪な三角関係」
屋敷での生活は、思いがけず賑やかなものとなった。
ポチと名付けられた白い毛玉は、リアンの影法師のようにどこへ行くにもついて回った。
朝、リアンが目覚めると、枕元には必ずポチの温かい重みがある。
庭を散歩すれば足元をチョロチョロと走り回り、図書室で本を読んでいる時は膝の上で丸くなって眠る。
その愛らしさに、リアンの心は日々癒やされていった。
使用人たちも、最初は「野良犬なんて」と眉をひそめていたが、ポチが粗相をせず、無駄吠えもしない賢い犬だとわかると、次第に態度を軟化させた。
何より、リアンがポチを抱いて微笑む姿があまりにも絵になるため、屋敷中の人間がその光景にほだされてしまったのだ。
だが、一人だけ面白くない人物がいた。
アルヴィンだ。
***
ある日の夕食後。
暖炉の火が爆ぜるリビングで、アルヴィンは新聞を読みながら、ちらちらとリアンの方を見ていた。
リアンはソファに座り、ポチの背中を丁寧にブラッシングしている。
「気持ちいいか? ここ、痒かったんだろ?」
ポチがとろけそうな顔で喉を鳴らす。
リアンの細い指が、白い毛並みに埋もれていく。その手つきは優しく、慈愛に満ちている。
アルヴィンは持っていた新聞を握りつぶしそうになった。
(……なんだあの犬は)
ただの犬ではないことは百も承知だ。伝説の神獣フェンリルの幼体。
本来なら国宝級の扱いを受けるべき存在が、あられもない姿で腹を見せている。
それだけならまだいい。問題は、その視線だ。
ポチが時折、チラリとアルヴィンの方を見るのだ。その金色の瞳には、明らかに勝ち誇ったような色が浮かんでいる。
いいだろう、この特等席は僕のものだ、とでも言いたげな挑発的な眼差し。
そして、リアンに擦り寄るその仕草。あざといほどに計算された甘え方。
アルヴィンの中に、どす黒い嫉妬の炎が燃え上がる。
まさか犬に嫉妬する日が来るとは思わなかった。
しかも、相手は神獣だ。下手に手を出せば国が滅ぶかもしれない。
だが、リアンを独占したいという欲求は、理性で抑え込めるものではなかった。
「……リアン」
低く呼びかけると、リアンがビクッとして顔を上げた。
「は、はいっ!」
その反応に、アルヴィンは胸が痛んだ。
まだ怯えさせている。
ポチにはあんなに甘い笑顔を見せるのに、自分には緊張した顔しか見せない。
その事実が、アルヴィンの焦燥感を煽る。
「……その犬、甘やかしすぎじゃないか?」
苦し紛れに出た言葉は、あまりにも子供じみていた。
「え? そ、そうでしょうか……?」
リアンは困ったようにポチを見る。
「まだ子供ですし、怪我も治りかけだから、優しくしてあげないと……」
「躾が必要だと言っているんだ」
アルヴィンは立ち上がり、リアンの元へ歩み寄った。
ポチが警戒して身を起こす。
小さな喉から低い威嚇音が漏れる。
アルヴィンはそれを無視して、リアンの隣に座った。
ソファが沈み込み、二人の距離が縮まる。
アルヴィンの体から漂う、森の奥深くを思わせる冷涼な香りと、微かな硝煙の匂い。
それがリアンの鼻腔をくすぐり、心臓がトクンと跳ねる。
「あ、あの……アルヴィン様?」
「……お前もだ」
「え?」
「お前も、痩せすぎだと言っただろう。もっと食え」
そう言って、サイドテーブルにあったクッキーの皿をリアンに押し付ける。
支離滅裂な会話だ。
でも、アルヴィンはただリアンに構いたいだけだった。
リアンはおずおずとクッキーを1枚手に取った。
「ありがとうございます……」
サクサクと音を立てて食べるリアンを、アルヴィンは横目でじっと見つめる。
長いまつげが伏せられ、薄い唇が動く。
その無防備な横顔に見惚れながら、アルヴィンは心の中で葛藤していた。
(抱きしめたい。触れたい。俺だけのものにしたい)
アルファとしての本能が暴れだしそうになる。
しかし、リアンはまだ自分を借金取りの怖い人だと思っている。
ここで強引に迫れば、決定的に嫌われてしまうかもしれない。
それに、リアンからは不思議な匂いがした。
ベータのはずなのに、時折、甘く熟れた果実のような香りが漂ってくるのだ。
特に、ポチと一緒にいる時や、リラックスしている時に強くなる。
これはオメガのフェロモンに似ているが、もっと純粋で、原始的な何かを感じさせる。
(もしかして……覚醒しかけているのか?)
アルヴィンの表情が険しくなる。
もしそうだとしたら、事態は深刻だ。
未覚醒のオメガが成人の儀を過ぎてから覚醒する場合、その反動で強烈なヒート(発情期)が来ることがある。
しかも、リアンは無自覚だ。
この屋敷には強力な結界があり、外部のアルファには気づかれないようになっているが、万が一外に出れば。
アルヴィンの背筋が凍る。
無防備なリアンが、街中のアルファたちに襲われる光景が脳裏をよぎる。
「……絶対に出すものか」
思わず漏れた言葉に、リアンが不思議そうに首を傾げた。
「何か言いましたか?」
「いや、なんでもない。……早く寝ろ」
アルヴィンは逃げるように立ち上がった。
これ以上そばにいると、理性が焼き切れてしまいそうだったからだ。
***
その夜、リアンは奇妙な夢を見た。
誰かに強く抱きしめられる夢だ。
熱くて、苦しくて、でもどこか懐かしい温もり。
耳元で囁かれる愛の言葉。
愛している。俺のものだ。離さない。
その声はアルヴィンによく似ていた。
目が覚めると、リアンは汗びっしょりになっていた。
体の中が熱い。まるで自分の中に別の生き物が巣食い、内側から細胞を一つ一つ作り変えていくような、抗いがたい変化の兆し。自分の意思とは全く無関係に進行していく体の異変に、リアンは得体の知れない戸惑いと恐怖を覚えた。
心臓が早鐘を打っている。
「……なんだ、今の」
顔を覆うと、指先が震えていた。
全身の皮膚が粟立ち、吐息に混じるむせ返るような甘い匂いが、じわじわと自らの理性を奪っていくのを感じる。
得体の知れない衝動が突き上げてくる。
何かを求めている。満たされない渇きのような感覚。
隣で寝ていたポチが心配そうに顔を舐めてくる。
「ごめん、起こしちゃった?」
リアンはポチを抱きしめた。その温かさに少しだけ救われる。
でも、心の奥底にある空洞は埋まらない。
無性に、何かが欲しかった。
安心できる場所。自分を守ってくれる存在。
そして、あの香りをもう一度嗅ぎたいという欲求。
(アルヴィン様の、匂い……)
無意識にそう思った瞬間、リアンは自分の考えに驚愕した。
まさか。
あの怖い人に、そんなことを思うなんて。
リアンは頭を振ってその考えを追い払おうとしたが、熱を帯びた体は正直だった。
ベッドから這い出し、ふらふらと部屋の中を歩き回る。
落ち着かない。熱っぽく火照る体が、正常な判断力を泥のように溶かしていく。
クローゼットを開け、予備の毛布や枕を引っ張り出す。
それらをベッドの上に集め、自分の周りに積み上げていく。
無心で、ただひたすらに。
気づけば、ベッドの上には小山のような布の砦ができていた。
その中心に潜り込むと、不思議なほどの安心感に包まれた。
「……落ち着く」
リアンは小さく息を吐き、ポチを抱き寄せて丸くなった。
これがオメガの本能的な行動である「巣作り」だということに、リアン自身はまだ気づいていなかった。




