第4話「庭園の迷子と白い奇跡」
それから3日が過ぎた。
リアンの生活は、驚くほど平穏で、そして退屈だった。
朝起きて、美味しい朝食を食べ、昼間は図書室で本を読んだり、広い屋敷の中を探検したりして過ごす。夜はアルヴィンが帰ってくるのを待ち、一緒に夕食をとる。
それだけだ。
本当に、何もさせてもらえない。
使用人たちもリアンに対して極めて丁重で、「お客様」として扱ってくれる。洗濯も掃除もすべて彼らがやってしまうので、リアンが手を出す隙などこれっぽっちもない。
安宿で日銭を稼ぐために必死だった日々が嘘のようだ。
けれど、このぬるま湯のような生活に浸ることに、彼は罪悪感と不安を募らせていた。
「……なんか、落ち着かないな」
午後の日差しが差し込む回廊を歩きながら、リアンは独り言をつぶやいた。
体がなまってしまいそうだ。
気分転換に、外の空気を吸いに行くことにした。
アルヴィンから許可されている庭園へ向かう。
***
屋敷の裏手に広がる庭園は、王立公園と言われても信じてしまうほどの規模だった。
色とりどりのバラが咲き誇る花壇、幾何学模様に刈り込まれた植木、そして奥には小さな林まである。
風に乗って花の香りが漂ってくる。
リアンは深呼吸をして、新鮮な空気を肺いっぱいに満たした。
久しぶりに感じる土の感触。足裏から伝わる大地のエネルギーに、少しだけ心が軽くなる。
あてもなく歩いていると、林の方から微かな物音が聞こえた。
カサッ、カサッ。
小動物が動くような音だ。
リアンの足が自然とそちらへ向く。動物好きの血が騒ぐのだ。
「リスかな? それとも野良猫?」
音のする茂みに近づき、そっと葉をかき分ける。
そこにいたのは、予想外の生き物だった。
真っ白な毛玉。
いや、よく見るとそれは犬のようだった。
だが、対峙した瞬間、リアンの背筋に冷たい汗が伝った。周囲の風音がふっと消え失せ、目に見えない巨大な重圧が空気を軋ませたのだ。本能が逃げろと警鐘を鳴らすような、得体の知れない威圧感。
まだ幼い子犬くらいの大きさだが、その毛並みは雪のように白く、陽の光を受けてキラキラと輝いている。
だが、その白い毛は泥と乾いた血で汚れていた。
「……っ!」
怪我をしている。
リアンが息を呑むと、その生き物はビクリと体を震わせ、こちらを振り返った。
金色の瞳。
子犬とは思えないほど理知的で、そして鋭い光を宿した瞳だ。
低い唸り声を上げて威嚇してくる。小さな牙を剥き出しにし、必死に自分を守ろうとしている。
普通なら怯むところだが、リアンにはわかった。
これは恐怖の裏返しだ。痛くて、怖くて、助けを求めている。
「大丈夫だよ。何もしない」
リアンはその場にしゃがみ込み、視線の高さを合わせた。
ゆっくりと手を差し出す。敵意がないことを示すように、掌を上に向けて。
「おいで。痛いんだろう?」
穏やかな声で語りかける。
すると、不思議なことが起きた。
リアンの体から、ふわりと甘い匂いが立ち上ったのだ。自分では気づかないほどの微かな香りだが、それは生き物たちにとって抗いがたい誘惑だった。
威嚇していた白い生き物の鼻がピクリと動く。
金色の瞳が大きく見開かれ、警戒心が急速に溶けていく。
唸り声が、甘えたような鳴き声に変わった。
生き物はよろよろと立ち上がり、リアンの手の方へと歩み寄ってきた。そして、差し出された指先をペロリと舐める。
温かくて、ざらりとした舌の感触。
「いい子だね」
リアンはそっとその体を抱き上げた。
軽い。そして、ふわふわだ。
最高級の綿毛よりも柔らかく、ずっと触っていたくなるような極上の手触り。
抱き上げられた生き物は、リアンの胸に顔を埋め、安心しきったように身を委ねてきた。
「怪我をしてるね。手当してあげるから、一緒に来な」
リアンは周囲を見回した。
屋敷の人に見つかったら、「汚い野良犬を連れ込むな」と怒られるかもしれない。
でも、このまま放っておくことはできなかった。
リアンはマントの下に白い生き物を隠し、こっそりと自分の部屋へ戻ることにした。
***
部屋に戻ったリアンは、バスルームでぬるま湯を使い、丁寧に泥と血を洗い流した。
幸い、傷はそれほど深くなかった。救急箱の薬を塗って包帯を巻いてやると、生き物は気持ちよさそうに目を細めた。
洗って乾かすと、その白さは一層際立った。
まるでおとぎ話に出てくる聖獣のようだ。額には小さな角のような突起があるし、尻尾も二股に分かれているように見える。
普通の犬ではないことは明らかだが、リアンにとってはただの可愛い「迷子」だった。
「君、名前は?」
当然、返事はない。
「じゃあ……◆ポチでいいか」
あまりにも安直なネーミングに、生き物は不満そうにワンッと吠えた。
「嫌か? でも、俺にはセンスがないからなぁ」
リアンが苦笑しながら頭を撫でると、ポチは諦めたようにため息をつき、ベッドの上で丸くなった。
その仕草が可愛らしくて、リアンは久しぶりに声を出して笑った。
孤独だった部屋に、温かい体温が増えた。それだけで、不安だった心が満たされていくような気がした。
***
その夜、アルヴィンが帰宅した。
いつものようにノックの音がして、彼が部屋に入ってくる。
「リアン、食事の時間だぞ」
リアンは慌ててベッドの上のポチを隠そうとしたが、遅かった。
アルヴィンの鋭い眼光が、真っ白な毛玉を捉えた。
「……なんだ、それは」
部屋の温度が一気に下がる。
アルヴィンが近づいてくる。リアンはポチを背に隠すように立ちはだかった。
「あ、あの、庭で怪我をしてて……拾ったんです! 汚くないです、ちゃんと洗いました! だから、捨てろなんて言わないでください!」
必死に訴える。
アルヴィンは眉をひそめ、リアンの背後から顔を出したポチと視線を合わせた。
その瞬間、部屋の空気がバチリと弾けた。小さな白い獣から放たれるのは、歴戦の騎士すら一歩退きそうになるほどの、暴虐で底知れない覇気だった。
(……フェンリル?)
伝説の神獣。最強の魔獣の一種であり、成獣になれば国一つを滅ぼすほどの力を持つと言われる存在。その幼体が、なぜここに。
しかも、人間に決して懐かないはずの誇り高き神獣が、リアンの背中に隠れて震えている。
さらに驚くべきことに、アルヴィンはその神獣から、リアンに対する強烈な「執着」と「所有欲」を感じ取っていた。
まるで番を守る騎士のように。
アルヴィンの思考が高速で回転する。
リアンの特異体質。動物に好かれるという話は聞いていたが、まさか神獣まで手懐けるとは。
これは危険だ。もし国の上層部に知られたら、リアンは「兵器」として利用されるかもしれない。
「……アルヴィン様?」
リアンがおずおずと呼びかける。
アルヴィンはハッとして、表情を和らげた。
「……犬か」
「は、はい! 犬です! たぶん!」
「そうか。……飼いたいのか?」
「えっ……いいんですか?」
リアンの顔がぱっと輝いた。
その笑顔の破壊力に、アルヴィンは一瞬言葉を失った。
薄汚れていた再会の時とは違う、心からの純粋な笑顔。
これを守るためなら、神獣の1匹や2匹、屋敷に置くくらい安いものだ。
「ああ、構わない。ただし、世話は自分でするんだな」
「はい! ありがとうございます!」
リアンは満面の笑みで頭を下げた。
その背後で、ポチがアルヴィンに向かってニヤリと笑ったように見えたのは、きっと気のせいではないだろう。
アルファの騎士団長と、隠れオメガのテイマー、そして神獣の子犬。
奇妙な共同生活が、こうして幕を開けたのだった。




