第3話「黄金の檻と甘い朝食」
目を開けた瞬間、リアンは自分が天国にでも来てしまったのかと錯覚した。
視界いっぱいに広がるのは、薄いクリーム色の天蓋だ。レースのカーテン越しに、柔らかな朝の光が差し込んでいる。
体を包み込んでいるのは、雲のように軽い羽毛布団と、頬ずりしたくなるほど滑らかなシルクのシーツ。
シーツから漂う日向のような清潔な匂いと、肌に吸い付くような適度な室温。昨朝までの、隙間風とカビの臭いに怯えながら丸まっていた寒さが嘘のようだ。
あまりの心地よさに、二度寝の誘惑が甘い蜜のように頭を痺れさせる。
けれど、昨日の記憶が冷水を浴びせられたように蘇った。
借金。契約。そして、あの恐ろしい騎士団長アルヴィン・エルハルト。
リアンは弾かれたように上半身を起こした。
「……夢じゃ、なかった」
広い部屋を見渡す。猫足の家具、壁に飾られた風景画、そして自分が寝ていたキングサイズのベッド。どれもこれも、昨日まで寝泊まりしていた安宿の部屋とは比べ物にならない。
サイドテーブルには、すでに着替えが用意されていた。
新品のシャツとズボン、それに室内用の革靴まである。どれも仕立てが良く、リアンが一生かかっても買えないような代物だ。
恐る恐る袖を通してみると、驚くほど肌に馴染む。サイズもぴったりだ。
まるで、最初からリアンのためにあつらえられたかのように。
(まさか、昨日のうちに測ったのか? いつの間に?)
背筋がぞくりとする。あの冷徹なアルファは、リアンが気絶している間にサイズを測ったのだろうか。それとも、一目見ただけで寸法を把握する特殊な目でも持っているのか。
どちらにせよ、逃げ場がないことは明白だった。
***
身支度を整え、重厚な扉を少しだけ開けて廊下を覗く。
誰もいない。
静寂が支配する廊下は、磨き上げられた床が鏡のように輝いている。
どうすればいいのだろう。勝手に出歩いていいのか、それとも部屋で待機すべきなのか。
迷っていると、階段の方からふわりと良い匂いが漂ってきた。
焼きたてのパンの香ばしい匂いと、バターが溶ける甘い香り。そして、コーヒーの深い芳香。
ぐぅ、と情けない音が腹の底から響いた。
昨日の夜、あれだけご馳走を食べたはずなのに、体は正直にエネルギーを求めている。
意を決して、リアンは匂いの元へと足を向けた。
***
1階のダイニングルームは、舞踏会が開けそうなほど広かった。
高い天井にはクリスタルのシャンデリアが吊るされ、壁一面の窓からは手入れの行き届いた中庭の緑が見える。
そして、部屋の中央に鎮座する長いマホガニーのテーブルの端に、彼がいた。
アルヴィンだ。
昨日の騎士服ではなく、ラフな白いシャツに黒いベストという姿だが、その存在感は少しも衰えていない。
新聞を読みながらコーヒーカップを傾ける姿は、1枚の絵画のように完璧で、そして近寄りがたい。
「……おはよう、ございます」
リアンが蚊の鳴くような声で挨拶すると、アルヴィンはゆっくりと顔を上げた。
アイスブルーの瞳が、彼を真っ直ぐに射抜く。
「遅い」
たった一言。心臓が縮み上がる。
「す、すみません! 寝過ごしてしまって……」
「謝るな。座れ」
アルヴィンは顎で向かいの席を示した。
そこにはすでに一人分の食事がセットされていた。
ふわふわのオムレツ、厚切りのベーコン、カゴいっぱいに盛られた数種類のパン、彩り豊かなサラダ、そして湯気を立てるポタージュスープ。
王侯貴族の朝食と見紛うばかりの豪華さだ。
「こ、これを……俺が?」
「他に誰がいる。冷める前に食え」
言われるがままに席に着く。椅子はふかふかで、座り心地が良すぎて逆に落ち着かない。
アルヴィンは再び新聞に視線を戻したが、リアンは彼の視界の端に自分がいることを強烈に意識していた。
震える手でフォークを持ち、オムレツを一口食べる。
とろりとした卵の甘みとバターの風味が口いっぱいに広がり、思わず頬が緩みそうになる。
美味しい。こんなに美味しいものを食べたのは、実家にいた頃以来だ。
夢中で食べていると、視線を感じて顔を上げた。
新聞の陰から、アルヴィンがじっとこちらを見ていた。
「っ!」
喉に詰まりそうになり、慌てて水を飲む。
「……足りないならもっとあるぞ」
「い、いえ! 十分です! こんなに贅沢な……」
「痩せすぎだ」
アルヴィンは不機嫌そうに眉を寄せた。
「骨と皮ばかりで見ていられない。まずは標準体重まで戻せ。それが最初の命令だ」
「は、はい……」
太らせてから食べる気だろうか。魔獣の餌として。
そんな不吉な想像が頭をよぎるが、目の前の食事の誘惑には勝てない。
アルヴィンはコーヒーカップで口元を隠しながら、ふと昔の記憶を蘇らせていた。幼い頃、こっそり厨房から盗み出したクッキーを二人で分け合った時、リアンはいつもとびきりの笑顔を見せてくれた。あのふっくらとした温かい頬を、もう一度取り戻したい。そんな不器用な願いは、決して口には出せなかった。
リアンは必死に皿の中身を胃に収めた。
食後のコーヒーが出されたタイミングで、彼はおずおずと切り出した。
「あの、アルヴィン様」
「なんだ」
「その……仕事は、いつから始めればいいんでしょうか」
ただ飯を食わせてもらうわけにはいかない。借金は莫大なのだ。体で返すしかないと覚悟を決めている。
「俺、厩舎の掃除でも、魔獣の餌やりでも、なんでもやります。体力には自信がありますから」
そう言って袖をまくり、細い腕を見せる。
アルヴィンはそれを一瞥すると、鼻で笑った。
「その細腕で何ができる。掃除は使用人がやるし、魔獣の世話は専門の係がいる」
「えっ? で、でも、専属テイマーとしての契約じゃ……」
「テイマーの仕事は、魔獣を手懐けることだ。肉体労働ではない」
アルヴィンはカップを置き、真っ直ぐにリアンを見た。
「お前の仕事は、俺が帰ってくるまでこの屋敷で大人しくしていることだ。健康になり、体力をつけ、ストレスなく過ごすこと。それが今の任務だ」
「は……?」
リアンは耳を疑った。
食べて寝て過ごすのが仕事。そんな馬鹿な話があるわけがない。
「そんなの、ただの穀潰しじゃないですか。借金を返すために働くんですよね?」
「俺が良いと言っているんだから良いんだ。口答えするな」
有無を言わせぬ圧力が降ってくる。
リアンは口をつぐんだ。
どうやら、この男の考える「労働」は、常人のそれとは違うらしい。
あるいは、何かもっと恐ろしい「本番」のために、今は準備期間ということなのだろうか。
「今日は俺は会議で遅くなる。屋敷からは一歩も出るなよ。庭に出るのは許可するが、塀の外には絶対に行くな」
アルヴィンは立ち上がり、背もたれにかけてあった騎士団のマントを羽織った。
その動作一つ一つが洗練されていて、見惚れてしまうほど様になっている。
彼は去り際に、リアンの椅子の背もたれに手をつき、耳元で囁くように言った。
「いい子で待っていろ」
低いバリトンの声が鼓膜を震わせ、背筋に電流のようなものが走る。
アルファのフェロモンが濃密に香り、リアンは息を呑んだ。
反論する気力も奪われ、ただコクコクと頷くことしかできない。
アルヴィンは満足げに口角を上げると、颯爽と部屋を出て行った。
***
残されたリアンは、しばらく呆然としていた。
嵐のような人だ。
かつての幼馴染の面影はあるけれど、今はもう完全に別世界の住人になってしまった。
窓の外を見ると、玄関から馬車に乗り込むアルヴィンの姿が見えた。
周囲の騎士たちが直立不動で敬礼している。
あんなすごい人が、どうして自分なんかに構うのだろう。
リアンは胸の奥にある小さな痛みを感じながら、冷めかけたコーヒーを啜った。
甘い砂糖の味が、なぜか少しだけ切なかった。




