第2話「捕らわれた小鳥の契約」
馬車の中は、外の世界とは別次元の空間だった。
座席にはビロードのクッションが敷き詰められ、足元には毛足の長い絨毯。空調が効いているのか、心地よい暖かさが満ちている。
微かに香る高級な白檀の匂いと、冷え切った肺を優しく溶かすような暖炉に似た熱気が、リアンの強張った体を包み込む。
けれど、彼にとってここは針のむしろだった。
アルヴィンから貸されたマントを握りしめ、座席の端に小さくなって座る。泥で汚れた自分の服が、美しい内装を汚してしまうのではないかと気が気でない。
対面に座るアルヴィンは、一言も発さないまま、ただひたすらにリアンを見つめ続けている。
その視線は鋭く、まるで獲物を品定めするようだ。
沈黙が痛い。
かつては近所の幼馴染として、泥だらけになって一緒に遊んだ仲だった。けれど、アルファとして覚醒し、類まれな魔力を持っていたアルヴィンと、無能だったリアンとの間には、成長するにつれて巨大な壁ができてしまった。
彼は雲の上の人になり、自分は泥の中の石ころになった。
そんな自分が、なぜ今、彼の馬車に乗っているのか。
「……それで」
不意に、アルヴィンが口を開いた。低い、よく通る声だ。
「どうしてあんな所にいた。実家はどうした」
尋問のような口調に、リアンはビクリと肩を跳ねさせた。
嘘をついてもすぐにバレるだろう。この男の前で隠し事は通用しない。
「……3年前に、家を出されたんです。才能がないからって」
リアンは消え入りそうな声で答えた。
「それからは、いろいろな場所を転々として……今日は、働いていた場所が潰れてしまって……」
語れば語るほど、自分の惨めさが浮き彫りになる。
アルヴィンは黙って聞いていたが、その表情は険しくなるばかりだ。
きっと軽蔑されている。「名門の恥さらしが」と思われているに違いない。
リアンは俯き、膝の上で手をきつく握りしめた。
「……すみません。汚い格好で、こんな高級な馬車に乗ってしまって。次の角で降ろしてください。自分でなんとかしますから」
「なんとかするだと」
アルヴィンの声の温度が、さらに下がった。
「宿もない、金もない、仕事もないお前が、この雨の中どうやって『なんとか』するつもりだ。野垂れ死ぬのが関の山だろう」
正論だった。反論の余地もないほどに。
リアンが言葉に詰まっていると、アルヴィンは懐から1枚の羊皮紙を取り出した。
その時、手袋に包まれた彼の長い指先が、ほんのわずかに震えていることにリアンは気づかなかった。もう二度とこの手を離したくない、何が何でも自分の手の届く場所に縛り付けておきたいというアルヴィンの強烈な焦燥が、彼から余裕を奪っていたのだ。
それを無造作にリアンの前の小さなテーブルに置く。
「……これは?」
「契約書だ」
アルヴィンはリアンの怯えた瞳から逃げるように、ふっと視線を斜め下へ逸らし、ぶっきらぼうに告げた。
「けいやく、しょ……?」
リアンはおずおずと紙に目を落とした。
そこに書かれていたのは、目が飛び出るような金額の数字と、『債務引き受け』という文字。そして『専属契約』という不穏な単語。
「お前が働いていた厩舎の主人は、多額の借金を残して逃げたそうだな。その借金の連帯保証人リストの末席に、お前の名前が勝手に書かれていたぞ」
「えっ!」
リアンは血の気が引くのを感じた。あの雇い主、逃げる際にそんなことまでしていたのか。
「当然、お前に支払い能力はない。このままだと、お前は犯罪奴隷として鉱山送りになる」
淡々と告げられる事実に、目の前が真っ暗になる。
鉱山送り。それは死ぬまで暗い穴の中で労働させられる、実質的な死刑宣告と同じだ。
「そ、そんな……」
「だが、俺がその借金をすべて肩代わりした」
アルヴィンは事もなげに言う。
リアンは目を見開いて彼を見た。
「え……? ど、どうして……?」
「タダじゃない。俺はお前に投資をしただけだ」
アルヴィンは長い足を組み替え、前のめりになってリアンを覗き込んだ。その整った顔が近づき、彼の心臓がまた跳ねる。
「リアン、お前を買ったんだ」
その言葉の響きに、リアンはぞくりとした。
買った。つまり、そういうことなのか。
幼馴染だった自分を哀れんで助けてくれたわけではない。借金のかたに、何か別の目的で利用しようとしているのだ。
リアンは震える手で自分の服の襟元を握った。
「な、なにを……させられるんですか……?」
過酷な労働か、それとも怪しい実験の被検体か。
アルヴィンは少しだけ目を細め、怪しげな光を瞳に宿して言った。
「俺の屋敷に来い。そこで俺のためだけに働け。衣食住は保証する。その代わり、俺の許可なく外に出ることは許さないし、俺の目の届かないところへ行くことも禁ずる」
それは、完全な束縛だった。
監禁と言ってもいいかもしれない。
けれど、リアンに拒否権などあるはずがなかった。鉱山で死ぬか、この恐ろしくも美しい騎士団長の飼い殺しになるか。
「……わかり、ました」
リアンは小さな声で承諾した。
アルヴィンは満足げに頷くと、再び座席に深く座り直した。その表情が一瞬だけ、安堵したように緩んだのを、彼は見逃していた。
***
やがて馬車は、王宮の敷地内にある広大な区画へと入っていった。
そこは、王都の中でも特に選ばれた者しか立ち入れない、魔導騎士団の本部エリアだ。
高い塀に囲まれたその場所には、いくつもの訓練場や研究施設、そして騎士たちの宿舎が立ち並んでいる。
馬車が止まったのは、その一番奥にある、一際大きな屋敷の前だった。
「着いたぞ」
アルヴィンに促され、リアンは馬車を降りた。
目の前にそびえ立つのは、まるで小さなお城のような洋館だ。騎士団長の公邸であり、選ばれた幹部騎士たちが暮らす特別寮も兼ねているという。
玄関にはすでに数人の使用人と騎士が整列して待っていた。
「お帰りなさいませ、団長」
一斉に敬礼される。その威厳に、リアンはますます小さくなった。
アルヴィンは当然のようにそれを受け流し、リアンの背中を押して中へと入っていく。
エントランスホールは広大で、磨き上げられた大理石の床がシャンデリアの光を反射して輝いていた。
泥だらけの靴で踏み入るのが申し訳なくて、リアンはつま先立ちで歩きたくなる。
「おい、セバス」
アルヴィンが初老の執事を呼び止める。
「はい、旦那様」
「こいつを客間に案内しろ。風呂に入れ、清潔な服を用意させろ。それから、一番栄養のある食事を作らせろ」
「かしこまりました」
執事は一瞬だけリアンを見て驚いたような顔をしたが、すぐにプロの表情に戻り、恭しく頭を下げた。
「さあ、こちらへどうぞ」
リアンは助けを求めるようにアルヴィンを振り返った。
しかし、アルヴィンはもうリアンを見ていなかった。
「俺は執務に戻る。……逃げようなどと考えるなよ」
それだけを言い捨てて、大階段を颯爽と登っていく。
残されたリアンは、広すぎるホールに一人、取り残されたような気分だった。
逃げるなんてとんでもない。こんな鉄壁の守りの中で、どこへ行けるというのか。
***
案内されたバスルームは、リアンが今まで住んでいたアパートの部屋よりも広かった。
豊富な湯量と、甘い百合の良い香りのする石鹸。
湯船に沈んだ瞬間、凍てついていた指先や足先がじわりと溶け出し、全身の血が巡り始めるような心地よい温度がリアンを包み込んだ。久しぶりに浸かる湯船の温かさに、冷え切っていた体がじんわりと解れていく。
泥と垢を洗い落とし、用意された肌触りの良い服に着替える。サイズは少し大きかったが、生地の柔らかさは夢のようだった。
その後に出された食事も、見たことのないようなご馳走だった。
温かいスープ、焼きたてのパン、柔らかく煮込まれた肉料理。
恐縮しながら口に運ぶと、あまりの美味しさに涙が出そうになった。
これが、「飼われる」ということなのだろうか。
これからどんな恐ろしい命令が待っているのかわからないけれど、少なくとも今夜は、凍えずに眠れる。
食事が終わると、リアンは2階の角部屋に通された。
そこは「空き部屋」だと言われたが、天蓋付きのベッドに、ふかふかの絨毯、窓からは手入れされた庭園が見下ろせる、信じられないほど豪華な部屋だった。
「ここを使っていいんですか……?」
執事は穏やかに微笑んだ。
「ええ、旦那様からのご指示です。『一番日当たりが良く、静かで、落ち着ける部屋にしろ』と」
「はあ……」
何か裏があるに違いない。
リアンは警戒心を解かないまま、部屋の中を見回した。
執事が去った後、彼はベッドの端に腰を下ろした。柔らかすぎて、体が沈み込む。
窓の外はまだ雨が降っているが、ここは静寂に包まれている。
これから始まる新しい生活。
アルヴィン・エルハルトという、かつての幼馴染であり、今は絶対的な権力者である彼との生活。
借金の形として連れてこられた自分に、彼は何を求めているのだろう。
不安と、ほんの少しの安心感が入り混じりながら、リアンはその夜、久しぶりに深い眠りについた。
***
その頃、執務室にいたアルヴィンは、書類仕事の手を止めて窓の外を見ていた。
机の上には、先ほどリアンに突きつけた「契約書」の控えがある。
彼は大きなため息をつき、頭を抱えた。
「……また、怖がらせてしまったか」
独り言が静かな部屋に響く。
再会したリアンは、記憶の中よりもずっと痩せていて、儚げだった。
見つけた瞬間、心臓が止まるかと思った。雨の中で震える彼を見て、保護欲と独占欲が暴走しそうになった。
本当は「大丈夫か」「心配したぞ」「会いたかった」と優しく抱きしめたかった。
だが、口から出たのは冷たい命令と、脅すような契約の話ばかり。
不器用すぎる自分に嫌気が差す。
しかし、これでいい。強引にでも手元に置かなければ、彼はまたどこかへ消えてしまうかもしれない。
それに、あの厩舎の主人からリアンを守るためにも、借金の件を利用するのは最善手だったはずだ。
(俺のそばにいれば、もう二度と寒い思いはさせない)
アルヴィンは胸の奥で誓うように、窓ガラスに映る自分の顔を睨みつけた。
その瞳には、10年間ずっと燻っていた執着という名の恋の炎が、静かに、しかし熱く揺らめいていた。
まだ、リアンはその想いを知らない。
そして、アルヴィンもまだ知らない。リアンの中に眠る、世界を揺るがすほどの力が、この屋敷での生活を通じて目覚めようとしていることを。




