第15話「幸せな朝と新しい命」
結婚式から数ヶ月が過ぎた。
季節は巡り、屋敷の庭には色とりどりの花が咲き誇っていた。
柔らかな日差しが差し込む寝室で、リアンは静かに目を覚ました。
隣にはまだ、アルヴィンが穏やかな寝息を立てて眠っている。
ふと、リアンはお腹の奥に、言葉にできないほど微かな、本当に小さな拍動を感じた。
それは自分の脈とは違う、新しく芽生えた命の鼓動。
「あ……」
息を呑み、そっとお腹に手を当てる。まだ膨らみはないけれど、確かにそこにある温かい命の気配。
驚きと感動で胸が一杯になり、リアンは震える手で隣のアルヴィンを揺り起こした。
「……ん、リアン? どうした、具合でも悪いのか?」
寝起きのアルヴィンが心配そうに身を起こす。
「ち、違うんです……アルヴィン様、俺の中に……」
リアンはポロポロと涙をこぼしながら、アルヴィンの大きな手を自分のお腹へと導いた。
「新しい命が、いるみたいです……」
その言葉に、アルヴィンは大きく目を見開いた。
震える手でリアンのお腹を優しく包み込み、やがて顔を覆ってむせび泣き始めた。
「ありがとう……! ありがとう、リアン……!」
朝の静寂の中、二人は抱き合いながら、新しい命の奇跡を分かち合った。
***
後日、医師の診断でも正式に確認され、アルヴィンは大喜びで、屋敷中の床にカーペットを敷き詰めさせたり、階段に手すりを増設させたりと、過保護ぶりがさらに加速している。
「……おはよう、赤ちゃん」
小さくつぶやいてみる。
返事はもちろんないけれど、お腹の奥がじんわりと温かくなるような気がした。
ベッドの足元で寝ていたポチが、気配を察して顔を上げた。
おはよう、と言っているようだ。
「おはよう、ポチ。今日もいい天気だね」
リアンは微笑んでポチの頭を撫でた。
着替えを済ませて1階へ降りると、ダイニングから香ばしい匂いが漂ってきた。
今日はアルヴィンが朝食を作ってくれているらしい。
彼は料理が得意ではないはずだが、リアンのためにと最近張り切っているのだ。
キッチンを覗くと、エプロン姿の騎士団長がフライパンと格闘していた。
その背中は真剣そのもので、剣を振るう時よりも鬼気迫るものがある。
「くそっ、焦げたか……? いや、まだいける」
独り言を言いながら、オムレツを皿に移している。
リアンは思わず笑ってしまった。
「ふふっ、おはようございます、アルヴィン様」
「っ!? リアン、起きたのか!?」
アルヴィンが驚いて振り返る。
顔には少し煤がついていて、完璧超人らしからぬ愛嬌がある。
「無理しないでくださいよ。シェフに任せればいいのに」
「駄目だ。お前の体を作るものは、俺が管理したい」
謎の理屈だが、その気持ちは嬉しかった。
食卓には、少しいびつな形のオムレツと、カリカリに焼かれたベーコン、そしてたっぷりのサラダが並んだ。
「いただきます」
一口食べると、少し塩味が強かったが、愛情の味がした。
「どうだ? 不味くないか?」
アルヴィンが心配そうに覗き込んでくる。
「とっても美味しいです。ありがとうございます」
リアンが満面の笑みで答えると、アルヴィンは安堵の表情を浮かべた。
「よかった。……もっと食えよ。二人分だからな」
そう言って、自分の皿からベーコンを取り分けてくれる。
幸せな朝食の時間。
食事を終えると、アルヴィンは仕事へ向かう準備を始めた。
玄関まで見送りに出る。
「行ってきます。何かあったらすぐに連絡するんだぞ」
「はい、わかってます」
「絶対に無理はするなよ。階段はゆっくり降りろ」
「もう、子供じゃないんですから」
いつものやり取り。
アルヴィンは名残惜しそうにリアンの頬にキスをし、最後にポチに向かって言った。
「ポチ、頼んだぞ。リアンを守れ」
ポチが凛々しく吠える。
アルヴィンは馬に跨り、颯爽と去っていった。
その背中を見送りながら、リアンは幸せを噛み締めていた。
かつては捨てられ、泥にまみれていた自分が、こんなに温かい場所にいるなんて。
***
その日の午後。
リアンは庭のベンチで編み物をしていた。
生まれてくる子供のための靴下だ。
ポチは足元で日向ぼっこをしている。
平和な時間。
すると、門の方から来客を告げる鐘の音が聞こえた。
執事が対応に出る。
戻ってきた執事の後ろには、見覚えのある人物がいた。
リアンの実の兄、長男のベルンだった。
彼は以前よりも少しやつれた様子で、恐縮しながら近づいてきた。
「……リアン、久しぶりだな」
「兄さん……どうしたの?」
結婚式以来の再会だ。
ベルンは深々と頭を下げた。
「突然すまない。実は……父さんが倒れたんだ」
「えっ!?」
リアンは編み棒を取り落とした。
「命に別状はないが、もう長くはないかもしれない。それで、お前に会いたがっているんだ」
ベルンの声は震えていた。
かつて自分を冷遇し、家から追い出した父。
許したつもりだったが、いざとなると複雑な感情が湧き上がってくる。
でも、リアンは迷わなかった。
「……わかった。会いに行くよ」
「本当か? ありがとう……!」
ベルンは涙ぐんで感謝した。
***
アルヴィンに連絡を取り、事情を話すと、彼はすぐに飛んで帰ってきてくれた。
「俺も行く。お前の体が心配だからな」
過保護な夫の護衛付きで、リアンは実家へと向かった。
実家の屋敷は、記憶の中よりも古びて小さく見えた。
かつての威厳はなく、どこか寂しげな空気が漂っている。
父の寝室に通されると、そこには痩せ細った老人が横たわっていた。
「……リアンか」
父が掠れた声で呼ぶ。
「はい、父さん。来ましたよ」
リアンはベッドの傍らに座り、父の手を握った。
骨と皮ばかりの手。
「すまなかったな……お前には、酷いことをした」
父の目から涙がこぼれ落ちる。
「お前には才能がないと決めつけ、愛さなかった。……愚かな父親だ」
リアンは言葉を返せなかった。かつて浴びせられた冷たい言葉たちが脳裏をよぎり、胸の傷がチクリと痛む。すぐに「いいんです」とは言えなかった。愛されたかった幼い頃の自分の記憶が、どうしても邪魔をする。
沈黙が落ちる中、リアンは静かに息を吸い込んだ。
「……父さんのしたことは、一生消えません。俺は、ずっと苦しかった」
素直な思いを吐露すると、父は苦しげに顔を歪めた。
「でも……もう、あなたを恨むことで自分の心を縛りたくない。俺は今、幸せですから」
リアンは震える手で、父の細い手を握り返した。
「俺は、アルヴィン様や新しい家族と、前を向いて生きていきます。だから……どうか、安らかに」
父は涙をこぼしながら安堵したように息をついた。
「そうか……よかった。本当に……」
その言葉を最後に、父は静かに目を閉じた。
穏やかな最期だった。
リアンは涙を流しながら、父の手を握りしめた。
長い確執が、ようやく解けた瞬間だった。
アルヴィンが後ろから肩を抱いてくれた。
その温もりに支えられ、リアンは父を見送ることができた。
***
葬儀を終え、屋敷に戻った夜。
リアンはアルヴィンの腕の中で泣いた。
悲しみと、安堵と、感謝がない交ぜになった涙。
「辛かったな」
アルヴィンは何も言わず、ただ背中をさすってくれた。
「でも、行ってよかった。最後に話せて」
「ああ。お前は強いな」
アルヴィンはリアンの額にキスをした。
「これからは、俺とお前と、この子で新しい家族を作ろう。誰よりも幸せな家庭を」
「はい……!」
リアンは強く頷いた。
過去との決別、そして未来への希望。
お腹の子がポコンと動いた気がした。
新しい命も、きっと同意してくれているのだろう。




