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あくる飽きまで地地雷雷  作者: 楽理川ぽるか


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二章 壁の向こうの恋人たち

挿絵(By みてみん)



「今から最終面接を行います。人生で一番頑張ってね」


 空を飛ぶように(つかさ)(もも)は軽やかに言った。何を言い出すんだろうと思った。

 最終面接という謎の言葉から得体の知れない香りがもわもわと立ち昇る。淡き恐怖を孕んだ焦燥ってやつが、俺の背中をじわりと濡らしていった。

 彼女はそんな俺を女王様よろしく睥睨(へいげい)して美味しそうにファミチキを頬張った。愛らしいその仕草はとち狂った行動を取っていても、胸が痛くなるほど可愛かった。それは何物にも勝る一種の毒だった。俺を堕落させる快楽的安息が上がった溜飲を無理やり下げた。そのせいでお腹の虫が鳴ってしまった。思い返せば今日は朝から何も食べていない。

「そのファミチキ、俺の分は?」

「あると思ってるの?」

 陰の落ちた目で睨まれてしまう。

「こんな扱いを受けてるんだ。刑事ドラマよろしくかつ丼のようなものがあってもいいだろ」

「ふーん。そういう言葉出るってことは、少なくても罪悪感くらいはあるんだ」

 思わず口を(つぐ)んでしまう。俺は彼女に言われるまで己の行いになんら罪の意識も、ましてや後悔の念など微塵もなかった。はっきりと断言できる。彼女が俺に対して行い、またこれから行うであろう非道な仕打ちを前に「俺が悪かった」と認めることはできない。この胸に燃える激しい怒りの輪郭が何よりの証拠であり、俺に落ち度などあるはずもない。

「認めないって顔だね」

 何が愉快なのか、司はほくそ笑んだ。彼女はいつも己が優位の立場を作ろうとする悪癖がある。俺は彼女のそういう高慢で(したた)かなところを心良く思ってはいるが、だからといって裸にひん剥かれる道理はないはずだ。

「早く解放してくれ。今期の単位が足りてないんだ」

「それは宗くん次第だね。頑張れば二分でこの部屋からおさらばできるよ。ちなみにあとどれくらい?」

「16だ」

「口笛吹く余裕もないじゃん。もっと頑張りなよ」

「一体何を頑張れっていうんだ。人生において頑張ってやるようなことなどこの世に一つとして存在しない。せいぜいアルコール分解能力を高めるためにひたすら肝臓機能を底上げするぐらいだ」

「……それ頑張るようなことじゃないけど」

 呆れたため息が一層俺の憎悪を掻き立てる。吐いた息に熱がこもっていた。

「俺はこの大学で誰よりも紳士である。だが俺にだって我慢の限界ってやつはあるんだ」

「私も垂れる能書きを受け止めるスペースないんだ。それに決定権も主導権も私にあるのわかってるでしょ」

 そう言って彼女はもりもりとファミチキを平らげると指についた最後の脂をペロリと舐めて微笑んだ。

「それじゃあ最終面接を始めまーす! 嘘をついたり、手を抜いたり、ましてや私の心を深く深く傷つけるようなことをしたら鎖骨折るから」

 インスタントに麻薬的な成分を摂取した彼女は俺を置いて勝手に盛り上がった。何よりも俺の鎖骨が早くも窮地に立たされて、憐憫なるものを感じずにはいられなかった。人は鎖骨が砕けても生きていけるのだろうか。

「質問はたったの二つです。それもとっっっっっても簡単! ベリーイージーです。では行きます。私と付き合った理由は体が目的ですか?」

 最大瞬間風速をのせた勢いのまま放たれた最終面接の一問目は、生々しかった。司はここ一番と思った時にはいつも直球だったことを思い出した。俺は彼女の何に惚れたのか。その姿形はもちろん、あの居酒屋での立ち居振る舞いが俺の心を無遠慮にくすぐって、仕舞いにはこの俺という気高き魂をグッと鷲掴んできた。彼女が軽々(けいけい)に行う悪戯のようなその傲慢な態度はひどく俺を掴んで離さなかった。その引力の正体を俺は断言できる。諸悪の根源はあの時、あの表情かおで、どこの誰よりもエロがったあの娘の余計なプライドである。

「当たり前だろ」

 そう言い切る前に握りしめられた小さな拳が俺の鎖骨をまるで豆腐のように容易く砕いた。


 ○


「もう少し僕が早く生まれていればフェルマーの最終定理は僕が解いていたはずだ」

 寒々とした部屋で横水がそう断言した。

「世界も残酷なことをする。タッチの差じゃないか」

「フェルマーの最終定理を解いた賢人の友人、それ即ち大賢人である」

「然り」

「だからこそ僕は思うんだ。天は二物を与えない。僕ほど数学の才に恵まれた男でも、女の子のことだけはさっぱりだ。どうせなら彼女たちを手玉に取る才が良かったけどこればかりは仕方ないと諦めもつく。だけどもし、彼女たちのことも数学で解くことができれば……」

 一人ぶつぶつと呟く横水。事あるごとに大仰な口ぶりな時は決まってダウナーに沈むのが横水であり、大抵のそれは常闇麻雀界とこやみまーじゃんかいの東二見杯で敗北した時であった。

 いつものように川崎の部屋で湯水の如く飲み交わしていたある冬の日のことだった。川崎が住む一人暮らしのアパートは神戸の伊川谷にあるどこにでもある平凡な見た目のアパートであるにも関わらず、締め切ったはずの窓や変色を始める木壁にわずかな隙間が無数にあり、これでもかと1LDKの部屋を冷やし続けた。まるで冬将軍の寝床を思わせる室温は過去に氷点下を記録したこともある。簡単に言えば明らかな欠陥住宅であった。タバコにうるさい彼は俺がタバコに火をつけるたびベランダに出ろと言って、でも話はしたいからと窓は閉めず、全員で体をプルプル震わせて不毛に体を芯から冷やした。人の温もりを知らない大賢人の我らにとって、冬将軍が蛇行で運んでくる偏西風だかなんだかわからない冷たい風はありがた迷惑なものであった。

 そのせいか毎度のごとく、終盤の話の主題は俺たちに見向きもしない、あるいは見た上で無視をする女たちの話になる。

 女、それは俺たちにとって共通の敵であり、克服すべき一種の壁であり、ある種の希望であった。横水はあの時から自分に課された試練をその無駄にシワの多い明晰無鋲(むびょう)な頭脳を駆使して、どうにか己の武器のみで攻略できないかと画策していたのだろう。普段からのたまう戯言の中に少しの真実を盛り込む典型的なやり口は彼好みなアプローチだ。

 無論、我ら四人は気にも止めなかったし、堀越に至っては「マッチングアプリの市場調査をしたいから」と言って自撮りを始める始末であった。えて襟元を(はだけ)させ、やたらとスマホを頭上に上げて角度を気にしながら激写する堀越の自撮り。あれは見るに堪えなかったし、見るべきものではない悪夢である。

 腐敗臭の充満する部屋の中で真剣な恋の話に花が咲くことはない。横水の判断は正しい。

 司百が俺のそばに居着いてからというもの、俺の内側で明らかな鳴動が起きた。川崎や堀越のことは見下していた。当然のことである。しかし、以前の俺にはそこに確固たる愛情があったはずだ。司百が俺の人生に登場し、彼女なんぞになってからというものの、俺たちの黒く(よど)みながらも気高く光る、天照あまてらす様も欲しがる絆がどうにも水っぽくなりつつあった。漠然と感じたその危機感を俺の中の司が勝手に薄めていった。そのことにようやく気づいた時、あの居酒屋で出会った日からまるで魔法が解けたように、(かすみ)がかった頭が次第に晴れてくるような妙な感覚があった。だからこそ俺は横水に問いただしたかった。

 恋人とは鎖骨を砕かれてもなお続けてしまうものなのかと。


 ○


 司は俺の顔に湿布を投げつけて何も言わずに部屋から出て行った。こうした一抹の優しさにグッとくる男はいつまで経っても支配者にはなれない。魂が軟弱である何よりの証左であろう。人類の上位層にほぼ全身浸かっている俺ほどの男となれば相応の免疫を備えているが、秋も目前に迫ってるこの季節にパンツ一丁では俺の高潔な心にもひびが入りかねない。何よりいささか卑猥な姿である。

 あのやばい女から一刻も早く逃れなければならない。俺の頭は今さらにそう考えた。

 壁にもたれかかっておもむろに拳を打ちつける。一定のリズムを刻んで回らない頭を無理やりに回してみる。手首にハマった枷が視界に入るたびに、どう足掻いても不可能だという結論が頭をよぎって仕方ない。浮かばない打開策に段々と今の状況に不服を覚えてきた。何よりなぜ彼女が怒っているのか、俺にはまるで理解ができなかったし、俺は彼女とキスもしていなければ手を繋いだこともない。司は本当に俺の彼女だと、俺は断言できるのか。彼女の存在を周囲からひた隠しにしたのは、川崎たちが手をつけらない悪鬼になって俺を容赦なく襲ってくることを恐れた事実はある。だがそれ以上に、俺は司を『彼女』であると断言できなかったのではないか。

 めぐる思考に苛立ちと共に何度も拳を壁に打ちつけてしまう。

「うるさい」

 耳に響く冷たい音が声と重なった。

 どこか聞き覚えのある声に対して「誰だ」と問い返した。相手は壁の向こう側にいるようだった。

「そっちこそ誰だ」

 えらく偉そうな態度であった。

「こっちが聞いている」

「僕は機嫌が悪いんだ」

 よく響く声の主に一人の人物が思い浮かんだ。

「横水か?」

 俺の言葉に少しの沈黙の後、落ち着きの孕んだ様子で「真波か?」と返ってきた。

「俺だ。お前、なんでそんなとこいるんだ」

「君こそなんでここにいる?」

 ひどく弱った声だと思った。彼ほどの男を追い詰めるとは一体何があったのか。ラグビー部に追いかけ回された時も平然としていた男なのに。

「俺は百のせいでここにいる。もっと言えば川崎たちのせいでもある」

「百……司百かい? 君の彼女の」

「なんで俺の彼女だって知ってるんだ」

 横水にさえ俺は彼女の存在を伝えたことはなかった。

「僕の彼女が高校生の時の先輩が大学にいるって言っていてね。それが司なんだ。何度か会ったことがあって面識があったんだ。君との関係はこの前聞いた」

「そうだったのか」

 偶然とは奇なることだ。しかしなぜだろう。どうも、彼女は俺の周辺の人間にえらく干渉しているように感じる。何かこう、外堀を知らず知らずのうちに埋められて気が付けば逃げ道すら失っているような袋小路に追い込まれた気分に陥った。はっきりと言って恐怖である。

「僕を散々裏切り者とか言っていたくせに、君も同類じゃないか」

「一緒にするな。俺はお前みたいにせこい男じゃない。正々堂々と彼女を作った」

「えらく矮小な性根だ。僕だって持てる力を使っただけだ」

 しばらく互いを貶しあった後、俺たちはどことなく安心した。

 俺は裏切り者横水が何故こんなところにいるのかを聞いた。なんでも彼も俺と同様に鎖に繋がれて隣の牢にぶち込まれているようだった。


 ○


 横水によると、事の発端は俺に起因すると言う。

 失礼で言いがかりも甚だしいと思ったのは俺だけではないだろうが、グッと我慢して聞いてやった。

 昨日、横水は初めてできた一回生の彼女の白石に呼び出されたらしい。

 誕生日が間近の彼女のためにサプライズをしようと軍資金をこさえていた茶封筒を紛失して、方々に迷惑をかけて探すも見つからず、茫然自失となっていたらしい彼は絶望に打ちひしがれてこの世の終わりのような顔をしていたという。

 呼び出された彼は絶望のどん底のなか、純朴な顔をする白石に「どうしたの」と、どんな望みでも叶えてやる気持ちで応対した。

 そして白石は何やら怪訝な様子で「百先輩のことどう思ってるんですか」と聞いてきたらしい。

 司のことを白石から紹介されてから横水と司は俺に関する話で盛り上がっていた。白石は過去に司が学校を掌握するのではと思ってしまうほどにモテていた彼女の高校時代を知っていたこともあり、横水が心変わりをしたのかもしれないと勘繰ってしまった。

 横水はその質問の意図を当時は理解していなかった。何より疲弊した心と体で彼女の相手ができるわけもなく、彼女の先輩であることに要らぬ気遣いをしてしまった。

「素敵な人だと思うよ。真波が羨ましいくらい」

 その日を境に横水はこの部屋に監禁された。しかも白石はあのにっくき聖女上座連盟に協力を依頼してのことらしい。

「横水の状況から考えてここは連盟が管理する大学の補習棟か」

 聖女上座連盟。圧倒的可愛さ偏差値にあぐらをかく稀代の美女たちのみで構成されたサークル。その勢力は大学当局に及ぶほどとされいる。彼女たちはその持て余した美貌で女子たちと結びたくても結べない縁に血涙を流す男どもに近づき、芯から骨抜きにしてもう聖女上座連盟なしでは生きていけない体にしてから男たちを奴隷にして回っているという、おおよそ聖女と呼ぶべきか怪しい集団である。

 しかしふと、俺は思った。

「ちょっと待て。どこに俺が原因の要素がある。悪いのお前だけだろ」

「君が司さんと付き合ったせいで僕に余計なほど司さんが突っかかってきただんだ。それで白石さんに要らぬ心労をかけている。どう考えてもお前が悪い」

「他責にもほどがあるだろ」

 結局、女性一人御しきれない小物の招いた種ではないか。

 だがこれは僥倖ぎょうこうでもある。俺一人での脱出は不可能に等しいが腐っても横水は盟友。彼と二人であれば司から逃れるのも無理な話ではない。

「とにかくここから脱出する。協力しろ」

「なんで僕が手を貸さないとダメなんだ。一人でやりなよ」

 呆れたような物言いに流石の俺も額に青筋が走った。

「お前だって不当に閉じ込められてむしゃくしゃしてるだろ」

「僕は君ほど命知らずじゃない。ほとぼりが冷めて白石さんが許してくれるその時までここにいる」

「悠長なことを」

「真波もわかるだろ。ようやく手に入れたこの幸福。今まで川崎たちと一緒に世のカップルを軽蔑して唾を吐きかけてきたこともあったけど、僕は今のこの現状を手放すことが怖くて堪らない。正直言って何回か漏らすほど」

「……ここから出たら銭湯に行け。そして尻は入念に洗え」

 すっかりおよび腰になってしまった横水の変わりように心底落胆した。まさに腰抜け。安易な幸福に足元をすくわれた結果がこれである。すっかり現状に甘えてリスクを恐れ、ひたすらに尊厳を奪われ続ける敗者の姿である。きっと壁の向こうの奴は俺と同じく裸にひん剥かれて山の天気よりも変わりやすいであろう彼女の気分に震えているのだろう。醜態ここに極まれり。奴が使い物にならないのでは仕方ない。

 俺は奴とは違う。正義がこちらにある以上、俺が一歩も引く必要は皆無。この監獄じみた部屋から這い出ることに、一体何のためらいがあるだろうか。折られた我が鎖骨の鎮魂も含めて司には断固として歯向かっていこうではないか。

「ここから逃げるなら逃げればいいじゃん。僕はおすすめしないけど」

 壁の向こうから横水が言った。妙に澄ました声音だった。俺と同じ無力な有り様のくせに賢げな口ぶりが勘に障る野郎だ。

「できるならとっくにやってるつーの。それに俺も今わかったことだが、彼女はなんというか……後ろから首を締め上げてくるタイプだ」

 俺が認めた女性なだけあって手強く厄介な乙女である。

「たしかに司さんの性格を踏まえても、またすぐに捕まるのがオチだろうな」

「……わかってるなら言うな」

 小さく舌打ちをしてから、横水は壁に背を預けたらしかった。鈍い衣擦れが音になって伝わる。こちらも同じように壁へ体重を預けてみると、湿気を吸ったコンクリートの冷たさが肩甲骨のあたりに滲んで、少しだけ頭の熱が引いた。

 しばし沈黙が流れた。蛍光灯の不機嫌な唸りと、どこか遠くの部屋で水滴が落ちる音だけが、薄暗い補習棟に響いた。

「お前さ」と横水が口を開いた。「司さんのこと、どう思ってるんだ」

「鎖骨を砕く女だな」

「そういうことじゃない」

「十分すぎるだろ」

「でも付き合ってる」

 言われて言葉に詰まった。

 付き合っている。確かにそういうことになっている。俺も周囲に対してそういう態度を取り、内心でもある程度はそれを認めていた。だがあれは一体、いつ、どの瞬間からそうなったのか。告白があったわけでもなければ、手続きを踏んだ覚えもない。ただ、枝豆を食って、牛乳を飲ませて、惨めにゴムを切らして、泣いて、そして気がつけばこうだ。まるでぶきっちょが折る鶴のようなあまりに俺に相応しくない経緯である。

「……お前こそどうなんだ。白石のこと」

 話題を投げ返すと、横水はしばらく答えなかった。壁の向こうで鼻で笑ったのか、あるいは息を吐いただけなのか、判然としない気配がした。

「好きだよ」

 思ったよりまっすぐな声が静かに届いた。

「だから困ってる」

「はっ、お前が困るなど百年早い。女を作ったその日からお前は俺たちの敵なんだ」

「まだそれ言うのか」

「当然だろう。しかもよりによって一回生だぞ。先輩風の吹かしがいもあっただろうに、それを恋愛に使うなど愚の骨頂だ」

「君にだけは言われたくないな。それに真波も同罪だろ」

 互いに軽口を叩き合う。湿った部屋の空気の中で、そのくだらなさだけが妙に心地よかった。考えてみれば、こうして壁越しに喋っている分には、俺たちはいつもの川崎の部屋にいた頃と大して変わらないのかもしれない。違うのは、こちらが裸同然で鎖に繋がれていることと、向こうもまた似たような境遇にあることだけだ。

「でもな」と横水が続けた。「彼女ができてわかったこともある」

「聞きたくない」

「聞け。どうせ暇だろ」

 癪だったが、俺が黙っているのを承諾とみなしたらしく、横水はゆっくりと話し始めた。

「恋愛ってさ、勝ち負けじゃないんだ」

 一体どこから拾ってきたのか、格言的な空気を纏わせて言ってきたのがまったく響かなかった。

「そこでその寝言を口にするからお前は駄目なんだ」

「違う。正確には、勝とうとした方が負ける」

 その言葉は妙に生々しかった。

「相手の機嫌を見て、少しだけ自分を削って、ちょうどいいところで黙って、相手の欲しい言葉を探して、そうやって均衡を取るんだ。僕はそういうの、数学と同じで最適解があると思ってた」

「で、実際はどうだった」

「毎回、解が変わる」

 笑っているのか泣いているのかわからない、ひどく曖昧な声だった。

「昨日正しかった答えが、今日には地雷になる。だから、正しいことを言うより、間違えた時にどうするかの方が大事なんだと思う」

「随分と弱気になったな。それに解が変わるならその度に解けばいい。そうしたやり方なら心得ているだろ」

「恋人がいると、誰だって少しは愚かになる」

「お前は少しでは済んでいないけどな」

「お前もじきにわかる」

「わかるか、そんなもの。犬も食わんぞ。あとあんまり芯を食ったような言い回しをするな」

 即答した。即答したにもかかわらず、その言葉は自分の胸の中であまり響かなかった。司の顔がよぎったからだろう。牛乳を飲み干して「ぬるかったら腐ってるでしょ」と言い放った、あの何でもない顔。あれを思い出すたびに俺の中で何かが静かに腐っていくような気がした。

 その時だった。

 廊下の向こうから、軽い足音が聞こえた。

 それは男のものではなかった。踵の低い靴がコンクリートを叩く、細く硬い音。迷いなくまっすぐこちらへ向かってくる歩き方だった。横水も気づいたのか、壁の向こうで息を呑む気配がした。

 足音は俺の部屋を素通りし、隣で止まった。

「横水君、いる?」

 女の声だ。なんだか透き通るようで可愛げのある、男が好きそうな声音である。俺の知らぬところで、胸の奥に小さな針が刺さった気がした。壁一枚隔てた向こう側で、横水の呼吸が変わる。

「……白石さん」

 取り繕うのに失敗したような哀れな声だ。

 おそらく横水の彼女という不運な目にあった白石さんが来たようだった。姿はわからないが、横水のことだ。背のやや低い、長い髪をした女の子っぽい清廉な乙女なのだろう。

「一応言っとこうと思って」

 白石の声は妙に平坦で、しかし少し急いでいた。

「今日、このあと飲み会あるから」

 横水は何も言わない。

「連盟の人たちの知り合いも来るみたいで……たぶん顔合わせ、みたいな感じ」

「……はあ?」

 やっと出た横水の声は綺麗な間抜けっぷりだった。

「顔合わせってどういうこと。合コンか? それ、今わざわざ僕に言う必要ある?」

 困惑に紛れた怒りの香りがした。

「言わないまま行く方が嫌かなって思ったから」

「嫌ってなんだ?」

「なんだって言われても……」

 白石も少し言葉に詰まった様子だったが、思い出したように詰まったそばから言葉を紡ぐ。

「百先輩にもちゃんと見た方がいいって言われたし」

 俺の背中にじわりとした冷たい汗が浮き出た。

 百先輩。やはりあの女か。腑に落ちたような感覚があった。しかしなぜ司が絡んでくる。俺を閉じ込めて鎖骨を砕くだけでは飽き足らず、壁の向こうの色恋沙汰にまで細い指を伸ばしていたとは。恐るべき粘着力である。蜘蛛の糸ですらここまで執拗ではあるまい。無用にあちこちに首を突っ込んでほくそ笑む悪趣味な彼女の顔が浮かんだ。

「なんでここで司さんが出てくるんだ。それに見るって何だ?」

 横水の声が強張る。

「だって、先輩の言うこと正しいし……私も、ちゃんと考えた方がいいかなって思っただけ」

 それは、別れの言葉ではなかった。だが、まるで別れを含んだようなものだった。明確に口にしないまま、十分に人を傷つけるやり方というものはある。司の近くにいると、みんなそういう話し方を覚えるのだろうか。それしか心当たりも見つからない。

 横水はしばらく何も言わず、やがて絞り出すように言う。

「……別に、行くなら行くで僕は構わない」

 壁の向こうで、あいつがどういう顔をしているかは見えない。だが手に取るようにわかった。顎を引いて、冷静を装い、目の前の現実を睨みつけて受け入れまいとする姿勢。児戯に等しい反抗であり、眼鏡の奥の瞳は暗い蛍光灯の光を映し出すほど湿っていそうだ。

「僕たちは付き合ってるけど、交友関係まで縛るつもりはないし」

「うん」

「そういうの、僕は狭量だと思う」

「……うん」

「だから、行けばいい」

 だんだんと小さく萎んでいく白石の声は消えてしまいそうだった。

「わかった。じゃあ行くね」

 それはあまりにも素直で弱々しい返答だった。

 数秒の沈黙。

 そして、白石の小さな声。

「……ばか」

 足音が遠ざかる。

 しばらくの間、廊下には何の音もなくなった。だが壁の向こうの静寂だけが、逆に痛々しいほど広がってきた。

 足音が消えてからやがて横水が呟く。

「いや……」

 せきを切ったように続けた。

「無理だろ」

 我に帰ったかのように否定する横水。もう何もかも手遅れであることに気付いていないのか。あの状況、もう別れを告げられたといっても相違ない。今さらどうすると言うのか。

「お前さっき行けばいいって」

「言った。言ったけど、それは僕が立派な男だった場合の話だ」

 横水から並々ならぬ強い意志を感じる。

「今は違うと?」

「違うに決まってるだろ!」

 壁の向こうで何かを蹴った音がした。たぶん机か椅子だ。恋人を持つと人はこうも容易く愚かになれるものなのかと感心すら覚える。数式にとことん真摯に向き合う碩学あらめいた過去の横水が頭をよぎる。すっかり女の奴隷に成り下がった軽蔑に値する男へフルモデルチェンジしていた。極めつけは強がった発言から一蹴。あまりに女々しく見るに堪えない。

「真波、行くぞ」

 雄々しく童貞が吠えた。

「どこに?」

「白石さんを追う」

「ほお」

 俺は鼻で笑った。

 わざわざ追いかけて更なる醜態を演じようなんて物好きな奴だ。

「すまない、追うというかちゃんと話す。そして誤解を解く。司さんに何言われたか知らないけど、とにかく追いかけねば。連盟の顔合わせって男狩りか何かのやつだろ。ロクな催しじょない。何より僕よりいい男なんてそうそういないが確率論的に見て彼女が他になびく可能性もある。マイナス値にある今の現状はとても危険だ。ここで阻止しないと万が一……」

 先ほどの態度から一転して焦りと執着が剥き出しになっていた。見苦しい。じつに見苦しい男だ。

「協力しろ真波。ここから脱出する」

 横水に似合わなく力強く言ってきた。

 俺が最初に言った時は軽々にあしらってきたくせに、己の都合が悪くなれば恥も外聞もみっともなく捨てて厚顔にも協力をしろと言う。

「無理だな」

「なんでだよ!さっぎでの威勢はどした!」

「当たり前だろ。虫がよすぎる」

「くそ! 一体誰のおかげで僕がこんなとこにいると思ってる!」

「ほぼお前だろ」

「冗談はよしてくれ。司さんのせいでもある」

 脱出にやる気を(みなぎ)らせる横水から司の名前が飛び出る。彼女の名前が出てきてから俺の中では別の何かが動き始めていた。外へ出れば自由があるわけではない。川崎たちも、白石も、横水も、もう少なからずあの女の射程の中にいる。ならば今ここで飛び出したところで、せいぜい盤上の駒が一つ位置を変えるだけだ。司からの脱却が俺が行うべき急務といえる。

 その時、廊下からまた別の足音がした。

 今度は聞き間違えようがなかった。

 軽い。一定。迷いがない。さっきの白石よりも、もっと自然にこの空間を自分のものとして歩く足音。

 扉が二度、控えめに叩かれる。

「宗くん、起きてる?」

 司だった。

「最悪のタイミングだな」と横水が壁の向こうで呻いた。

「お前は黙ってろ」

 そう言ってから、俺は扉の前へ向きを変える。体は自由でも、状況は自由ではない。しかしこの程度の逆境など今まで幾度となく乗り越えてきた。

 扉が開いて司がじっと俺の顔を見つめてくる。

「なんか覚悟キマッたみたいな顔してるね」

 コンビニ袋を片手に立っていた。ペットボトルと何か甘い菓子の角が見える。人を監禁しておいて差し入れとは、あまりにも生活感に満ちた悪意である。それで俺の心を(ほだ)そうとしても無意味だ。

「それにしても騒がしくなかった?」

「白々しいな」

「何が?」

 司は薄く笑った。あの笑い方だ。何かを知っていて、しかもその全部は言わない時の顔。あの牙城を崩さなくては俺に勝算はない。

「白石に何言った」

 単刀直入に聞くと、彼女は小さく瞬きをしただけだった。

「何も」

「嘘つけ」

「少し話しただけだし。でも宗くんの友達って案外素直なんだね」

 その一言に、腹の底がじわりと熱くなる。言い返したい。だが同時に、やはりこいつは外にまで手を伸ばしていたのだという嫌な確信が生まれた。

 司は俺の顔を見て、それ以上は言わなかった。代わりにコンビニ袋を床に置く。

「甘いの食べる?」

「毒でも盛ってるのか」

「なんで入ってると思ってるの」

 さらりと言ってから、彼女は俺の手首に視線を落とした。少しだけ枷の跡が赤くなっている。その赤みを見て、ほんの一瞬だけ司の表情が揺れた気がした。しかし次の瞬間には、いつもの無表情に近い薄さへ戻っていた。

「……真波、今だ!」

 壁の向こうから声が飛ぶ。

 横水はもう完全に腹を括ったらしい。何か重いものを引きずる音、金属をこする音、荒い呼吸。どうやら本当に出るつもりらしい。

 司がわずかにそちらを見る。

 その横顔は、面白い玩具が急に動き出したのを観察する子どものようでもあり、事故現場を前にした救急隊員のようでもあった。要するに、まるで読めない。

「宗くん、行くの?」

 彼女はごく自然に訊いた。

 行くのか。

 横水は行く。白石を追うために。

 俺はどうする。

 外へ出たところで、もう盤面はぐしゃぐしゃだ。川崎たちは鼻の下を伸ばし敵へと成り下がり、横水は恋人を追い、白石は司の言葉に揺れ、司はその全部をどこかで見ている。あまりにも気に入らない。だが、だからこそ、今ここで外へ飛び出すのは、俺の負けを意味する気がした。

「……行かん」

 横水が向こうで絶句する気配がした。

「正気かお前!」

「お前こそだ」

 扉の方を見たまま、俺は言う。

「最終面接の内容。どうせ横水に煽られて俺がこの部屋から出るか出ないかを試すって感じのものだろ」

 司は俺の顔をじっと見た。薄い唇の端がほんの少しだけ上がる。

「へえ。そこまで考えられるんだ」

「舐めるなよ」

「別に舐めてないよ。宗くんって普段はどうしようもないのに、変に気づくとこは気づくね」

「褒めてるのか貶してるのか、どっちかにしろ」

「半々かな」

 司は床に置いたコンビニ袋から小さなバウムクーヘンを取り出し、包装を剥いた。甘い匂いが漂う。空腹というものは人格を摩耗させる。今の俺はこの女への怒りと同じくらい、砂糖と油脂への欲望に支配されていた。

「最終面接の内容、って言ったっけ」

 司は指先でバウムクーヘンを摘まみながら呟いた。

「宗くん、そういうのいちいち口に出すと安っぽいよ」

「図星だからそういう反応になるんだろ」

「うーん」

 彼女は少し考えるふりをした。

「半分正解で、半分ハズレ」

「曖昧な採点だな」

「宗くんは曖昧なくせに偉そうだよね」

 それから司は一口かじる。柔らかい菓子を咀嚼する顎の動きに見惚れてはならない。見惚れたら最後だ。俺の中の何かがまたズブズブと沈む。

「私は別に、宗くんがここから出るかどうかだけを見てるわけじゃないよ。それに別に出てもいいし」

「なら何だ」

「いま宗くんの頭の中で、何が一番大きいか」

 言ってから、彼女は壁の方をちらりと見た。

 向こうでは横水が何か重いものを引きずる音を立て続けている。あいつは本当に脱け出す気らしい。恋人一人でこうも胆力が変わるものかと、もはや感心すら薄れていた。

「白石か」

 わざとらしく俺が言うと、司は「まさか」と小さく笑った。

「煽ろうとしても無駄だから。そこまで単純だったら楽なんだけど」

「お前の方がよっぽど単純に見えるがな。気に入らないことがあったら人を閉じ込めて鎖骨を砕く。猿でももう少し知恵がある」

「猿に失礼だよ」

 しれっと返しやがる。

「でも宗くんはさ、そういうところ本当にダメだね」

「何が」

「なんでも勝ち負けにしたがるところ」

 その一言だけ、やけにまっすぐ耳の奥へ刺さった。

 俺が顔をしかめると、司は少し目を細めた。勝ち誇ったのではない。むしろ、ようやくこちらの皮膚に針が届いたのを確かめるような目つきだった。

 突然壁の向こうで、盛大に何かが倒れた。

「痛っ!」

 横水の情けない悲鳴が響く。

 司が眉をひそめる。

「うるさいな」

「お前がそうしたんだろ」

「私は手伝っただけ」

「人はそれを元凶と言うんだよ」

 司は答えず、代わりにバウムクーヘンの残りを俺の方へ差し出した。

「食べる?」

「施しは受けん」

「そう。美味しいのにファミマのやつ」

 彼女はあっさり引っ込める。その素っ気なさがまた腹立たしい。受け取らなかったのは俺なのだから当然なのだが、こちらの意地を一切慮らぬ速さで引かれると、それはそれで屈辱であった。

「真波!」

 壁の向こうから再び横水の声が飛ぶ。

「こっちは窓だ! 窓がある! 鉄格子一本だけ浮いてる!」

「だからどうした」

「どうしたじゃない! 手を貸せ! いや、声を貸せ! なんでもいいからこっちに来い!」

「雑な指示だな」

「一人だと心細いんだよ!」

「ようやく本音が出たか」

「うるさい!」

 横水はもはや理性の体を成していなかった。碩学の皮を被ったまま恋に殉じようとする、愚かしくも切実な男の声である。

 司はその遣り取りを黙って聞いていたが、やがて小さく息を吐いた。

「宗くん、行かないんでしょ」

「さっきそう言った」

「気が変わるかもって」

「そんなに俺の意志は軽くない」

「軽いよ」

「断言するな」

「軽いから飛田なんか行くし、軽いから今もそんなに偉そうなんだよ」

 俺は思わず言葉に詰まった。

 この女は、たまに人の足元の床だけを抜くようなことを言う。正面から殴るのではなく、立っていた前提そのものを疑わせる。あまりにも性質が悪い。それに飛田のこと根に持ってるじゃないか。

「……じゃあお前は何がしたい」

 しばらくの沈黙の後、俺はそう聞いた。

「俺を閉じ込めて、横水たちまで巻き込んで、何がしたい」

 司はコンビニ袋の口を結ぶ。

 その指先の動きだけが妙に丁寧で、だからこそ腹が立った。人を閉じ込め、鎖骨を砕き、大学の補習棟へ収監しておいて、手元だけは育ちの良い娘みたいに静かなのだ。実に気に食わない。

「何がしたいって、別に」

 司は顔も上げずに言う。

「宗君にむかついただけだけど」

「ふん。凡俗の癇癪だな」

「今までの人はみんなここらへんで折れてたけどね」

 その発言にアダマンタイト級の我が御心に稲妻ような亀裂が走った気がした。

 思えば俺たちはすでに二十歳を超えて、千変万化の紆余曲折の末にこんな妙竹林なる大学までやって来た。俺という強大な器はいずれ霊峰へと至る。そんな大器晩成型な器をした俺に見合う女など大学のマドンナ泉さんくらいのものだと思って、あらゆる恋の芽を他人のもの諸共踏みしだいてきた。俺にそうした恋の歴史があるように、司にも引く手数多の桃色に光る有頂天だってあったことだろう。

 司が俺以外の男と放送コードに引っかかるレベルのにゃんにゃんな時間を過ごしてきた過去があるかもしれいない。彼女は永遠の処女であると決めてしまってもいいが、永遠というのは余りにも悲しみが止まらない。配慮はしよう。思慕を巡らせもしよう。紳士たらんと堅く努めよう。だから教えてほしい。何故、今元彼の話題を出した。

「その今までの人とやらには同情する」

 無論、俺が奴の過去の男をいちいち気に病むほど矮小な器ではない。人には歴史がある。当然、女にもある。それだけのことだ。

「なーに、動揺してる?」

「ははっ、まさかまさか」

 何が面白いのか、こちらを見透かしたようにほくそ笑んでいる。

 おそらく彼女の魂胆は俺を動揺させて、一喜一憂する様を見たいのだろうが道化を演じるつもりは毛頭ない。

「ふーーん」

「……なんだよ」

「別に。ただ宗君が思ったより私を好きなみたいで何よりだなぁって思っただけ」

 まるで感情のこもってない棒読み具合。いつまでもこの女の思惑に付き合っているほど俺は暇ではない。

「ならもうこの茶番はいいだろ」

「確かに元彼って言葉で動揺するくらいだから宗君の童貞っぷりはまだまだ健在ってことが確認できたのはいいことだね」

「うるせえ!! 誰が童貞だ!」

「そこ否定するのは無理だと思うけど」

 散々失礼なことを口にした司はポケットから鍵を取り出して、雑に放り投げてきた。

「出たければどうぞご自由に。続きは今度聞かせてくれればいいから」

 司は部屋を出ていった。出ていく直前に「考えといて」と勝手に告げて、無理やり監禁したと思えば鎖骨を砕いて脱出のための鍵を置いていく。

「一体何がしたいんだあの阿呆は」

 怒りよりも呆れが先に立つ。俺は掻き回すのは好きだがされるのは我慢ならない性質たちである。


 床に転がる鍵を見る。手を伸ばせば届く距離にあった。だがここで解放されたとしてもそれは真なる自由ではない。仮釈放とも違う。ハリボテの自由である。司の魔の手はもはや俺の考え及ばないところまで侵攻しているだろう。彼女がここまで俺を追い詰める人物だったとは。俺に見る目があったのかなかったのか。彼女であればたとえ戦乱の世であれば世界を牛耳るのもお手のものだろう。

 むくむくと膨らむ想像を前にすると目の前の鍵に手が伸びなくなってきた。一時の自由に鼻息を荒くしてかぶりつくほど俺は愚か者でない。

「話は終わった?」

 しばらく沈黙していた横水が声をかけてきた。

「今しがた。お前はまだ出ないのか?」

「今は数学しか学んでこなかった自分を呪ってるところだよ。どうして僕は肉体的鍛錬をやってこなかったんだ」

「城之内先輩みたいな知性からかけ離れた存在をあれほど軽蔑していたじゃないか」

「それはそうだけど……」

 どうやら横水はなけなしの体力と筋力を使い果たしてお得意の茫然自失となっているようであった。

 無為な時間が過ぎていく。我々は、たかだか女ひとりになんてざまななのだろうか。

「……白石さん、僕に愛想を尽かしたのかな」

 おもむろに横水はつぶやいた。

「今日のこれは、白石さん一人の思いつきじゃない気がする」

「フラれたのに女々しいぞ」

「まだフラれてない。彼女はこう奥手というか、こんな大胆なことをするような子じゃないんだ。数学的見地から鑑みても違和感を感じる」

「訳のわからないことを」

「最近白石さん、司さんの名前をよく口にしていたんだ。先輩がどうとか、先輩に言われたとか……」

「何が言いたい?」

「多分、試されているんだ」

 横水の言葉に止まっていた思考が動いた。

 司は部屋を出ていき、選択の可否を俺に渡した今も俺を試し続けている。こうして俺が意固地になって部屋から出ないことも踏んでいるのか。それとも刃向かい部屋から出るのか。どうあれ白石と同様に彼女もまた俺を試しているといえよう。

 女はすぐに試したがる。

 それはどうしようもないことなのだろう。大学構内のマドンナ泉先輩と話した時、彼女もまた何でも試したがり、自分に惚れる男をオモチャのように試し尽くしていたことを思い出した。

 俺は今一度、司百という女から脱却を図らねばならない。あいつの描く最終面接とやらをシュレッターにかけるかのごとき盤狂せを起こさねばならない。そうしてようやく、俺と彼女は対等に戻れる。聖女上座連盟に不平等条約を結ばれ続ける哀れなおバカ学生どもと同じ階層に落ちてなるものか。

 今ここで殊勝にも「俺は司のことがどういう風に好きなのか」とか「本当に好きなのか」などと己を見つめ始めるなど馬鹿のすることだ。むしろ犬と言っていい。従順な飼い犬である。鍵を投げられ尾でも振るつもりか。冗談ではない。俺は犬は嫌いなんだ。

 俺は鍵を取った。

「横水、出るぞ」

「真波?」

「今出るのは負けだと思っていた。だが」

 手錠に鍵を刺す。

「残るのも癪だ」

 勢いよく鍵を回した。

「真波?」

「錆びついて動かん」


 ○


 この時ばかりの俺の握力は軽く七十を超過していたことだろう。

 それほど固かった手錠の鍵を回して俺は外へ出た。隣にいると思われる横水の部屋へ行く。

「出られたのか真波」

 扉越しの声は興奮気味だった。

「ああ。お前も今から出してやる」

「君は最低だけど親友で本当に良かったよ」

「褒めるな。別にむせび泣いてもいいが、勘違いするなよ横水。俺はお前の恋路に付き合う気はない。百が一体何をやったのか白石に話をく。そのためにお前を出す。俺は彼女の顔は知らんからな」

「何でもいいから早く出してくれ。ところで鍵は?」

「ここにある」

 所詮は聖女上座連盟。ほとんどの会員は面倒くさがりな連中だ。一つ一つの鍵を変える当然のセキュリティを律儀にやる輩ではない。

 扉の錠前に鍵を近づける。鍵穴の形も同じ。錠前の癖も似たようなものだろう。今の俺に不可能はない。そう高を括って目に映ったもに俺は言葉を失い、ペンギンのように固まってしまった。

「どうした。早く開けてくれよ」

「お前の扉だけダイヤル式だ」

 百均にある三桁のダイヤルを悪戦苦闘しながら模索し、扉越しでわめく横水の理解できない解錠プロセスに苛立ちを覚えながら22通り目でようやく扉が開いた。

 横水は泥だらけでもやしのような体にパンツ一丁の姿という卑猥な姿であった。

 再会を果たした俺たちは顔を突き合わせた。

「横水、一つだけ約束しろ」

「何?」

「白石さんを見つけても泣くなよ?」

「泣かない!」

「もし合コンがいい感じで進んでいて、白石さんの肩に手を回す腐れイケメンを見ても泣くなよ?」

「その時は相手を殺してから僕は泣く」

「いい心がけだ」

 とは言ったものの、彼の心がけを実行するには問題があった。

 パンツ一丁の横水を見下ろし俺は眉をひそめる。横水もまた、俺を見て顔を歪ませた。

「その格好で街へ出る気か?」

「そんなわけないだろ。君は僕を何だと思ってるんだ」

「恋人のことしか頭にない下半身主体の数学者」

「えらく侮辱的だし、何だか違法的だ」

「事実だろ」

「僕は法学部じゃないけど、君だって法に触れていることくらいわかる」

「しかしだな横水」

「うん。時間がないのもまた事実」

 この補習棟には俺たち二人の尊厳を救うような衣服が一枚たりとも存在しない。

 砕かれた鎖骨に湿布を貼った上で、ほぼ裸同然の醜態を晒してる。司百という悪女は監禁と暴力だけでは飽き足らず、人としての最低限の外聞まで奪って行った。敵としては百点に近い。

「どうする真波」

 横水が訊いてくる。

「このまま行くしかないだろ」

「でも流石にこの格好は」

「こうしてる間にも白石が他の男と、それこそ取り返しのつかない事態まで進行する可能性だってある。お前は人としての尊厳と、彼女。どちらを優先するんだ?」

 何かに思い至るようにハッとする横水は、覚悟を決めたように言った。

「もちろん。彼女のためなら僕は文明人の誇りさえも捧げよう」

「それでこそ親友だ」

 これで白石との恋愛関係に亀裂を入れることができる。いくら好意を寄せているからと言って、追いかけてきた男が全裸卿の阿呆メガネであれば、一回生という未熟な卵でも見限ることだろう。

 横水の恋路に何ら興味はないが、奴が俺を差し置いて幸せになろうなどと、俺の目が黒いうちは許してなるものか。

「じゃあ急がないと。白石さんに寄り付くゴミを排除しなくちゃ」

「その意気だ」


 ○


 夕暮れの空が赤く、火の玉のような夕日が落ちようとしていた。

 補習棟を抜けた俺たちは背中に向けられる悲鳴をよそに大学を駆け抜けた。

 構内を出て駅前付近にある学生向けの飲み屋が乱立する大通りへ出る。そのまま聖女上座連盟御用達の激安居酒屋へと向かった。赤提灯、串カツ、焼き鳥、飲み放題とある看板。大学生には十分すぎる激安店舗。

「このへんか」

 俺がつぶやくと、横水は息を整えながら頷いた。

「白石さん、ここらの店でよくサークルが飲み食いすると言っていた」

「恋愛から得られる情報がその程度なら、やはり投資効率は低いな」

「その情報に頼ってるの君だろ」

 神戸の夜に響き渡る笑い声。若い喧騒。目を凝らして周囲を観察する。そしてようやく横水の眼鏡が彼女を捉えた。

「いた!」

 俺たりは二人は物陰に身を隠しながら白石を見つめた。長い茶髪を揺らし、人見知りのような挙動をしつつも女たちの輪のなかにいた。隣には連盟の女が三人。幾度か大学で見かけた顔ぶれだ。

 今まさに居酒屋へ入ろうとしている。

「いたな」

「行くぞ」

 半歩前へ出る横水。その肩を俺は掴んだ。

「待て」

「何だよ」

「相手がどんな奴か気になるだろ」

「君はまたそんな悠長な」

 彼女たちはどうやら風にあたりに一旦外に出ていたのだろう。店の外でしばし雑談をした後、店に戻って行った。


 ○


 何食わぬ顔で俺たちも店に入る。

 ここの店員は魑魅魍魎の我が大学生たちの相手は慣れているのか、普通に「ご予約ですか?」と訊いてきた。

 適当に誤魔化して二階の宴会席へと向かう。

「ここの店はえらく寛容だな」

「たぶん、大学生を相手にしすぎたせいで価値観がバグってるんだ」

「どうせ浄蓮寺先輩あたりがやらかしてるんだろ」

 二階席へ行き、女性の靴と男物の靴があるテーブルへ向かう。

「白石さんの靴だ」

 男女の声がよく響く。暖簾の隙間を覗いてみると、そこには驚愕すべき光景が広がっていた。

 品のない笑い声を飛ばし、しょうもない間の取り方で得意げに会話を繰り広げている。そして自分の人生におけるわずかな好機を逃すまいと血張らせた目つき。地の果てまで伸びる鼻の下。

「嘘だろ」

 白石たちの合コン相手。それは俺を嵌めて、司の味方についた川崎、園田、堀越の三人だった。

「なんであいつらが」

 怒りに燃える俺を前に横水も息を飲む。

「待て真波。まだ川崎たち本人と決まったわけじゃない」

「無理があるだろ。残念だがあいつらの声真似が得意な人間を俺は知らない」

「だってあいつらに合コンなんてあり得ない。月とすっぽんだ」

「それを言うなら豚に真珠だろ。いや何でもいいが、あいつら俺を嵌めたくせに自分達だけ美味い思いしやがって」

 全員が酷い顔をしている。

 女と話せるだけでまるで己が一階級上がったと信じているような男の顔である。川崎は妙に背筋を伸ばし、ぽっちゃりとした腹を引き締めている。園田は知的な男を装うと気取って振る舞い、堀越に至っては自分が相手にどう映っているのか気にしすぎて、かえって彼の輪郭が薄くなっているようであった。

 その向かいに白石たちがいる。

 彼女たちは笑っているが、あからさまに引いているような、引き攣った顔をしたりしている。どうやら怪物が相手とあって連盟の娘二人も捌ききれていないのだろう。よくもこんな悪夢を実現したものだ。

「白石さんにあのクズどもは近づけさせたくなかったのに。あいつらは何でこんなところに」

「簡単な話だ。女が用意されると聞けばあいつらは神だって売る」

 そしてこの状況を用意したのは紛れもなく司百しかいない。

 しばらく静観した。

 園田がカクテルのグラスを持ち上げる。その角度からして、自分はイケメン俳優で上質な紳士を演じているつもりなのだろうが、やけに胸元の開いたシャツが痛々しく、目を覆いたくなった。

 三人ともがえらく白石に声をかけてアプローチをしている。おそらく一回生という瑞々しい香りに当てられたのだろう。まるで誘蛾灯に招かれる虫のようである。そんな虫けらを相手に彼女は笑ってはいた。だがその笑顔は透き通るほど眩しいというより、眩しくあろうと努めているように見えた。

「もう耐えられない」

「待て。まだ状況の確認が必要だ」

「待てだと? 僕の恋人が、僕の敵と、僕の知らない顔をしてるんだぞ」

「落ち着け。そうやって衝動で動く癖を治せ」

 そして川崎がウィスキーの入ったグラスを片手にえらくキザな声で言った。

「ところで君たちは童貞は好きかな?」

 そのセリフに俺たちは耐えきれず暖簾を突き破った。

「「なんの話してんだ!」」

 思わず声を荒げて場に飛び出してしまった。

 店内の視線が一斉に向けられる。

 座敷の空気は一瞬で凍りつき、焼き鳥の煙すらたじろいだように見えた。

 最初に口を開いたのは川崎だった。

「何でお前ら裸なんだよ!」

「うるせえ! 合コンで何訊いてんだよ童貞が!」

「ああん⁈ 趣味を確認し合うのはマナーだろ!」

 白熱する口論の隙に横水が前へ出て白石に声をかけた。

「ここで何してるんだ白石さん」

 白石は明らかに面食らっていた。若干、頬も赤らんでいるようだった。恋人の全裸同然の姿があまりにセクシュアルだったのだろう。当然だ。こんな追走、恋愛指南書のどのページにもあるまい。

「え、いや、だから飲み会で……」

「そうじゃなくて!」

 横水の顔が裏返る。連盟の一人はわずかに引いて、もう一人は面白いオモチャでも見つけたような顔で目を細める。じつに連盟らしい、人の修羅場をつまみに酒が飲める顔だ。

 すると、園田が慌てて立ち上がって二人に割って入る。

「おいおい! 白石ちゃんが困ってるだろ! 俺の未来の恋人にちょっかいかけてんじゃねえ!」

 その一言が引き金になった!

「どっちがだ!」

「よくも裏切りやがったな!」

 横水と俺は吠えた。怒号に空気が震える。川崎は戦闘態勢に入り、園田は空き瓶を手に持つ。堀越はなぜか自分のスマホだけを守るように縮こまった。

「裏切り者はどっちだ!」

「お前らの幸福、潰させてもらう!」

 互いに取っ組み合い、場は完全に乱闘と化した。

 俺は川崎の襟首を掴み、重心を崩すように立ち回る。

「あの時はよくも裏切ってくれたな! 百と結託してよお!」

「彼女が合コンを組んでくれるって言ってたからな! お前を差し出すくらい安いもんだ! つーか気安く下の名前を呼んでんじゃねえよ!」

 吠える川崎に机にある焼酎をぶっかけてやる。

 そして俺はすかさずライターに火をつけて奴の顔面めがけて突進する。

「くだばれや!」

「こんなシケた酒に火が付くかよ!」

 横水も今までにない悪鬼の形相で園田へ襲いかかる。

「往生せえや!」

 園田の目を潰そうとして刺突のごとき一撃を繰り出す。園田は寸前のところで避けて反撃に空き瓶を投げた。横水も大量のドーパミンからくる覚醒したシナプスを持って直撃を回避する。

「横水、貴様だけはっておかねえとなあ」

「汚物め。白石さんに近づくな」

「彼女はすでに俺にメロメロだったぞ。元友人として祝福してくれよ」

「お前に惚れる生物は未来永劫、ゴキブリだけなんだよ!」

 テーブルにあるもの何でも拾って投げつけた。

 醤油や冷め切った餃子。枝豆のゴミに至るまで何でも武器にした。戦闘の余波が周囲の人間にも及び始める。

 連盟の少女たちにも食べかすのゴミが服につく。悪態を吐く彼女たちの声など、今の俺たちには届かない。

 気がつけば周囲の別卓の客も避難し始める。

 俺は堀越が座っていた座布団を無理やり引っ張り上げて川崎の顔面にめがけて投げつけた。

「死ねぇ!」

「甘いわ!」

 川崎はそれをブロックし、むしろ投げ返してきた。

 投げ返された先にいたのは偶然にも白石がいた。

「くそっ!」

 叫ぶよりも早く横水が飛び出すが、彼の脆弱な体では追いつくこと叶わず、座布団は白石の顔に当たってしまった。

 その瞬間、沈黙を貫いていた彼女が小さな口を開いた。

「もうやめてください!」

 甲高い声が、乱闘の熱を真っ二つに断ち切った。

 その一声だけで、座敷の空気は急激に冷えた。俺の腕も、川崎の酒瓶を握る手も、横水の前のめりな体勢も、まるで誰かに急ブレーキを踏まれたみたいに止まる。

「何やってるんですか」

 白石は座布団を顔に食らったまま、今にも泣きそうな顔で俺たちを睨んでいた。頬が少し赤い。

「白石さん……誤解なんだ。僕は君を追いかけて」

「そんな格好で何言ってるんですか」

 ぴしゃりと言われて横水は止まる。奴も奴で今にも泣き崩れそうになっていた。

 思えば彼は走れメロスのごとき気高き思いと、それに準じる高潔な御姿である。無論、メロスほどの感動的なものなどは皆無だった。

 そこへ園田が割って入る。ずれた色付きの眼鏡を直しながらまだ知的な装いを作っていた。

「いや、白石ちゃん。落ちついて。まずは状況をよく見てほしい。こんな奴らに僕と君の出会いを台無しにされた怒りはわかるけど」

 白石は一瞬、園田を見た。そして迷いなく言った。

「やめてください。さっきから。あなたが一番気持ち悪いですから」

「なんで!」

 園田は膝から崩れ落ちた。彼はどうやら白石に脈があると思っていたのだろう。ほぼお通夜のような飲み会でもあったのに。どうなってるんだあいつの思考回路は。馬鹿である。

 川崎が「はっ」と変な声を漏らし、俺ですら少し感心した。

 切れ味が良い。非常に良い。白石への評価が一段上がる。

 次の瞬間、店の奥から店長が飛び出してきた。

「お前ら全員、外でろや!」

 俺は肩を押され、川崎は襟を掴まれ、横水はなおも白石を見ようとして首だけ後ろへ向けたまま引き剥がされ、園田は硬直したまま押し出される。堀越はスマホを守りながら勝手に転がっていった。

 川崎が地面に尻もちをついた。

 横水は肩で息をしながら、まだ暖簾の方を見ている。

 暖簾の隙間から、白石が一歩だけ外へ出た。

 俺たちは反射的にそちらを見る。

 白石は少し呼吸を整えてから、まっすぐ横水を見た。

「行ってほしくないなら素直に言ってください」

「なんというか、小さい男だと思われたくなくて」

「変に優しくされる方が嫌です。でも……」

「でも?」

「そんな格好で来られる方がもっと嫌です」

 横水は黙りこくってしまう。

 いくら高尚で純愛から始まった衝動でも、パンツ一丁では締まるものも締まらないらしかった。

「……ほんと馬鹿なんですから」

 それだけ言って、彼女は背中を向ける。

 横水が、文字通りその場に膝をついた。


 ○


 俺は立ち去る直前の白石を呼び止めた。

「白石さん。今日のこれは百に何か言われたのか?」

 彼女はしばらく俺を見て「ああ」と言った。

「百先輩の彼氏さんですか。べつに何ってほどのことでは。ただ私が相談して、気になるなら確かめてみたらってアドバイスしてくれて。私も聞きたいんですけど、横水先輩ってその百先輩のファンだったりします?」

「皆無だな。こうして君を追いかけるぐらいだし」

「そうですか」

 目を伏せてどことなく満更でもない表情はあの悪っしき女の影が見えた。

「こーゆうやり方はあいつから習わない方がいいぞ」

「そうですね。百先輩は悪魔的な人ですからついに気になってしまったんです。でも私には向いてないですね。心が保ちません」

 そう言って彼女は足早に立ち去ろうとした。

「あっ、でも百先輩って一度でもムリと思ったらもう動かないから気をつけた方がいいかもです」


 ○


「お前ら何やってんだよ」

 俺は顔から酒を浴びて水も滴るドブ男の川崎に聞いた。

「司さんがお前の拘束に協力するなら合コンを組んでくれると言ってな」

「それで軽快に友情を捨てたわけか」

「合理的判断だ。良い取引だったよ。さっきまではな」

 地の底まで叩き落とされた横水は震える足で何とか立ち上がり、よろよろと歩き出す。もう遠くなりつつある白石の背中を追いかけ始めた。

「あの裏切り者は滅さなくていいのか?」

 川崎がどこに持っていたのかスタンガンを持ち出し、バチバチと火花を出す。

「あいつはもう終わりだ。ほっとけ」

 白石が横水をどう思っているか。それ以前にあいつのライフは零地点を突破していた。奴に再起の芽はない。

 さっにまで魂を天使に持って行かれてた一番気持ち悪い男、園田がぐっと立ち上がった。

「まったく。彼女はシャイなんだな」

 俺と川崎はこいつと知り合いだということを芯から恥じた。

「お前、まじか。フツー女にああ言われたら死ぬ一歩手前なんだぞ」

「どんな神経してんだよ」

「ふっ。俺ほどの美を前にしてしまえば妬み嫉みくらい生まれるさ。こればかりは俺の罪、白石ちゃんが取り乱すのも仕方ないって話さ」

 色付き眼鏡はずれ、胸元の無駄に開いたシャツは先ほどまで自分が演じていた上質な男像を思わせる。

 なかなかな醜悪ぶりであった。


 通りの向こうで、横水がようやく白石に追いついた。

 白石は足を止めた。街灯の下で振り返る横顔は、ついさっきまで店内で見せていた怒りとは違い、ひどく疲れて見えた。

 横水が何かを言う。白石がそれを遮るように何か返す。距離があって聞こえはしない。ただ、横水の肩が目に見えて落ち、それからまた何か言い募るように前のめりになった。


 恋とは惨めだ。

 正しい言葉を探しているうちに機を逃し、逃したあとでようやく本音だけが喉から飛び出してくる。横水はまさにそれだった。数学で女を解くなどと抜かしていた男が、最後には泥と酒と涙にまみれて、言うべきことをようやく言い始める。

「……全部、お前のせいだからな」

 川崎が改めて言った。

「どのあたりが?」

「全部だよ全部。というよりもお前も横水同様裏切り者なのは変わらないからな。横水は今度誅殺しておくとして、おまえなんだが……」

()るなら相手になるぞ」

「司さんっていう明らかな地雷女と付き合っているということで執行猶予とする」

 川崎が何を言ったのかわからなかったが、すかさず園田が割って入ってくる。

「俺はいつでも俺の運命の相手のためにこの胸を開けているが、あの娘だけはナシだ。というか確実に殺される」

「おそらく命がいくらあっても足りないタイプと見た」

「好き勝手いいやがって!」

 女と見るや猫のような俊敏さで果敢に突っ込んでいくこいつらでさえ、司は性ではなく畏怖の対象のようであった。

 俺たちが話しこんでいると、パチンと弾けたような音が響いた。音の方を見る。白石が少しだけこちらを見た気がした。横水の向こう側、通りの端で、彼女は小さく首を振る。それが横水に向けたものか、俺たち全員に向けたものかはわからない。だが次の瞬間、横水はぴたりと動きを止めた。そして、今度は少しだけ静かな歩幅で、彼女の隣へ並んだ。

 並んだまま、二人は歩き出した。

 どうやら横水は答えを導き出せたらしい。いざという時は俺の身代わりになってもらおうと考えていたが、あの(てい)たらくでは殺すにも値しない。


 湿った風が吹く。

 さっきから空気が妙に重い。遠くの空には、黒く薄い雲が幾重にも重なっていた。夏の残骸みたいな湿気が街灯のまわりに滲み、通り全体をぬるく包んでいる。

「帰るぞ」

 俺が言うと、川崎が「は?」と間抜けな声を漏らした。

「このままか?」

「このままだ」

「俺たちボロ負けじゃねえか」

「最初から勝負になってないな」

 園田が死にそうな顔でぼそりと呟く。

「じつはあの『気持ち悪い』を処理しきれていないんだが」

「一生かけて処理しろ」

 そう言ってから、ふと白石の言葉が頭をよぎった。

 行ってほしくないなら素直に言ってください。

 変に優しくされる方が嫌です。

 あまりにも真っ当で、だからこそ耳に残る言葉だった。

 優しさは便利な逃げ道だ。正しい顔をしながら、本音を出さずに済む。横水はそれで足元を掬われかけた。いや、掬われた後でようやく口を開いたと言うべきか。

 では俺はどうだ。

 そこまで考えかけて、やめた。

 ろくでもない結論にしかならない気がしたからだ。

 白石が去り際に言った、あの一言も残っている。

 ――百先輩って一度でもムリと思ったらもう動かないから。

 その意味を考えるのは不快だった。

 もしそれが本当なら、司はまだ動いている。補習棟に閉じ込め、川崎たちを餌で釣り、白石の相談に答え、俺の周りの盤を勝手に組み替えていた。つまり、まだ見限ってはいないということになる。


 不愉快である。

 あまりにも不愉快だ。


 俺はようやくわかり始めていた。

 あの女は人を命令で動かしているのではない。少し言葉を置く。問いを残す。あとは相手が勝手に迷って、勝手に動いて、勝手に本音を漏らすのを見ている。

 性質が悪い。

 悪いどころか、ほとんど悪魔のやり口だ。

「とりあえず飲み直すか」

 川崎は大きなあくびをしながら言った。このまま川崎の家にでも直行してあびるほどのやけ酒と洒落込むのだろう。

 通りの先で、ぽつりと冷たいものが頬に落ちた。

 雨だ。

 見上げると、夕立の名残みたいな遅い雨粒が、ようやく街へ降り始めていた。白石と横水の背中は、もうだいぶ遠くにある。並んでいるようにも見えるし、まだ距離があるようにも見える。そんな曖昧な並び方だった。

 川崎が舌打ちした。

「最悪の夜だな」

「お前らには相応しい」

「お前もだろ」

「俺は違う」

「何がだよ」

 俺は少しだけ考え、すぐに答えた。

「俺はまだ、面接の途中だ」

 三人が揃って「は?」という顔をした。

「お前を雇うところがあってたまるかよ」

 そう言った園田の腹を殴った。


 俺たちは雨の中を歩き出した。

 補習棟から抜け出し、居酒屋で暴れ、友情を切り売りした阿呆どもの浅さを見て、恋愛で理屈を取り落とした横水の醜態を見て、白石の真っ直ぐな怒りを見た。

 それでもなお。

 俺が本当に抜け出さねばならないのは、あの薄暗い補習棟の一室ではなく、司百という女が勝手に敷き直した盤面そのものなのだと、その夜ようやく少しだけわかった。

 もっとも、盤面の外へ出る方法は、まだ欠片も見えていなかったのだが。

 そしてたぶん、それこそがあの悪女の望むところだった。




挿絵(By みてみん)



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