序章 童の風、雷雲の兆し
夕闇は軽く、彼らも軽かったが、空気は柔らかく、彼らの決意は硬かった。
羽毛のごとく浮き足立つ二十代の足取りは浮き足立つなと言うのは無理くらぬ話で、嗅ぎ慣れない妖艶な香りに早くも当てられていた。
「準備はいいなお前たち」
最前を歩く男の目は金剛石のようであった。彼の後ろに控える三人の勇者たちは各々、力強く頷いた。慣れぬ櫛で髪を整え、一丁前に白いカラーシャツの襟を正し、『男魂スッポン』と書かれた栄養ドリンクを飲み干す。
決戦の地、大阪は飛田新地。五つある通りには小屋のような料亭がひしめき合い、看板娘たちが遥かに薄く甘い笑みで通りすがる客を呼び込む。
「お兄さ〜ん、お店はもう決めた〜?」
「まだなら私のとこに来なよ〜」
嘘のように心地の良い高い声。それぞれの店には老獪な女将がどんと構えており、「いつまでウロウロしてねん」と茶々を飛ばしては快活な声で商売をしていた。通りすがる男たちは皆、地面につくほど鼻の下を伸ばして、あっちを見てこっちを見てを繰り返し、脳が溶かされた文字通り骨抜き状態の男たちが何人も千鳥足になっていた。夜の街、人呼んで遊郭。ひと時の夢と快楽を愉しむ者が訪れる畢竟の楽園。
そこに意気揚々と繰り出した四人の若者は神戸の大学に座す、いつかそれぞれの分野で天下を取るであろう陰の傑物たち。若輩者である彼らは同年代にしては卓越した部分が眠っていそうで眠っていないアンニュイというには些かもったいない風体をしていた。つまるところ、美の女神フレイア様もビビり散らかす童貞であった。
「ここが性地・飛田新地か。ネットで前情報は知っていたがまさかここまでとは」
固唾を飲んで目の前の光景に圧倒される川崎。
「クソっ。どこを見ても可愛い娘ばかり」
目を散らばせるおかっぱ男、堀越。
「俺たちの予算的に選べる相手はたった一人だけ。こんなハイクラスの中からたった一人しか選べないなんて」
もっと金を握りしめておけばと後悔する園田。
戦士たちそれぞれが苦渋に顔を歪める。
「狼狽えるなお前たち」
三人は雄々しい声をあげる同志に視線を向ける。此度の決起を提案し、一時は互いに争ったことのある男、真波の言葉に耳を澄ました。
「俺たちがここに来た理由を思い出せ」
金のないドグされ学生がわざわざ風俗街に足を運ぶ。それは万人が安易に考える性欲に振り回される哀れな若き猿のような理由ではない。
「このままあいつに負けていいのか?」
真波の言葉に川崎たちは拳を固く握る。真波は普段から嘘に塗れた下の外道であり、冷静な男であるがこいつほど何を考えているかわからない男もそういない。そんな男の言葉に揺さぶられるような軟弱な川崎たちではない。しかし、血が巡るその手には『男魂スッポン』と書かれた栄養ドリンクがあった。
全員の脳裏によぎる裏切り者の顔。いつか彼女を作ると誓い合った同じ社会学部の2回生の横水に彼女ができた。奴はこともあろうにその事実をひた隠し、入念に入念を重ねて、性なる夜を万全の準備を持って迎え、いわゆる大人のステップを登った横水は彼らに言った。
「ごめん、今日彼女と会うからちょっとゴム分けてほしい……ってお前らは持ってなかったな。悪ぃ」
吹いた風が地中海のようだったことを覚えてる。あの時は天を貫くほど憤慨し、半ば理性がゲシュタルト崩壊していたことは言うまでもない。どんな理不尽なことがあっても彼らの友情は不滅だ。川崎に赤い糸の香りがした時も、彼らは一致団結して恋の芽を刈り取った。
横水というクズの中のクズに見下される日々、想像するだけで腑が煮えくりかえる。
「このまま行けば俺たちは一生あいつに彼女もできないチキン童貞と見下され続ける」
真波の言葉に全員が真っ赤に燃えるほどの怒りの表情を浮かべた。
「耐えられん」「あんな抜け駆け野郎に」「しかも年下を金の力で籠絡したらしいじゃねえか」「許せねえ」
真波は色町を睥睨する。
「だが俺たちは友を見捨てない。横水が先に征ったというなら、このままあいつを一人にしていいのか。いいや否だ。友としてあいつが見た景色を、俺たちも拝んでこそ真の友情は為される」
「間違いない」
「真波が回収した横水の裏金も報われる使い方だ」
「あいつに夜の手解き教えられるとか吐き気がするもんな」
「ならば征くぞ! 戦場へ!」
横水から横領した彼女のためのサプライズ用資金をその手にして晩夏の風とともに彼らは大いなる一歩を踏んだ。
○
飛田新地の青春通り。客も看板娘も若年層が集中するそのエリアを四人の童貞が歩く。艶やかな美女たちが彼らを呼ぶ。水着、野球ユニフォーム、ミニスカサンタ、様々な衣装に身を包む彼女たちに男どもは完全に悩殺されていた。芸能界だって目を離せない領域の美女らにまだ男として未熟な魂を後生大事に守ることを余儀なくされていた童貞たちは大海を泳ぐマグロのごとく目を泳がせた。
「おい、これ、どの娘を選べばいいんだ」
「あっちを見ても美女、こっちを見ても美女、男のディズニーランドって噂は本当か。クソっ、目が回る」
おろおろと彷徨う視線。立ち往生する永命不名誉童貞の川崎とミノの心臓を持つ堀越を尻目に園田が鼻で笑った。
「そんな優柔不断だからお前らは彼女ができないんだよ」
啖呵を切る園田に「お前もいないだろ」と三人は鋭い視線を送る。
「それも時間の問題さ。未経験というのが俺という完璧な存在の唯一の欠点だったからな」
それは完璧とは呼ばないのではないか。
戯言を吐く園田の眼鏡に一人の猫耳をつけた美女が映る。目が合うと、猫耳美女は手を猫のように曲げてニコリと微笑む。園田の脳内である光景が瞬く間に広がる。彼女と共にUSJへ行き、彼女は流行遅れのタピオカを飲みたいと口にして、園田は「君はぶれないね」と彼女の願いを叶える。夜にはパレードが始まって打ち上がる花火と甘酸っぱい雰囲気に当てられた二人はそのまま互いに手を取り、淡い期待に濡れた麗しい唇が今……
即断即決。何かを決められない者に何も手に入れることはできない。覚悟の瞬発力。大学へ入学してそれは他の誰よりも男としての格を鍛え上げてきた園田。相手も商売だ。重要なのはどんな甘言にも惑わされない鉄の意志。つまり男のとしての矜持。
「俺はあの娘に決めたぜ!」
猫耳嬢へ一目散に駆け出そうとした園田の背後から甘い声が聞こえる。
「そこの眼鏡のお兄さ〜ん、私のところにおいでよ〜」
見開く眼光。ナース衣装をまとった清楚で綺麗な巨乳がいた。情欲に燃えて駆け出した足が止まる。
「なんて美しい女性なんだ」
瞬時に全身を支配する迷い。刹那の逡巡。この性地にて、それは致命的な失敗を生む。その隙をこの場所は見逃さない。あっという間もなく「私と一緒に遊ぼーよ」とチャイナドレスの可愛い娘ちゃんが固まる園田に声をかける。
一度足を止めてしまえば、桃色の底なし沼にどっぷりハマる。園田はまんまとその餌食になっていた。振り回す頭に彼の脆弱な三半規管が悲鳴をあげ、視界は歪む。
「俺は、一体、誰を選べば……」
束の間の思考。しかし幸福の果実はいつまでもぶら下がっているわけではない。園田が足踏みをしている間に、彼に声をかけていたチャイナドレス嬢のところに別の客が招かれた。園田はすぐさまナース嬢のもとへ走ろうとするがそこにも別の客が入って行った。ならばと最初に狙っていた猫耳嬢のところへ戻ろうとすると彼女の姿はもうどこにもなかった。
唖然とする園田にこの場で唯一落ち着いていた真波がそっと肩に手を置く。
「これが飛田新地だ。女神たちの滞在時間はおおよそ五分。時間が経てば次々に店先の嬢は変わる。他に目移りしてるようじゃあ俺たちの本懐は遂げられない」
「真波、知ってたのか」
「YouTubeでな」
その様子を眺めていた川崎は冷静に状況を分析する。己の財産、行動力、現時点の異性への免疫濃度。現在の自分を細胞レベルから観測すれば、園田のような愚かな選択など取らない。とはいえ、園田は見ての通りプライドの高い人間だ。そして誰よりも分不相応の高望みな男だ。そんなあいつが容易に取り乱す。園田の姿を見ればここでの迷いは明らかに致命傷になる。川崎はここに傷を負いにきたのではない。宿願を果たしにきたのだ。
川崎はゆっくりと皆の場所から遠ざかり密かに目をつけていた嬢の元へ足を運ぶ。浴衣を身につけた髪の長い美女に声をかける。
「お兄さん、ご来店ですか?」
「えっと、はい」
「それじゃあ靴を脱いで上に来てくださいね」
嘘のように綺麗な笑顔。営業スマイルだろうと予想はできるのに川崎の心が踊るように跳ねて、心臓の音がやけにうるさい。これは恋の芽が出ているのでは。そう勘違うことができるくらいには、すっかり川崎は惚れてしまっていた。
部屋に案内された嬢は一枚のコースメニューが書かれた紙を川崎に見せる。
「一番安いのだと十五分のコースだね。見たとこと大学生っぽいんだけど、お金はあるのかな?」
湧き上がる興奮に身震いする。疼くジョニーの手綱を今一度しかと握りしめ、最後の時まで紳士でおろうと努めようとする。優雅に爽やかに、少しでも余裕のある男だと思われたい一心で震える唇を必死で動かした。
「臨時収入があったので一番安いコースで」
「貴重な臨時収入ありがとね。じゃあ二万千円になります」
値段を聞いて。川崎の頭が真っ白になった。
「……二万千円、ですか」
真波が横水から徴収した分のなけなしのバイト代を合わせて二万円。あと千円足りない。事前の調べではこれでギリギリ戦えるはずのプランだった。
「知り合いから聞いた話では二万とあったのですが」
嬢はとても残念そうな笑みを作りながら口を開いた。
「あ〜、ちょっと値上げしちゃって。あとはサービス料かな」
拳を強く握りしめる。食いしばる歯が割れそうになりながら軋む声で頭を下げた川崎は、今生の願いを嬢に伝えた。
「二万で罷り通らないでしょうか」
水ぼらしい大学生の悲痛の言葉に、嬢の調子は全くと言っていいほど微動だにすることはなかった。ただ、少し、ほんの一粒の哀愁が彼女の声音に温もりを宿す。
「割引はしてないんだよね」
白い手を合わせる嬢を前に、川崎は男になることが叶わず、まるで蝉の抜け殻を踏み潰したかのようにパキパキと心の砕ける音がした。
○
飛田新地の店から出る男は言いようもできない多幸感に包まれ、世界があまりにも眩しく見える一種の病から解放されたように晴れやかに出てくるものだが、川崎は無力に打ちひしがれた敗残兵のごとき様相で出てきた。青春通りには似つかわしくない重い足取りで歩いていると、まるで胸中に広がる敗北がパチパチと爆ぜる音がした。隣を見ると渋いおっちゃんがひたすら無感情にタコを焼いており、出店の前にあるベンチに園田と堀越が希望の失せた目をして座っていた。
「……みんなはどうだった?」
死人のような顔で園田は口を開く。
「もう少し顔が良かったら割り引いてあげてたって言われた」
「堀越は?」
「五分ならその料金で良いって言われたが、服脱いで寝転んだらもう時間になるけどって言われた」
堀越は半ば灰になりかけており、力無い指でスマホをいじっていた。堀越は現代に珍しくないSNS依存者なので、今のどうしようもない気持ちを呟かずにはいられないのだろう。
我先にと動いた川崎を糾弾できるほどの精神は二人に残っていなかった。金がなくては夢も見られないこの状況では無為に時が流れるだけだ。ぶつける相手もいない情欲に今もなお身を焦がされる童貞ほど悲しい生物はいない。さっさと帰ってマイリストに保存した新作AVでも見ることが、彼らの荒ぶる魂を救うことに繋がる。一夜限りの救済を連日連夜続けることで彼らは延命をしてきた。今夜が激戦になるなとため息をついた川崎は辺りを見回してもう一人の敗北者であろう真波の姿を探した。
元はといえば真波が起こした企画であり、飛田新地の相場の情報もあいつからのものだった。これは真波に責任と落とし前をつけてもらわねば間尺に合わない。彼らの受けた絶望は必修科目の単位を落とし時と同じほどだった。
「真波はまだ戻ってないのか?」
「あいつならいい娘を見つけたとか言ってから見てないぞ」と園田が答えた。
川崎の残念な頭に珍しく思考がよく巡った。
「横水の裏金を持ってきたのは真波だよな。ここの調べもあいつに任せていた。なのに値段を見間違うなんてことあると思うか? いや今更ではあるんだが」
性欲という枷から一時解放されて冷えた頭脳は、驚くほど冴え渡り今になって当たり前の疑問が浮上した。男児のみが有することを許されたまさにインテリジェンスウェポンと呼ぶべき固有能力。賢者タイムが川崎の脳をクールに加速させた。
「確かに。準備を怠らないのが真波だしな」
園田も同様の意見に行き着き、一つの予想が浮かんだ。
「あの野郎、横水の裏金を俺らに等分で分けるって言ったが、まさか横領してるんじゃないのか」
園田と川崎の頭に稲妻が走る。真波宗平とはいくらでも悪事に手を染める生粋の悪代官。横領してもなんら不思議ではなかった。
「一体なんのために!」と川崎は吠える。
「ここで俺たちに恥をかかせるとか」
「そんなことのためにか? 横水の裏金が実際いくらあったのかわからないが、俺たちに渡した金を集めて一人で来れば最低でも三人とヤレる。それを放棄してまで」
「真波にこの前、女の影があるか制裁しただろ? 記憶が飛びかけるまで」
「まさかその報復か?」
「あいつは根にもつタイプのクズだからな」
二人が激しく言葉を交わしているところに、死に体だった堀越が二人にスマホの画面を見せた。
「なあ、この司百って知り合い?」
唐突に堀越のインスタに見知らぬ女性からメッセージが来ていた。司百と書かれたインスタのアカウントのプロフィールには彼らと同じ神戸の某大学の名前が記載されており、長い黒髪に桃色のインナーカラーの入った目立ちそうな女子のアイコンがあった。
「知らん」と園田が言う。
「俺もだな。見るからに地雷系って感じだ。それがなんだ。まさか合コン相手か?」
「地雷系はヤバいってのが全男子の見解だが絶対俺らも行くからな」
「いやそうじゃなくて」
堀越がメッセージ画面を開くと「宗平君はそこにいますか?」と書かれたチャットが届いていた。
○
その頃、真波宗平は湿った夜風の中で別の思惑を張り巡らせていた。
俺がこんな哀れな童貞たちと一緒にいるのは横水という悪っしき裏切り者が原因ではあるが、根本的な問題点ではなかった。確かに三人の童貞と同じように横水へ並々ならぬ憎悪が胸の中で猛り散らかし倒し回しているが、それは横水に彼女が出来たことよりも、奴が俺よりも先に男としての格を上げたことだ。いつも大学闇サークルのひとつ常闇麻雀界に入り浸って夜な夜な麻雀を打っては有り金すべて毟り取られる駄呆が、何故将来の英傑たる俺の先を往くことが叶う。これは容認してはならない事実であり、どんな卑劣な手を使ってねんごろに収まったのか問いただした後に天誅をくださねばならない。
俺がそうすべきと考えるように、他の寂しい学友たちも同じことを考えるのは必至だ。
恥を忍んで言えば、俺にも彼女がいる。常に妖しくふわふわ浮いているような乙女で、いつか俺の息の根を止めてくるかもと無根拠な確信をもたされるような並々ならぬ引力を持って彼女が微笑む度に、胸の中で白い稲妻が跳ねて、何度焼かれたか見当もつかない。いわゆるデンジャラスな娘なのだ。以前は彼女の影を謎の感覚器官を持って敏感に感じたあの三人を筆頭に学部内の卑・友人たちに手痛い拷問を受けたがなんとかやり過ごすことができた。
順序でいえば横水よりも俺の方が先に彼女ができたにも関わらず、俺はまだ彼女とヤれず、横水が先に本懐を遂げやがった。その差は一体何が問題だったのか。横水なら兎も角、俺自身にはなんら落ち度がないことは明白だ。俺はいつでも事を起こし、また迎え入れれるようにありとあらゆる準備をしてきた。彼女は大胆に見えて慎重に物事を進めるタイプだから急かすのは俺のポリシーに反するし、無理矢理動かす歯車はたちまち壊れてしまうものだ。
だが、一ヶ月だ。一ヶ月も俺は待っている。健全かつ獰猛で猿のような男なら一週間も経たず己の欲望に負けて、相手のことも意に介さず見るに堪えない醜態を馬上に晒すことになるだろう。
もちろん、俺はそんな軟弱で惰弱で脆弱な男ではない。でも、俺も、雄の子であるからして。飛田新地に来た事を責められるべき言われはない。
どれだけこちらが受け入れられていても、絶対的決定権を有する王はいつだって彼女なのだから。
夏の夕立が走る。真っ暗でどこまでも広く薄いくせに先が見通せない雲の塊がごうっと音を響かせながら近づいてくる。もうすぐ雨が降り出しそうだった。
○
あのクズ三人には丁重に希望を持たせた上で奈落に突き落とす、俺好みなやり方でしっぺ返しをしてやった。今頃通りの近くにあるたこ焼き屋でむしゃむしゃと泣きながらたこ焼きを貪っていることだろう。もうすぐ秋が来るとはいえクリスマスには程遠いミニスカサンタの格好をしたアンビバレントな可愛い嬢は、あと一歩のところで別の客にかっ攫われしまった。園田のような優柔不断な男ではない俺は余裕綽々に嬢たちを値踏みする。
どうせ卒業するなら俺に相応しい相手を選ばねばならない。だが俺があいつらを騙したことに気づかないとも限らないから時間もあまりないだろう。
辺りを見ると、一人目に止まる女性がいた。見るからに若い、長く綺麗な髪のメイド姿の嬢が座っていた。相手の緊張を自然とほぐすような垂れ目と一層魅力を引き立てる涙ぼくろが俺の彼女にそっくりだった。本番に対応するための予行演習も兼ねている俺は、より来るべき未来のシュミレーションに近づけるために彼女の元へ近づく。ポケットの有り金は二万五千円。大丈夫だ。準備は済んでいる。男として通過儀礼とも言える思いを胸に一歩を踏み出した俺の腕を後ろから誰かが引っ張った。
もう気づかれたのかと、振り返る。そこにはいるはずのない人物がいた。
「もう楽しみましか? おに〜いさん」
その声は雨の落ちる音よりも静かで、雷鳴の前触れのようだった。手の感触は柔らかいのに棘に刺されたように腕が痛かった。
「なぜここにいるんだ百っ」
出会って初めて見たかもしれないほど微笑んだ我が彼女、社会学部二回生の司百だった。
○
ここにいるはずのない乙女がいた。なぜここに司がいるのか。俺にはまるでわからなかった。全身のありとあらゆる毛穴からブワっと冷たい汗が吹き出す。
怒り心頭で掴みかかってくるわけでもない司に、おれは動揺を隠しきれずにいた。
「宗くん、今日は例の馬鹿三人と家で飲むって言ってなかったっけ。それがどうして風俗街にいることになるのかな?」
萎縮してはならない。俺は決して間違った事は何もしていないのだから。棒立ちの足、膝に力を入れて無理やり足の筋肉を伸ばした。
「俺も知りたいな。どうして百がここにいるのか」
「宗くんがここに来なければ、私がここに来ることもなかったよ。もしこういうことやるなら、次からはスマホの電源を落とすべきじゃないね」
ニコニコと薄い笑みはどこまでも薄く、なだらかな声が一層俺の首を締め上げてくるように感じた。
「どう考えても宗くんがこんな場所に来る理由なんてなくない?」
劣勢を強いられるこの状況に歯を食いしばる。
「俺がここに来る理由か……大いにあるな」
「へえ」と司は静かでとても鋭い眼差しだった。
「経験に勝る知恵はない。実地で学ぶからこそ本番を乗り切れるものだ。俺が浮気心でこんなところに来たと思ってるなら勘違いも甚だしい。すべては百のための苦渋の決断だ」
「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」
「は?」
階段から突き落とされたような間抜けな声が出た。彼女の目は自信に満ち満ちたように爛々とした光を放っているように見えた。
「私は君が浮気するなんて微塵も思ったことはないよ。君の中で私がどのくらい大きな存在になってるか私はちゃんとわかってるつもり。だから私は今とっても嬉しいのです」
途中から見たドラマみたいに、流れについていけない感じがした。
「嘘はよくないぞ」
「私が嘘ついたことある?」
「それがすでに嘘だ」
俺の言葉に満悦の顔を浮かべる彼女。だが掴まれた腕はまだ離されてなかった。
「でもやっぱショックではあるかな。宗くんがドン引きレベルの性欲モンスターなのは知ってるけど、ここに来る前に私に一言伝えてからでも良かったはずだよね絶対」
早足に口走る言葉から彼女から乱れたリズムを微かに感じ取った。フンと鼻を鳴らしてハリボテの虚勢に突っ張り棒を差し込む。
「はっ! 口数が増えてるぞ。動揺してるなら素直になれ」
相手を挑発し、少しでも有利な状況に持っていく。普段なら綻びの一切を悟らせない不落の乙女である司だが、愛しのダーリンが風俗へ行くのは流石の彼女も初経験らしい。
司がため息を吐く。
「ここで生涯立ち直れないくらい躾てもいいけど、場所変えよっか」
おもむろに司が手を挙げた瞬間、何者かが俺の背後から抱きつき羽交い締めにされた。視界の端で捉えたのは血走った目をした巨大な体を持った男だった。
「川崎⁈」
鬼気迫る男の迫力、そこから発せられる膂力を前に何一つ抵抗することができない。
「悪いな。だがこれはお前の蒔いた種だ」
明らかな血走った目で誰が見ても正気ではなかった。さらに俺の両腕を突如現れた園田と堀越ががっしりと捕まえて、振り解くこと叶わなかった。
「お前たち! 何のつもりだ!」
「彼女の心の痛みに同情しただけさ」とキザに答えて青筋を額に浮かばせる園田。
「僕らの友情は不滅なんだろ?」とこんなところで不適切に火事場の馬鹿力を発揮する堀越。
「良い友人を持って私は羨ましいな」と呑気に口を開く司。無論、そんなことは微塵も思ってないことはわかり切っていた分、無性に腹正しかったがこちらを見透かすような相変わらずの眼力に萎縮してしまう。
彼女はゆっくりと俺に近づき、小さなカバンからハンカチを取り出して俺の鼻に優しく押し当てた。
まるでヤニクラのような感覚で世界が傾く。ホワイトアウトする視界と意識の中で司の顔がだんだんと遠くなる。
「ゆっくり話しよ。宗くんに何が必要かちゃんと教えてあげるから」
次の瞬間、俺の意識は天に昇るように彼方へ消えた。
○
とにかくこの娘とセックスがしたい。
俺が初めて司百を見た時、そう思った。店に売られた花のようにとにかく可愛いくて、目の下のダークな色のアイラインのせいか、どこか翳りが垣間見える柔らかい笑顔に俺の心は撃ち落とされた。相手の緊張を自然とほぐすような垂れ目と一層魅力を引き立てる涙ぼくろはやけに神秘的。キスしたくなるその顔は大学生の中でもよく見るような、コップ一杯分ほどの愛想が詰まったような顔つきで、何か好きなモノでも与えれば簡単に寄ってくる猫と同じ雰囲気がした。
彼女と初めて話したのは二回生の間で開かれた納涼会。七月の茹だるような暑さが残る夜だった。貸切の居酒屋は安さだけが取り柄の店で、塩をたくさん振った枝豆を食べていた。彼女にとって枝豆は蟹と同義らしい。司の周りには男も女もわんさか居たにも関わらず、一時間足らずで囲んでいた学生たちはもっと人のいる賑やかなテーブルへ流れていった。司は何人かののぼせ上がっていそうな男たちに言い寄られていたが、枝豆に夢中な彼女に挑む気概を削がれたらしかった。
彼女の食べる枝豆はあっという間になくなってしまった。向かい側に座っていた俺の枝豆を彼女はじっと見ていた。大皿を平らげたにもかかわらず、まだ足りないらしかった。
「……食べます?」と俺が聞く。
すかさず彼女は「いいの?」と言った。ハスキーを被ったような気怠げな声音だった。
「そんなに枝豆は食べられないんで」
「じゃあちょーだい」
容赦なく枝豆を食べた瞬間、少し間の抜けた顔をした。
「豆うま。でも塩、かかってない」
「たしかに薄味だな」
「枝豆っていうのは塩がないと食べてられないんだよ」
「なら取りに行けばいい」
俺は塩が置いてある方を指差した。塩が置いてあるのはらんちき騒ぎになっているテーブルの方だった。
「人が多い。きつい」
「おかしなことを言う。すぐそこなんだから」
司はキッとした目つきでテーブルにいる学生たちを見つめる。少し揺れた黒髪の内側にあるインナーカラー。桃色に染められたいくらかの髪に視線が引き寄せられた。
「あーいう騒ぎまくってるところって見えない壁がある感じがして、なんか私って浮いてる、みたいで怖い」
彼女は見た目の派手さにそぐわず、引っ込み思案だった。
たとえ相手が天性の陽気な学生でも一歩も引かず、むしろ奴らの領域を侵食する勢いで侵攻するのが俺という人間の勇猛さだ。それをここで発揮するのもやぶさかではないが、あいにく見ず知らずの女の子に発揮するほど安いものではない。どんなに可愛くても、俺にも流儀というものがある。
「嘘みたいにピュアなこと言うのな」
「いやピュアだし」
「それで本音は?」
「めんどい」
「共感できる理由だな」
騒々しい居酒屋の中で、束の間の無言がやけに響いてどことなく気まずさを感じる。俺の心までもが真性の童貞であれば、この静寂に為す術なく闇雲にどうでもいい事を口にして己の心を無理矢理落ち着かせようと醜態を晒すだろうが、俺は違う。さらに言えば彼女が体良く俺を使おうとしてるのも理解していた。
「フツーこういう時、塩取ってくるねって言って颯爽と取りにいくもんじゃないの。できる男子って女子にみんなそうするでしょ」
「姫プは俺の趣味じゃないな」
「何それ」
「お姫様プレイの略。そんなことも知らんのか」
「まあそういうこと大学では教えてくれないし。そう言う事を教えてくれる教授でもいてくれたらもっと楽しいかもね。大学は」
気怠げな声のくせに、俺の耳には彼女の声がよく聞こえた。
俺たちのテーブルにポテトフライが運ばれてきた。誰かが注文したものだろう。
「すいません、あっちのテーブルです」と騒いでる方のテーブルを指差し、店員に告げた俺はついでに注文をした。彼女の飲んでいたグラスはほぼ空で色味から飲んでいたお酒を推測した。
「注文で生ビールと梅酒のソーダ割り。あと枝豆と塩をください」
注文を済ませた俺をじっと見つめる司は何か言いたそうな顔だった。
「枝豆、もういらなかったのか」
「そうじゃなくて」
「言っとくけどこれは姫プじゃないぞ。俺の注文のついででしただけだ」
「……」
「理解してくれたか」
「……私が飲んでるのハイボールなんだけど」
童貞の悪癖とは黄金比率のように美しい空回りであると五回生の先輩である浄蓮寺さんが言っていた事を思い出した。届いた生ビールと梅酒を受け取り、俺は梅酒の方を司に渡した。
「ハイボールが良いんだけど」
「じゃあ自分で頼むんだな」
「ならいい。それちょーだい」
自発的に動いてなるものかと言わんばかりの磨かれた惰性っぷりは俺も見習うところがあった。
「今の行動恥ずくないの?」
「そんな感情は知らんな。無縁すぎて」
「アホじゃん」
互いに酒を飲み交わし、クラっと少し揺れる焦点を力づくで合わせる。
「私は司百」と唐突に自己紹介を始めたので、俺も「真波宗平」と返事をすると「知ってる」と返された。
「真波君は有名人だし」
「確かに俺ほどの逸材はそうそう世の中にいないからな」
「悪い方でだけど。色々噂は聞くし」
「たとえば?」
「浄蓮寺先輩に殴り込んだとか、聖女上座連盟に手を出して裸一貫で踊ったとか」
「去年のことばっかだな」
彼女のような一般学生にまで知れ渡るほど、俺という存在はやはり大きいようだ。世に出て大成する何よりの証拠だろう。父よ、母よ、我の心配は無用千万である。
「今日はいつもの友達はいないんだ」
「あんなクズどもと友達と思われるのは心外だな」
この時、川崎たちの他の駄呆学生どもは納涼会に跋扈するスクールカースト上位者の作り出す空間に耐えらる器を完成することがギリギリ間に合わず、無理に不完全な状態で出向くことはないと敵前逃亡を図った。彼らのように若くして自己分析が完璧にできるの者はそうそういない。
あまり表情が変わらない司ではあるが神妙な面持ちに変わったことがなんとなくわかった。
「真波君ってさ、童貞でしょ」
一瞬、ほんの一瞬だけ、誰にもわからないほどの息を呑んでしまった。
「俺がそんな情けない男に見えるか?」
「間違えて梅酒頼んでる時点で」
可愛い娘だがなんと失礼な女だろうか。無愛想で素っ気ない上にこの俺が童貞などと浅い推理で断定してくる。大学によくいるロクなやつじゃないタイプだった。
「颯爽と頼むのができる男なんだろ」
「本当にできる男は相手が何飲みたいか聞くものだけど」
「言ってることが変わってるんだが」
「人の意見って二分で変わるらしいよ」
思わずため息をこぼしてしまう。こんな性悪に入れ上がっていた男どもは見る目がない。だからあそこで沈んだ気持ちを浮上させるためらんちき騒ぎに混ざっているのだろう。
「司は何で今日ここにいるんだ。明らかにこういうところ向いてないだろ」
「名前っ。苗字で呼ばないで」
さざ波程度の荒だった声だったが、何か気に障ったようだ。
「何で?」
「可愛くない」
「じゃあ百さんはどうして今日ここに」
「タダ飯食えるから」
「俺と一緒か。つまらん」
みんなそうでしょと言ってるかのように澄ました顔をする彼女はどこか秋の枯葉のような淋しさを感じた。
「単位とか大丈夫なの?」とあまりにも不毛なことを司が聞いてきた。
「愚問だな。単位なんぞ教授を脅せば自ずと手に入る。あとは暗闇舞踏会から偽造レポートを買い取ればいい」
「大学の闇サークルと親しいのは美点だけど、そんなアホなことしてて将来大丈夫?」
「これもすべてその将来への布石だ」
「どこから来るのその自信? この前も屁理屈部が毎月やってるあの、なんかとろろを頭から被ってなんか耐えるやつ? あれにも首突っ込んでたでしょ」
おそらく屁理屈部が行う伝統行事『とろろ伯爵争奪戦』のことを言っているのだろう。とろろを全身に浴びて起きる猛烈な痒みに耐える漢気溢れる行事である。その熾烈な戦いに勝ち抜いた者には栄誉的不衛生とろろ伯爵の称号を得ることができ、彼ら屁理屈部はこれを博士号よりも大変な名誉だと信じて疑っていない。確かに先日の催しは過去の伯爵たちが後進に道を譲るなどで誰も出場せず、あまりに殺風景な顔ぶれを見かねてこの俺も部外者ながら一役買って出たが、彼女も近くにいたのだろうか。
「そうだが、やけに俺を見てるんだな」
彼女の暗い目が大きく見開かれた気がした。
「別にたまたま近くにいただけ」と司は答えたが、その返答には少しの間があった。
「君ってほら、救いようのない馬鹿でしょ。だからよく目につくの」
「見ててそんなに楽しいか?」
「……退屈しのぎにはなるかな」
「次から閲覧料を払えよ」
それからもしばらくまばらな会話をした。
そのせいなのか、俺としたことがほんの少し油断をしていた。
「真波君は私とシたいと思う?」
彼女から出た突然の言葉が夜のお誘い的な文言のせいで、それまで俺を形成していた堅牢な牙城に強烈なヒビが入った。俺は今、試されていると無意識に判定した。出会って一時間ほどの女に容易く籠絡されるほど安易な男ではない
これまでの俺の生き様を舐められてたまるものかと奮起する。
「俺を安く見るなよ」
睨み返してやった俺は主導権を握られまいと振る舞った。
「シたくないんだ」
拗ねたような声が俺の心を縫い止める。むくむくと彼女を初めて見た時の情欲がヌッと顔を出して、たちまち締めたはずのふんどしが緩んでいった。
「そうは言ってないが」
まさか俺ともあろう男が性欲丸出しな紳士としてあるまじき雰囲気が醸し出されていたのだろうか。女性はそういった空気に敏感だという。だからといって気取られるようなヘマを俺がするわけはない。
それからの言葉がでず、口をつぐんでしまう。司はムッとしたように不機嫌になっていった。
「優柔不断な男って私嫌い」
彼女が何を言いたいのか。俺に何を言わせたいのか。このような状況を想定して日々を過ごしてきたことがなく、脳内プログラムが激しいエラーに犯された。正直になれと押し寄せる濁流を前に俺の理性の菱の門が軋みをあげる。同時に屈してはならないと俺の気高き誇りが雄叫びをあげた。
「俺はっ!」
彼女の目を見る。どう見てもヤバい部類に入る女子なのは明白。一度肉体的関わり持ってしまえば、ずるずると底なしの深い泥沼に引きずり込まれて行くような地雷原特有の危険を感じた。誰も雷雲の下に嬉々と歩くものはいない。怪しくて妖しい彼女の言葉が綻んだ鉄の意志を水に染み込み濡れていくタオルのように静かに胸に浸透していった。それは途端に、不意に、竜の目覚めの如くゆっくりと起き上がった。
「……シたい、です」
食いしばったはずの力みに力んだ口元が勝手に本音を漏らした。情けなさに沈むより先に内心できゃっきゃと喜ぶ自分に唾を吐いた。
どんな相手でもヤれて嬉しいのかお前はと。そしては俺ははっきりと思った。
当たり前だろと。
○
飲み放題の時間を迎えて納涼会は解散した。多くの学生はその後も二次会のカラオケに足を運ぶようだった。俺は一人暮らしの自宅に帰ろうと踵を返す。隣にはまだ司がいた。
「二次会は行かないのか」
「参加費かかるから行かない。というかさっきあんな会話して行くわけあると思うの?」
「俺はこれでも女子の怖さは身をもって知ってるつもりだ。その気にさせておいて逃げることも考慮するだろ」
「元カノでもいたの」
「いいや。聖女上座連盟にカチコミに行った時だ」
聖女上座連盟とは学内サークルの一つで絶大な権力を有する機関とも呼ぶべき強大な存在だ。その可愛さ偏差値は天を仰ぐほど高く、その持て余した美貌を使って毎度持ちたくても持てない女子との縁に悶々と悩み苦しむ男子たちの恋心を平気で弄び、もう聖女上座連盟なしでは生きていけない体にして男子どもを奴隷にして回っている。おおよそ聖女と呼ぶべきかわからない連中に、非モテ男子たちの無念と自由解放のために陣頭指揮を執った俺は彼女たちと熾烈な争いを繰り広げた。多くの闇サークルと呼ばれるイリガール的サークル集団たちの支援と、面白がって首を突っ込んだ伝説の五回生浄蓮寺先輩の両者成敗的立ち回りのおかげで冷戦状態に落ち着いた。
「あの事件は大学史にも残るかもね」
「俺は偉大だからな。おかげで肩身が狭くなる一方だが」
晩夏の風はどこまでも緩く、まとわりつくようなやや不快気味た風が吹く。もうすぐ、後生大事にすることを余儀なくされてきた、もはや愛おしさすら感じる我が童貞が必死に体にしがみつこうとしているように感じた。
自宅のアパートに着いた俺たちは階段を上がり、三階の部屋に上がった。「お邪魔します」と口にする司は荷物を乱暴に置いて眉を顰めた。
「汚い部屋」
優美な我が城は先日、川崎たちと罰ゲームを繰り広げた痕跡がまだ残っていた。開けっぱなしのビール缶の山と股間に白鳥が生えたパンツや鼻フックなど多くの馬鹿な道具が散らかったままだった。
「片付けてもすぐこうなるからな」
「じゃあ片付けとくから先お風呂入って来て」と司が言う。
すかさず財布やスマホを手にして風呂場へ向かおうとする俺を司は訝しんだ。
「何でそんなの風呂場に持って行こうとしてんの」
「風呂入ってる間に盗まれたら嫌だろ」
「君が今までどんな扱いを受けたかよくわかるね」と司は呆れた。
貴重品には何もしないと確約した司を一旦は信じ、世界を置き去りにする速さで風呂から上がったあと、司も風呂に入った。部屋を見回すとすっかり綺麗にされていて、自分の部屋かと疑いたくなるようだった。彼女には片付けの才覚があるで、このまま定期的に掃除をしてくれないだろうかと期待が膨らんだ。
まさか我が城に女を招き、ここで一線を越えるような展開になるとは。納涼会、さもしい企画だと思っていたが素晴らしい集まりじゃないか。俺は一人、拳を固く握り冷蔵庫にあったエナジードリンクを飲み干す。突発的に発生したこの好機。クズどもに邪魔される可能性は皆無。問題は俺が彼女の機嫌を損ねないように立ち回るのが肝要だ。
ここまで来れば男のプライドなど瑣末なこと。もうしょうもないことで足を掬われる心配はない。大人の一線、見事踏破してみせよう。
風呂の扉が開いた音がする。数分ののちに洗面所から出てきた司は俺が貸した大きめのTシャツに身を包み、シャンプーの香りを漂わせながら「牛乳飲みたい」と言った。
うおおおおおおおお!
内心で富士山の噴火のごとき雄叫びをあげた。すでにボルテージは臨界点を突破し、滾る欲情が体の隅々まで支配していく。すかさず牛乳を用意し、彼女へ献上した。
「どうぞ。キンキンに冷えております」
「ぬるかったら腐ってるでしょ」
一息に飲み干したあと司は徐に部屋の明かりを落としてベッドの中へ潜り込んだ。
「それじゃあベッド来て」
「は、はい」
うわずってしまった声に恥ずかしさを感じる余裕もなく、俺は誘われるままにベッドへ入ろうとした瞬間だった。
「あ、ゴムはしてね」
それまで望洋とした頭が、霧が晴れるように覚めていく。ゴムだと……すぐに薄暗い部屋の中を静かに漁る。そんな避妊具、この部屋にあるわけがない。玉のような汗が額から浮かんで頬を伝った。
「どうしたの?」
衣擦れの音がして彼女がこちらの方を見てるのがわかった。クソっ! どうして俺はこの状況を想定して用意をしておかなかったんだ。俺ほどの男にころっとイかない女子などいないはずがない。たまたま一回生のうちに巡り合わなかっただけで、あの寂寞とした時間が無意識的にその可能性を取り払っていたのか。無駄を嫌う性分が仇となったのか。
「いや、その、あれだ。ゴムがない」
歯切れの悪くなってしまった返答。彼女から返される言葉までの間断。長く永遠のようにさえ感じられる無音の中で司がようやく口を開いた。
「それじゃあ今日はなし」
これ以上の絶望を二十一年間の人生で俺は一つも知らなかった。暗闇の中でよくわからなかったが、この時ばかりは真っ赤に濡れた血の涙が出たと思う。
○
ベッドは司が使い、すぐ隣の床で俺たちは眠った。
こんな思いをするくらいなら草や花に生まれたかったと心底思って、砕かれた希望の残骸に押しつぶされて思わず涙がこぼれた。俺は今まで何をやってきたのか。
艱難辛苦を乗り越えてよくわからない大学闘争に身をやつし、手に入れたのは薔薇色とはほど遠い阿呆の徒花。ヒクヒクと体が痙攣を起こし、滝のような鼻水と涙が溢れた。己の不甲斐なさを反芻していると、暗闇の中で上のベッドが軋んだ。
「泣いてるの?」
声の調子はからかい半分、呆れ半分と失礼なものだった。
「違う。これは横隔膜の痙攣だ」
「それ泣いてるじゃん。なんで?」
小さなため息が降ってきた。
「……己の無力に少しな」
「言っとくけどかっこよくないよ」
「やかましい」
一体誰のせいで俺が無用な後悔に苛まれていると思う。過去の偉人は準備を怠った者が負けるなどと世間に呟いたらしいが、突発的事象をいちいち考慮して己の生活様式を変容させるなど己に自信がないことの証左であろう。だから悪いのはつまらない気まぐれで俺に色仕掛けをしてきたこの悪女であり、幾重にも張り巡らせた俺の防御結界を難なく突破するほどの魅力を彼女が有していた異常の事象だ。
もしかするとこれは、いつか天下を統べる俺に向けて世界が俺の心を折ろうと用意した試練。いや、地雷なのではないか。そうやって俺が彼女を世界からの使者として意識した時だった。
ベッドの端から影が伸びる。それに雷鳴のような衝撃はなく、ましてや熱い抱擁でもなかった。ただ夏の夜の風のごとく、静かで優しい、温く柔い感触が頭に伝わった。
司は少し離れた場所で、じっと俺を見ていた。
暗くて判然としない朧げな影の形は笑っているようにも見えるし、怒っているようにも見える。曖昧な表情のまま、彼女はふと俺の方へ手を伸ばして、俺の頬の汗を指先で拭った。
「熱あるんじゃない?」
「いや、違う」
「じゃあ……なんでそんなに顔、赤いの」
声の調子はいつもと同じだったのに、なぜか胸の奥で雷が鳴った気がした。夏の空気が、ひときわ重くなった。
司はそのまま、ほんの少しだけ目を細めた気がした。
何か言いかけたようだったが、口を開かずに、ただ微笑んだ。
その笑みの理由を、俺は知らない。
知らないままでいいと思った。
彼女は少し可笑しそうに「そんなにシタかった?」と呟く。司の声はやけに近く、明らかに男を撃ち落とすものだった。彼女はこれまで、俺の想像も及ばない百戦錬磨を演じて何人もの男を手玉に取ってきたのだろう。安易で低脳で、水っぽい愛である。
やはりこの女と関わってはならない。これまでの女性には感じたことのない危険ってヤツが俺に多大な警鐘を鳴らす。
しかし、とも思った。
この女を制した時、それは俺がありとあらゆる女性を優雅に扱う魔性の男と成ることができるのではないか。偉大に至る俺にそれは必要な能力であるし、何よりたかが地雷系女子の一人にここまでいいように振り回されて、この先の人生など歩めようはずもない。
「ふん。あれは気の迷いだ。俺にだって相手を選ぶ権利がある」
強い言葉で言った。
そのはずなのに、束の間の流れる雰囲気は何も変わらなかった。ただひたすはに柔く、ぬるい。
「じゃあ私のこと選んでくれたじゃん」
息苦しかった。水に染み込みすぎたスポンジから漏れる水のように甘美で素敵に満ちる気持ちが胸からじわっと漏れ出す。
俺は過去にイケメンテニスサークル『フロッピー』の代表に訊ねたことがあった。「どうすれば彼女ができるのか」を。代表はその持て余した美貌で何人もの女を泣かせた紳士にあるまじき俗物であるが、俺の次に優れた性の卓越者ではあった。彼は言った。「流れに身を任せろ」と。
その助言はあまりにも月並み過ぎて俺ほどの男であっても要領を得なかった。しかしこの時はそれがようやくわかった気がした。相手の機微、その潮目の変わりを読めば司という人物の断片が見えてくる。
「お前に惚れることがそもそもの間違いだった」
「へえー、惚れてたんだ」
「何喜んでる」
「惚れられるのが君みたいなのじゃなかったらもっと喜んでた。でも好きになった理由は私が簡単にやらせてあげようとしたからでしょ?」
自虐的な態度だった。俺は彼女と出会い枝豆を頬張っていた時から彼女の魅力の術中にハマっていたと言っても過言ではない。しかしその言葉はあまりにも俺を軽んじるものであり、たとえ真実であっても事実にしてはならないものだ。とは言え……
「当たり前だろ」
嘘を吐いても仕方がないのも真実である。
「最低」
どんな表情かはわからなかったが、器いっぱいになった水が溢れるように笑った声だった。
○
目が覚めると俺は明滅する蛍光灯に照らされた暗がりの部屋の中にいた。
「ここは……」
声を出すと喉がだいぶ乾いているように感じた同時に、手首に妙な冷たさと窮屈さに違和感を覚えた。カシャンとした鎖の音が響き視線を向けると手枷がされていた。どことなく見覚えのある部屋は大学構内にある旧サークル棟や単位取得たちの落伍者たちが集められる崩落単位補習棟の一室に似ている。
鼻に残る清涼感と薬品の香りから飛田新地で眠らされここに運ばれたのであろうか。運んだのは川崎らクズ共だろうが、あのクズ三人と大した面識もないだろうに俺の預かり知らぬ僅かな間で手駒としたのだろう。我が彼女ながら末恐ろしい。
ひとまず部屋をぐるりと見渡す。背後には氷のように冷気を放つ塗装のハゲた扉がある。人の気配はなく、隅っこに霞んだ便器が一つあり、反対の隅っこに勉強机と椅子が設置されてある。顔を上げると鉄格子が施された顔一つ分ほどの穴あった。オレンジの陽の光が射すことから時刻はすっかり日暮れ時を迎えていそうだ。
「こんな場所に運んでおいて放置とは、人の心がないのか」
司はもっと感情が希薄な印象があった。何事にも大きな興味を抱かず、突拍子のない発言の多い娘。しかし、それがこんな強行的手段に出る想像が今でもできない。
俺は一体どうなるのか。俺がまだ若き頃、漠然と抱いた将来への思いに似た言い知れようのない不安に駆られる。背中をピタリと扉に預けて蒸し暑さに火照った体が冷やされた。しかし頭が冴え渡ることなく、むしろもやもやと暗雲が広がってばかりだった。
彼女は怒っている。それがどうかも今ではわからなくなってきた。ぐるぐると永遠の螺旋階段を登らせられているようだった。後頭部を扉にコツリとぶつけてみる。物理的衝撃が何か妙案が浮かぶきっかりになるかもしれない。
その時、扉から軽いノックが聞こえて、反射的に扉から離れる。数秒後、開かれた扉の先にいたのは薄く笑みを作った司だった。
「お腹空いてない?」
彼女の手には香ばしい香りを放つファミチキと、何故かはまったくわからないし、わかりたくもなかったが首輪を持っていた。
「腹は減ってるが余計なものはいらないぞ」
「それは宗くんのこれからの発言によるかな」
彼女は隅っこにある椅子を自分のところへ寄せて腰を下ろす。
「それでは今から宗くんの最終面接を行います」
あまりにも謎に満ち満ちた言葉だった。
「最終、面接……?」
面食らう俺に彼女は楽しそうに言った。
まるで玩具を与えられた子どものように頬を赤らめ、白く透き通った脚をわざとらしく組んだ。
「人生で一番頑張ってね」
俺はこの時、心から己の行動を悔いた。絶対に関わってはならぬ乙女に愛も憎も、ずっと懐に隠す心も、捧げられることの恐怖を。




