ゴキブリ野郎
1
ひっそりと静まり返った部屋に高橋は一人で目を閉じて佇んでいた。こうしているとすぐ傍に別の生物がいる気がした。自分は孤独ではない、そう思えるだけで高橋は安心できた。
部屋には小型のテレビ、シングルベッド、ガラスのテーブルといった家具しかなく、小綺麗に整理されている。テレビ画面は暗く、今は何も映っていない。白を基調とした清潔感のある部屋の中央に立ち瞑想するという行為は、高橋の風呂上がりの日課となっていた。
ふと何かの気配を感じたので我に返り床と壁の境目を見た。扁平的で黒いツヤのある背中に、自分の体長ほどの触角、茨のように棘のある発達した筋肉質の足を持った生物がいた。ゴキブリである。
高橋は身を屈めて、ゴキブリが逃げ出さないように慎重にゆっくりと手を伸ばした。ゴキブリもこちらの様子を窺っているように、動きを止めた。あと10センチほど、と言うところでゴキブリが素早く動いた。
高橋の指もゴキブリに負けないくらい素早く動いた。ゴキブリを捕らえた。親指と人差し指でゴキブリを挟む。ぬめりとした油のような感触がした。ゴキブリは足や触角を必死で動かし、どうにか高橋の指から逃げようとしていた。
高橋はゴキブリをじっと見つめた。より一層激しくゴキブリは動いた。その動きは捕食者から逃れようとする獲物の動きだった。棘のある足が手に当たり、痛い。
高橋はクローゼットからポリバケツを取り出した。中からは何か虫のような物が動く音が聞こえる。ポリバケツを床に置くと、中に張り付いていた物がぼとぼとと落ちる音がした。
高橋はポリバケツの蓋を動かし、隙間を開けた。内部には数百ものゴキブリがいた。開ける際の衝撃で、蓋の裏面に張り付いていたゴキブリが何匹か落ちたようだ。黒光りする何百もの背中が中で蠢いている。ゴキブリのおかげで底一面は真っ黒に染まっていた。
高橋は指に持っていたゴキブリを隙間から中へ落とした。保管し成熟させるためだ。ポリバケツは高橋にとってゴキブリの飼育庫であり、食料を貯蔵する場所でもあった。高橋にとってゴキブリは食料と同義なのだ。
高橋は片手にビニル袋を持ち、おもむろに隙間からポリバケツへと腕を入れた。ゴキブリを潰さない程度の力で掌一杯に掴み、手際良くビニル袋へと入れる。中で成熟したゴキブリは通常の1.5倍程に太っていた。二十匹ほど取り出したところでポリバケツの蓋を閉め、クローゼットへ戻した。
一通りゴキブリを入れ終えた高橋は、夕食を作るためにビニル袋を持ってキッチンに立った。まず、天麩羅鍋に油を張り火をかけ、天ぷら粉をまぶしたゴキブリを数匹落としていった。
数百度という高温の中では流石のゴキブリも生きることが出来ない。一瞬足が動いたがほぼ即死だろう。小麦色に揚がったので、頃合いを見計らって取り出した。
次に高橋は何匹かのゴキブリの羽と足を、一匹ずつ丁寧にぶちぶちと引きちぎった。逃げ出さないようにするためだ。足を根元から引っ張り出すと、粘りけのある白い糸のようなものも出てきた。ついでに触角も抜いた。楕円形の芋虫のようになったゴキブリはくねくねと動いていた。
芋虫と化したゴキブリを冷水で軽く洗った。ゴキブリの体には病原菌が付着しているので、そのまま食べると食中毒を起こすからだ。冷蔵庫からレタスを取り出し、一口大に千切ってゴキブリを盛り付けた。
盛り付けを終えた高橋はキッチンの壁に掛けられているフライパンをコンロに置き、調理油を引いて点火した。フライパンを動かし油を全体に行き渡らせながら、表面が高温になるのを待つ。
一分程経ってからビニル袋の口を逆さにし、残りのゴキブリを全てフライパンに落とした。逃げ出さないようにフライパン用の蓋を被せる。ゴキブリは余りの高温にフライパンの上を飛び跳ね、蓋にぶつかった。
フライパン上を踊るゴキブリの様は何度見ても滑稽である。物の数秒でゴキブリは絶命したので高橋は蓋を取った。水蒸気が香ばしい匂いと共に立ち上った。
高橋は菜箸を使ってゴキブリを手際よく炒めた。野菜を炒める時のような小気味良い音がする。焦げない程度に炒めると、底の浅い皿に盛り付けた。真っ白な皿に、炒めたことで若干赤みがかかったゴキブリの体は良く映えた。
「おっと、忘れてた忘れてた」
高橋は独り言を言ってジューサーを取り出した。そして再びポリバケツから数匹のゴキブリを捕まえた。
ゴキブリと牛乳をジューサーに入れ蓋をセットした。金属製の刃物がゴキブリの体を粉微塵にする。純白色の牛乳はみるみるうちに黒茶色に染まっていった。
数秒ほどでゴキブリは粉々になり液体と同化した。高橋はジューサーを止め、やや粘性のあるゴキブリミルクをコップに注いだ。
「いただきます」
高橋は静かに両手を合わせると、皿に綺麗に盛り付けられた晩餐――ゴキブリのフルコースを食べ始めた。高橋にとってゴキブリはご馳走である。ポリバケツで“養殖”されたゴキブリは脂が乗って美味だった。
一度に何十匹かのゴキブリを調理するには、それ相応数のゴキブリを用意しなければならない。しかし家に住むタイプのゴキブリは警戒心が強いため捕まえ難い。そのためゴキブリを養殖する以前は食材に使うことを頻繁には出来なかった。
高橋は銀色のフォークを手に取り、炒められたゴキブリから食した。羽に立てられたフォークは薄い皮を容易に突き破り、亀裂の入った背中からどろどろとした肉汁が染みでた。
加熱で赤黒くなったゴキブリの体内から出る体液は灰色だった。真っ白な皿と織り成すコントラストは、色鮮やかだった。
次に高橋はゴキブリの天麩羅を口に運んだ。スナック菓子を食べた時のような食感の後に、中から苦味のある液体が口全体に広がる。醤油を付けて食べると程よい塩辛さが舌に合った。
一旦箸を置いた高橋はコップを持ち、中の液体を一気に飲み干した。甘味の混じったねっとりとしたゴキブリミルクが口に流れ込む。まるで飲むヨーグルトだ。
やがて高橋は最後のメインディッシュ、レタスに盛り付けられたゴキブリを手に取った。羽と足、さらには触角まで失ったにも関わらず、まだしぶとく生きている。高橋がレタスごと持つとくねくねと腹を動かした。高橋はその生命力に驚いたものの、その動きから生気を感じることはできなかった。
一息吐いたあと、高橋は芋虫と化したゴキブリを一口で食べた。高橋の前歯はレタスを噛み切りゴキブリへと達した。果実の腐ったような柔らかい食感が歯に残る。一瞬ゴキブリが痙攣を起こしたように感じたが、奥歯で噛み砕く内に痙攣は感じられなくなった。
高橋はゴキブリのフルコースを三十分ほどかけて、ゆっくりと味わった。高橋にとってゴキブリとは忌諱すべき害虫でも、観賞用のペットでもない。必要な栄養素を摂取し味覚を楽しむためだけに飼育しており、それは食肉用の家畜のそれと同義なのである。
食肉用に飼育し繁殖させるという点では牛や豚、魚と同じかもしれない。しかし決定的に違うことがある。高橋の食べる生物はゴキブリ、という点である。
高橋は、ゴキブリを食する行為は一般人から気味悪がられるということを知っていた。だから高橋は他人に自分の特異な食生活を話さなかったし、また他人からも高橋の食生活に関して干渉されたことはなかった。それゆえに高橋の食生活について知る者は誰一人としていなかった。もっとも、高橋には雑談をするほど仲の良い友人も仕事仲間もいなかったが。
もしかしたら自分はゴキブリに対して愛着を持ってしまったのかもしれない――。
高橋は自問した。その答えは自分でも分からなかったが、ゴキブリを見かけると安心感を得ることが出来るのは確かだった。
2
「どうしたんですか? 顔色が悪いですよ」
同じ職場に勤める女子社員が高橋に話しかけた。怪訝な顔付きをしている。女子社員の言う通り、確かに高橋の具合は悪かった。目の下には深い隈が刻まれており、顔色からは精気が感じられず土気色をしている。
高橋は彼女の優しさに驚いた。もっとも、高橋の些細な変化に気付いた彼女の気遣いに対する驚きの方が強かったが。
「ありがとう。最近寝不足でね」
高橋は強がりとも取れる苦笑をしながら軽く応えた。もちろん寝不足というのは嘘である。いや、広義には寝不足にもなるのかもしれない。
体調が悪いということは高橋自身が一番良く知っていた。病院に行っても無駄だろう。ここ数日間、高橋は幻覚とも取れる症状に悩まされていた。きっかけはあの日の夢だった。ゴキブリのフルコースを食べた日の夢である。
ふと気が付くと高橋は河原に立っていた。近所の河原である。周りを見渡すが時間帯は分からない。辺りが曇っている、というか霧がかっていて薄暗いのだ。朝なのか昼なのか、それとも夕方なのかも分からない。
人の気配も全くない。河原の近くには高速道路もあるが、車の走行音すらしていない。普段はうるさいぐらいのトラックが地面を揺らす重低音もしないのだ。
カサカサ。カサカサ。
突然、背後で草の擦れる音がした。後ろを振り向く。そこには、河原には不似合いな木製の引き戸があった。高橋は導かれるように引き戸を引いて中に入った。
一歩足を踏み入れる。教室だった。懐かしさの残る高校時代の教室である。親友と青春を過ごした思い出の場所。
ただ、誰もいない。なぜか辺りの景色はセピア色に包まれていた。黒板だけは、まるでチョークで塗り潰されたかのように真っ白だった。
良く見ると時計の位置や教卓の場所、掲示物の配置、掃除用具入れなどの形も微妙に違う。全てが歪んでいるようだった。
高橋は校庭に面した窓の方へと歩み寄り、外の景色に目をやった。マンションは斜めに傾き、道路は白い粉をまぶしたように銀白色。明るい空に青白い月が浮かんでいた。外の景色すら不可思議に歪んでいるようだ。
グラウンドを見下ろす。高校時代に部活動に明け暮れたグラウンド。高橋の心には懐かしさが込み上げてきた。頬を雫が伝っていった。感動して泣いたという自覚は無かったが、いつの間にか泣いていたらしい。
まだ高橋にも親友と呼べる存在がいた高校時代である。懐かしさが極まって泣いてしまったのかもしれない。涙を手で拭った高橋は再びグラウンドを見下ろした。すると、ある異変に気付いた。
数秒前とは違和感がある運動場。グラウンドの中央にそれはあった。何か黒い塊。良く目を凝らすと蠢いているようにも見える。先程までは無かったものだ。
高橋は鍵を外して窓を開けた。黒い塊を良く見ようとしたのだ。サッシに手をかけた高橋は身を乗り出した。
高橋が窓を開けて身を乗り出した瞬間、その黒い塊は一斉に四散し黒い破片と化した。高橋の方へと飛んでくる物もあった。
破片が近づくに連れて、それまで不明瞭だった姿がはっきりとしてきた。ゴキブリだった。鈍い羽音を立て空気を震わせながらこちらに飛んでくる。それも一匹や二匹ではない。何百、何千というゴキブリである。
高橋は慌てて窓を閉めた。間近まで迫っていたゴキブリは止まることが出来ずに窓と衝突した。まるで機関銃で撃たれたかのような連続した衝撃が窓を揺らす。窓ガラスは見る見る内に黒くべっとりとした液体に塗れていった。
高橋はカーテンを閉め後ずさりした。高橋には、なぜゴキブリが襲ってくるのか分からなかった。
カサカサ。カサカサ。
あの音が教室後方の引戸から聞こえてきた。草の擦れるような音である。高橋は後ろを振り向いた
床一面、見渡す限りのゴキブリ、ゴキブリ、ゴキブリ。いつの間にか引戸は消失し周りから教室は消え、高橋は先程の河原に戻っていた。
およそ数メートル先の地面に何万匹ものゴキブリがいる。そして徐々に近付いて来ているようだ。先程草むらで聞こえた草の擦れるような音は、どうやらゴキブリの蠢く音だったらしい。
這いながら徐々に距離を詰めるゴキブリ達。まるで黒光りした絨毯が波打ちながら近付いているようだ。ゴキブリは草の間を縫うように進んできた。
その余りの数の多さに、ゴキブリに慣れている筈の高橋でさえ圧倒され恐怖を感じた。ゴキブリ達の目は赤く光り、大アゴの牙を獰猛に動かしている。威嚇するかのように羽を震わせるゴキブリもいた。
高橋は逃げ出そうとした。ゴキブリが怖かったのだ。ゴキブリ達は走り出した高橋に、通常では考えられないような異常な速度で迫って来た。飛びながら迫り来るゴキブリもあった。
恐怖心と焦燥感からか、足が縺れた高橋は転んでしまった。もう既にゴキブリはすぐそこまで迫っていた。
後ろを向いた高橋は茫然とした。本来ならばそこから逃げ出さなければならなかったのだが、高橋には再び立ち上がり走り出す気力など残っていなかった。
一匹のゴキブリが高橋へと飛んで来て、顔面へと着地した。高橋の意識はどこか遠くにあり、為す術も無かった。ゴキブリの茨のような足が唇を押し上げ、口の中へと入ってきた。
ゴキブリの感触によって高橋は我に返った。驚いた高橋は間の抜けた声を出しながら、ゴキブリを吐き出した。ゴキブリはすぐ側の地面に落ちた。
ゴキブリを食べ慣れている筈の高橋だったが、生きたまま口に入ったゴキブリに嫌悪を感じた。高橋は今し方の感触を思い出し身震いした。
カサカサ。カサカサ。
すぐ側でゴキブリの蠢く音が聞こえた。自分の置かれている状況を思い出した高橋は周りを見渡した。全方向をゴキブリに囲まれていた。
一斉に集まったゴキブリは高橋の身体をよじ登ってきた。先程のゴキブリと同様の方法で、飛んでくるものもあった。肌を刺すような感触がやけに気持ち悪い。
見る見るうちに高橋の身体はゴキブリに包まれた。もはや高橋は動くことさえ出来なかった。ゴキブリに圧倒されたせいもあるが、金縛りに遭ったような感覚に見舞われたのだ。
ゴキブリが獰猛な大アゴを高橋の足に、腕に、そして顔へと突き立てた。凶刃のように邪悪で鋭い牙が、柔らかい肉を貫いた。高橋の全身から血潮が噴き出した。
高橋は双眼を見開き絶叫した。しかし見開いたことが仇となり、目にまでもゴキブリが入り込んだ。ゴキブリの筋肉的に太い足が眼球を突き破った。
高橋の目には一瞬だけゴキブリの黒い足が映ったが、次の瞬間には何も見えなくなっていた。頬を生暖かい液体が伝う感触がする。真の暗闇と耐えがたい激痛が高橋へと訪れた。
高橋は目を見開いた。白い天井が目に映る。
――夢。
どうやら悪い夢だったらしい。パジャマ代わりに使っているジャージが脂汗でべっとりと肌に張り付いていた。心臓が物凄い早さで脈打っている。肋骨の間で激しくポンプ運動をしている音が、鼓膜へと伝わった。
目を閉じて呼吸を整わせ、おもむろに指を目蓋に這わせる。眼球の丸い感触がした。潰れていない。
枕元の携帯を開き時計を見る。ディスプレイの光が明るく顔を照らした。時刻は午前三時を少し回った頃である。
……それにしても、夢で良かったな。
高橋は思わず溜息を吐いた。これまでにゴキブリを食してきたので、呪いや恨みの類が降りかかったのだろうか。
しかし夢ならば心配することは無い。夢とは人間の脳が勝手に作り出す妄想である。直接的に危害を与える力は、妄想には無い。
そう高橋が胸を撫で下ろした時だった。
カサカサ。カサカサ。
あの、乾いた物を二つ擦り合わせたような音が、耳元で聞こえた気がした。
眠れない日々を過ごすようになったのはそれからだった。夢の中で幾度と無くゴキブリの大群が襲ってくる。その度に高橋は目を覚ます。
初めの内は夢の内容など気にも留めなかった。しかし流石に数日も続くと眠れなくなる。高橋は不眠症になっていた。
その上、ある種の妄想と思われる症状まで出てきた。起きていても寝ていても、ゴキブリが襲ってくる感覚に駆られるのである。ゴキブリに腕を、足を、腹を喰い千切られる。実際に痛みまで感じてきた。まるで仕事が身に入らない。
胸が焼ける様に痛む。胃が突き破られるように痛む。脳が直接揺さ振られるように頭が痛む。
喘息の症状の様に、咳も止まらなくなった。体が新鮮な空気を欲しているのだろうか。高橋が咳をすると何やら色の黒い、どろりとした反吐の塊の様な物が出てきた。
「――一体、どうしたんでしょうかねえ」
自宅から近い内科病院の医者が、高橋の胸を聴診器で診察した後に誰に言うともなく呟いた。咳の症状が出ているが、呼吸などに異常が見られないからだ。
『いいいたあああいいいどおおおしたあああ』
高橋の頭の中で医者の声が反響した。最早意識が昏迷する寸前だったが、高橋は気力で精神を保っていた。
「取り敢えず肺を見てみましょうか。レントゲン室へ移動してください」
相変わらず頭痛や眩暈が続き理解するのに苦労したが、看護婦が協力してくれたおかげでレントゲンを撮ることが出来た。
待合室で待っていると、数分後に医者に名前を呼ばれた。診察室に入ると、医者が困惑した表情で、焼き上がったレントゲン写真を睨んでいた。
白い逆光に照らし出されたレントゲン写真の像は、間違いなく高橋の胸部に違いなかった。しかし、肺の部分が黒く染まっている。いや、全体的に影のようなものが出来ているようだ。
高橋は苦悶の表情を浮かべて自分の胸に手を当てた。レントゲン写真を見た瞬間、心臓から肺にかけて痛みが走ったのだ。呼吸困難に陥りそうになる。
医者が、高橋に何か声をかけた。高橋にはそれが聞こえなかった。鼓膜は確かに振動しているのだが、脳がそれを言語として認識できないのだ。頭がずきずきと痛み、雑音にしか聞こえない。
……高橋の脳裏にある予感が浮かんだ。この、自分の体全てを覆う黒い影の正体はもしかしたら――。
全てが狂い始めた、忘れもしないあの日。高橋はゴキブリのフルコースを食べた日のことを回想した。天麩羅やジュースなど、どれも満足いく味だったが、一つだけ食べてはいけない物があったのだ。
高橋はあの日、芋虫同然となったゴキブリを食べた。いわゆる踊り食いである。しかしあのゴキブリは雌だった。それも、卵を腹に蓄えた雌を、高橋は食してしまった。熱処理されずに残った卵は母ゴキブリごと高橋の口へと運ばれた。
子持ちの母ゴキブリは高橋に食べられた後、その凄まじいまでの生命力と子孫を残すという動物的本能で、高橋の食道に達した後、産卵した。もし胃に到達していたならば、ゴキブリは強力な胃酸によって溶かされていたことだろう。
母ゴキブリが力尽きた数時間後、食道内で一斉に孵化した子ゴキブリ達は、自分を包み込む肉壁を食べ始めた。毎日毎日、少しずつ高橋の体は侵食されていった。高橋自身が栄養として摂ったゴキブリ。皮肉なことに、ゴキブリの子の栄養にされてしまったのである。
朦朧とした意識の中で、高橋は少年時代を回想した。断片的な記憶が脳裏に浮かぶ。
高橋の実家は、とりわけ貧乏というわけでも無く、ごく一般的な核家族であった。両親は今も健在で、二つ下の妹もいる。
あれは四年生の夏休みだった。遊びから帰宅した高橋は、台所の冷蔵庫からジュースを取り出そうとして、何気無く床を見た。そこには一匹のゴキブリがいた。
小学生という年齢には珍しく、不思議と恐怖心といったものは感じなかった。感じたのは好奇心、それに黒光りするカブト虫のような昆虫に対する言いようのない魅力だった。
分別のつかない子供が、好奇心から蝶々に手を伸ばすのと同様に、高橋もゴキブリに手を伸ばした。ゴキブリは逃げることもなく、簡単に捕えることができた。
少年は、しげしげとゴキブリを見つめ、眺め、観察をした。
見るほどに魅力は高まっていき、惹かれていった。ゴキブリの足を握る。無邪気な少年の手は、いとも簡単にゴキブリの足を千切ることが出来た。
ブチッ。
小気味の良い音とともに、ゴキブリの脚は糸を引きながら千切れた。少年の頭には、もはやジュースを飲むことなど残っていなかった。
夏の日射しに体液をぬらぬらと輝かせるその脚が、少年には何とも美しく見えた。片方の手でしっかりとゴキブリを握りながら、千切れた脚の匂いを嗅ぐ。大した匂いはしなかったが、口に入れると甘酸っぱい味が広がった。
脚を一本失いながら、必死に少年の手から逃れようとするゴキブリを、少年は見つめた。不衛生で害虫の象徴であるその生き物は、少年にとって甘美で魅力的な黒い果実となった。口に入れると広がる酸味。ほのかに甘い香りもした。
ある時、母親にゴキブリを食べる瞬間を見られたことがあった。凄まじい剣幕で怒られた少年は、決して食べる瞬間を見られてはいけないと学んだ。
あれから十数年。成長した少年は、これまで捕食してきた生き物に、逆に食い潰されてしまった。
高橋の体内に巣食う黒い化け物は、まるで蛹が蝶へと羽化するように、外へ出ようと皮膚を突き破ろうとしていた。
すでに医者の手に負える状況では無い。ふいに喉に違和感を覚えた高橋は咳き込んだ。一匹の小さなゴキブリが口から飛び出し、床に落ちた。
腹部が小さく盛り上がり、虫のように蠢いた。あまりの激痛に高橋は気絶してしまった。
次の瞬間、ブチブチと筋肉が千切れ、腹部の中央辺りが張り裂けた。鮮血とともに、真っ赤に染まった数百匹の大小様々なゴキブリが、一斉に飛び出した。
わらわらと蜘蛛の子を散らすように拡散するゴキブリ。病院内は悲鳴と絶叫に包まれパニックになった。
外界に放たれた人喰いゴキブリは、すぐに人間の目に届かない場所へと隠れた。人の味を覚えたゴキブリは、再び集団で人間を襲うだろう。
診察台に横たわったままの高橋は、いつまでも虚空を見つめたままだった。食い荒らされ空洞化した腹から、出遅れたように一匹の巨大なゴキブリがのそのそと出てきた。赤黒いゴキブリの背中が妖しく光った。
―――完