京子
すぐに京子のおじいちゃんは来てくれて、玄関で待つ俺を見て優しく微笑み、
「京子を呼んでくるから、ちょっと待ってなさい」と言い、俺を玄関に残し家の中へと入っていった。
俺はいよいよ心臓がバクバクと鳴り出した。
まさか、ここまでスムーズに会えるとは。
不確定要素が多いまま飛び出て来たが、なにごとも、まずは行動することが大切だなと感じた。
来る。京子が来る。
2年半前、俺の京子への最後の言葉は、敬語で命乞いだ。
京子様って。
どうしよう。今日は普通に、京子、って呼べばいいよな?
あと、何を話す?
山下大介のことの謝罪とかも変だよな?いまさら。
もう2年半も経つんだ。
会えるかどうかも微妙だったから、どう会話を切り出すか、あんまり考えて来ていない。
話したいことは山ほどあるが・・・・この2年半の俺の病院生活の話なんて、京子、俺の口から聞きたくないよな?普通。
京子が俺を病院送りにしたんだし。
う〜ん・・・・・
なら、
未来の話でもしようか。これからのこと。
そんなことを考えていると、
トッ トッ トッ
このお屋敷の奥から、誰かが玄関に向かう足音がする。
きっと、京子だ。
俺はいっそう心臓が高鳴った。
俺は、中学時代の、俺の中での最も新しい時期の京子を思い出す。
可愛らしく、それでいて時に妖艶な顔と、比類なく荘厳な体格の京子。
最も新しい時期の記憶でも、もはや2年半前だ。今の京子はどうなっているのか。
本当に、ドキドキする。
2年半も時間があったのだ、心の準備が出来ていないとは言わない。
が、出来ているとも言い難い。
トッ トッ トッ トッ
足音が容赦なく迫る。
その瞬間、文化祭の日の、俺に怒りを向ける京子の顔が異様なほど鮮明に思い出された。
飼育小屋の中から俺を睨み、その後
圧倒的な力で俺を損傷させた京子。
救急車が来て、治療を行なったから死なずに済んだが、
放置すれば死ぬほどのダメージを俺に与えていたことを思えば、俺は一度京子に殺されたようなものだ。
いよいよ対面という時に、突然フラッシュバックしてきた。
心は京子を求めていても、破壊されたことを覚えている肉体が、京子の登場に怯えているのかも知れない。
だけど、恐怖ごと抱え込んで、会いたい。
トッ トッ トッ
もう、足音はすぐそこだ。来る。
そして、玄関の横の廊下からその足音の主は現れた。
京子のおじいちゃんだった。
「京子、まだ部活から帰ってきてないみたい・・・約束してたんだよね?」京子のおじいちゃんが、困ったように俺へ問いかけて来た?
「えっと・・・約束はしてなかったです・・・・家にいるかと思って・・」俺はそのままそう答えるしかなかった。まずい。少し、奇妙な話だろう。これでは。
「・・・・そうか・・・じゃ、いつもならもうすぐ帰ってくる頃だし、中で待ってなさい。名前、なに君っていうんだい?」これはまずい質問かも知れない。
約束もなしにいきなり山奥のクラスメイトの家へ男子が来てる、という不自然な点はあまり気にされなかったようだが、俺の名前かぁ・・・
田辺っていうと、マズイかな?
2年半前に起きた事件の当時者だと分かったら、京子が帰ってくる前に追い返されちゃうかも。
田辺啓太のせいで、京子は自殺を図って、その後過去を捨てて引っ越しまでしたのだから。
田辺って名前聞き覚えられてたらキツイな。一応、10年前にもここに来てるし。
老人にとって10年って、昨日のことのように感じるとかいうし。
なので、
「タマベです。タマベといいます。」俺はニアピンネームを伝えた。
デタラメすぎる名前で、もろウソついて切り抜けるのは抵抗があったので、タナベを、滑舌悪く言いましたってことで通そう。
「じゃ、タマベくん、上がりなさい。」玄関先でずっとたたずんでいた俺にそう言って、京子のおじいちゃんは俺を屋敷の奥の方に俺を案内してくれた。
屋敷の奥の廊下はとても長く、
その長い長い廊下を行く途中で目に映る部屋達は、襖が閉じられている部屋が多く、どんな部屋があるかはハッキリとは分からなかった。
ただ、たまに見えた中には、客室?なのか分からないがお座敷のようなところもあった。
まるで、旅館の中を歩いているような気持ちになった。
マジで、これが一個人の家なのか・・・。
1人で家に入ったら、きっと迷子になってしまう。
俺の先陣を切って歩いてくれていた京子のおじいちゃんは、さすが京子のおじいちゃんらしく、やや早歩きがちだった。
普通に歩いているつもりなのだろうが、俺とは足のスライドが違いすぎる。
京子もそのきらいがあった。
ふと、京子との登校を、懐かしく思った。
ただでさえ、俺と京子のおじいちゃんの歩幅には大きな差があるのに、俺は障害者だ。
人一倍歩くのは遅い。
ジリジリと京子のおじいちゃんから離されていき、
マズイ・・・呼び止めなくちゃ・・
と、思っていると、
京子のおじいちゃんがふいに振り返ってくれて、
俺が遅れていることに気がつき、少し歩みを遅らせてくれた。
助かった。その時の京子のおじいちゃんの歩く速度は、どうにかついていける速さであった。
京子のおじいちゃんは俺の歩く様を改めて見て、俺が障害者であることを今一度理解しただろう。
俺の少し不自然な、足を引きずるような歩き方。
びっこを引くというやつだ。
ちなみに立花さん、俺をこんな体にしたのは、貴方の孫です。それも、素手で。
そこからさらに、グネグネと長い廊下を歩いていると、突然京子のおじいちゃんが歩みを止めて、廊下の側面の扉を一つ開いた。
その扉は襖ではなく、和風のドアといった見た目の扉だった。
「ここのリビングで、ゆっくりしてなさい。京子も、じきに帰ってくると思うよ。」京子のおじいちゃんはそう言って、そのドアの中へ通してくれた。
中は木造りのリビングのようになっており、とても過ごしやすそうだった。
長い長い廊下はまだまだ続きそうだったが、どこまであったのだろう・・・。
「ありがとうございます。」俺はリビングの中に入り、キョロキョロした。
リビングも立派だ。広くて落ち着かない。
すると
「そっちのソファにでも座ってくれていいよ。テレビでも見ていなさい。」と言いながら、京子のおじいちゃんはテレビをつけてくれた。テレビの向かい側にソファもある。
さらに、京子のおじいちゃんはリビングの奥へ行き、お茶を淹れてきてくれた。
そして、
「また京子が帰ってきたら、呼びに来るよ。」と言い、京子のおじいちゃんはリビングを出て行った。
俺はリビングに残され、言われたようにソファへ座り、京子のおじいちゃんが淹れてくれたお茶を飲んだ。
これまた上品なお味だ。
よく冷えていて、喉がカラカラだった俺は一気に飲み干してしまった。
おかわりが欲しいとさえ思った。
その後俺は、ソファの前の座りテーブルに置かれたリモコンでチャンネルを回してみた。
テレビの右上に表示された時刻表示によると、今は16時半。
ゴールデンウィークとは言え、平日の昼間なので、穏やかな番組ばかりだった。
俺はしばらく、なんだかよく分からない、平和な旅番組を見た。
やんわりとした物腰の、過激でない芸人が一般人へのリポートに励んでいた。
特に感情も持たず、俺はそれをボーっと見ていた。
ふと部屋の縁側の方を見ると、リビングから差し込む日差しが傾いて赤みを帯びてきている。
縁側からは、見事な庭の景色と、庭の向こうに塀の内壁が見える。
ここに来るまでの廊下が入り組んでる上に長すぎて、自分が今、屋敷内のどの辺りにいるのか検討もつかないが、とりあえずこのリビングは外面に面している部屋ということだけは、この景色が教えてくれている。
やがて旅番組をリポートしていた芸人が、「また明日〜!」と番組終了の合図をし、時刻表示をみると17時であった。
俺は立ち上がり、縁側の方へ行き、庭の風景に酔いしれた。
とても広く、手入れも行き届いた美しい庭だ。
庭の奥の塀の上側には向こうの山の風景が見える。
5月なので、青々と生命に満ちた山姿だ。
俺を照らす夕日の暖かさも心地よい。
リビングにはテレビの音だけが響く。
数分間、俺は庭の景色に没頭した。
思わず、いつか俺も大自然の中に家を建てようと夢を見た。
縁側で庭の景色を味わった俺は、再びソファのところへ戻りリモコンを持って立ったままチャンネルを回した。
17時台だと、ほとんどのチャンネルがニュースだ。
その時
トトッ
物音が聞こえた。
リビングの入り口の扉の方から聞こえた気がしたので目を向けると、
カチャリとドアが開き、
そこには
京子が立っていた。
背は、俺の知る京子よりもさらに高く、
俺の記憶の中の、京子の父親並みに高く見えた。
少なくとも、今、目の前の京子は2メートルを超えている。
肩幅も相変わらず広く、いや、背が伸びた分昔以上に広く、
制服のスカートから覗く足は今日も長く、逞しく、
顔は、思い出の中の京子より少しだけ大人びて見えた。
総括して、目の前にいる女性は、紛れもない京子であった。
疑う余地もない。
京子は、今、硬直している。
京子が俺の姿を認識した瞬間、京子の目は丸くなった。
そして、まさに穴が空くほど俺を見つめている。
制服姿で、部活帰りなのだろう。
俺も言葉が出なかった。
かなり突然の対面となった。
京子のおじいちゃん、京子が帰って来たら呼びに来るって言ってたのに。
多分だけど、京子のおじいちゃんと京子は、京子が部活から帰って来た後まだ会っていないのだろう。そんな感じがする。
「・・・・え・・・・?」京子が長い沈黙の中でようやく、小声で感嘆詞だけを発した。
「久しぶり・・・・です・・」俺も言葉を絞り出した。敬語になってしまった。
これは、単に久しぶりの再会の為か、それとも刷り込まれていた京子との上下関係への認識の為か、どっちとも分からず嫌な感じがした。
「・・・・」京子はまたも黙り、俺を凝視している。京子の眼球が揺れている。
「・・・・」俺も挨拶はしたので、もう、京子の出方を待とうと思った。俺も京子を凝視する。
俺の眼球も、震えているのだろうか?
今も、右目は視力が低く、右目だけコンタクトなのだ。
「なに、してるの・・・・?」京子は尋ねて来た。ついに、京子から俺へ言葉が投げかけられた。
俺はこの瞬間を、2年半待ち続けていたのかもしれない。
「京子を・・・待ってた・・・」待ち焦がれていた瞬間だったのかも知れないが、俺も余裕はなく、やや見当外れな返しをしてしまった。
「いや、なんで・・・・」京子はいろいろ聞きたげだったが、また黙りこくった。
そして、
「か・・・・」京子は何かを言いかけて、止めた。
か・・・?
"帰って"って言おうとしたのかな・・・?
俺は暗い気持ちになった。それも、ある程度覚悟していた可能性だ。
京子はなんだか、凄く暗い顔をしているように見える
すると、京子は俺から目を逸らし、小さな声で、目を伏せながら、
「体・・・もう・・・大丈夫なの・・?」と尋ねてきた。
それを、言いかけていたのか。
確かに、京子からは最も尋ね辛く、しかし、最も気になることの一つかも知れない。
俺は、山下大介が退院直前に、俺の目の前で軽快に歩いていたのを思い出す。
それを見た時、俺は凄く安心でき、救われた気がした。
京子の為にも、凄く元気でバッチリ回復したと伝えたかった。
「あぁ・・・もぅ、元気だよ。バイトもしてる。」俺は今も障害者なのだが、精一杯虚勢を張った。
「・・・・・」京子は何も言わなかったが、空気が少し弛緩した気がした。
ここで俺が正直に、後遺症は一生だし今も走れない、なんて言っていたら、もっと張り詰めた空気になったと思う。
「・・・座る・・・・?部活帰り・・・?」俺が京子に着席を促した。京子が家主側なのに。
無理に過去のことばかり話さず、最近のことからでも話せればと思った。
「なら・・・あたしの部屋行こ」京子がそう提案して来た。
京子が良いなら、俺としてもリビングより京子の部屋の方が良いかもしれない。
いつ、京子の両親が帰って来るかも分からないし。
京子の親が俺を見たら、マズイことに少しはなるだろう。
「あ・・うん」俺は京子の提案を承諾した。
「こっち」京子は俺の返事を受けて、リビングから出て俺を先導した。
マズい。俺は必死な気持ちになった。
絶対に、俺が障害者だと分からないように歩かなければ。
山下大介が俺の目の前で見せたように、軽快な、一般人と変わらないような足取りで。
俺はびっこを引かぬよう、かなり集中して足の動きに注意し、なるべく早足で、前を行く京子について行こうとした。
京子は京子のおじいちゃんと違い、こまめに俺の方を振り返りながら先導してくれた。
しかしそれは、俺がついてこれているか心配すると言うよりも、俺の歩き方が気になって何度も見返しているように、俺には感じられた。
俺は懸命に、自然に見られるよう頑張って歩いた。
だが、事実として俺は障害者なのだ。気持ちの問題だけでどうにかできるものでもない。
多少の違和感やいびつさはあるだろう。
俺なりにできる限り健常者っぽく歩いているが、京子の目にはどう映っているのか。
それにしても、やっぱりこの廊下、長いな。
廊下は長かったが、京子はゆっくりめに歩いてくれていたので、ついていけないこともなかったし、体力的にも耐えられた。
やがて長い廊下の途中に階段が出現し、京子はそこを登り始めた。
階段か・・・
階段は結構、障害者感出ちゃうんだよな。
その階段は、手すりがなかった。
俺は京子に遅れないよう、俺は4つ足で獣のように、這うように階段を登った。
這うように登るのは二足歩行で登るよりマナー悪く見えるかもだが、多分、二足歩行だと結構障害者っぽい感じで、壁に手をつきながら、カクンカクン体を揺らしてして登る風になる。
それよりは、マシだろう。
京子はチラチラと俺の方を確認しながらも、ずっと何も言わない。
俺は頑張っているけど、どうせ京子は俺が障害者になってしまっていること、気づいてるだろうな。
京子はなんだってお見通しだ。
京子を欺くなんて、出来っこない。
そんなことは分かった上で、俺にできることはなるべく、自然に振る舞うことだ。
そうするしかないだろう。
京子は階段を上がり切り、2階に達し、そこからさらに上の階への階段を登り始めた。
京子は3階に向かっている。
京子の部屋は3階なのか?
3階への階段も、俺は手足4つで動物のように登っていった。
3階に達し、京子は再び3階の長い廊下を進んでいく。
ちなみに、階段はまだ上にも続いていた。
この屋敷は何階建なんだろう?
外装だと、5〜6階はありそうだったけど。
3階の廊下も長く、本当に、なんて大きい建物なんだと感じる。
3階の廊下を歩く京子に必死について行く。
その時、
ドテッ
俺は転んでしまった。
健常者っぽく歩こうと力み過ぎて、足がもつれてしまった。
「大丈夫?」振り返りながら京子が、優しく手を差し伸べてくれる。
同級生が転んだところで、普通は手なんか差し伸べないだろう。
京子が手を差し伸べて来た事実は、
京子は俺が、転んだ後に一人で立ち上がるのが容易ではない人間だと気づいている証左であった。
俺をまさにこのような体にした大きなその手を、京子は今、暖かく差し伸べて来ている。
2年半ぶりに、京子に触れてみたい気持ちもあったが、俺は京子のその手を取らなかった。
「大丈夫」とだけ言って、壁に手をつき1人で起き上がろうとした。
立ち上がるのは、確かに難しい。
膝がカタカタと笑い、下半身全体をプルプルとさせながら俺は立ち上がろうとした。
しかし、
ズテッ
上手く立ち上がれず、また転んでしまった。
何もないところで転び、1人で立ち上がることもできず転がり続ける俺の姿は、身体障害者以外の何者でもなかった。
結局これか、と、俺は自分に落胆しながらも、未だに引っ込められていない京子の大きな手を、あくまでも視界の端に入れておくだけで直視せず、頑なに自力で立ち上がることに固執した。
そして、再び手を壁につき、体全体をプルプルさせて、今度は立ち上がりに成功した。
京子は何も言わず、前を向き直り俺への案内を再開した。
そして廊下を進み、ようやく一つの扉の前で京子の足が止まった。
京子はその扉を開け、部屋の中へと入って行ったので俺もついて行った。
そこはまさしく、京子の部屋であった。
とても大きな部屋。
学校の教室の半分くらいの大きさはあったが、京子サイズで考えればちょうどいいのかもしれない。
女の子らしい部屋で、綺麗に整頓もされていたが、生活感もあった。
部屋の窓からは、やはり雄大な山の景色が覗く。留め金にかけられたカーテンは、淡い緑色のカーテンだった。
俺は京子の後に続き部屋に入り、後ろ手で扉のを閉めた。
部屋に入り見た京子の後ろ姿は、窓の外に見える山のように雄大で頼もしかった。
広い背中だった。
ここに来るまでの廊下の道のりでは、俺は歩くことに必死で京子の後ろ姿に見惚れる余裕はなかったが、
部屋に辿り着き、ようやく呼吸も落ち着いた。
京子は振り返って俺を見下ろした。
同時に、当然の如く俺も京子を見上げた。
2年半越しに至近距離で相対して、やっぱり京子は大きい。
2年半の間に、俺の身長はほとんど変わっておらず、170cmはなく、多分、169cmだ。
骨は伸びるよりも、修復に忙しかったのかもしれない。
対して、京子はあれから10センチは伸びているだろう。
昔以上の威圧感だ。
その気になれば、次の瞬間に振りかぶりもなしに俺の顔を叩きインプラントを吹き飛ばし顎を砕ける。
体の成長を見るに、京子は2年半前のあの日よりも、さらに強くなっているだろう。
恐怖はやはりある。
動物園で檻に入った肉食獣を見るように、今から自分に直接的な危害が加わることはないと頭で十分に理解していても、本能が怯えている。
その秘められた強さと暴力性に。
京子が今から俺に、かつてのように手をあげることはないはずだが、
分かっていても、背中から冷や汗が止まらない。
なぜなら、もしも仮にそんなことが起きたら、俺は確定的に破壊されなければならないからだ。
それに対する予防手段はない。
全ては、京子の一存であり気持ち次第だ。
だから、俺の視点からだと、運なのだ。
京子の気持ちは結局、京子にしかコントロールできない。
俺は畏怖と愛情を込めて京子を見上げている。
すると、
「啓太、なんか、ちっさくなった」京子が割と自然なトーンで話しかけて来た。
2年半ぶりに、京子が俺の名を呼ぶ。俺の名前、忘れてなかった。
「京子が、大きくなったから」俺も普通に返した。
京子の中でも、俺のサイズは2年半前で止まっていたのだろう。
俺のサイズは変わっていないのだが、京子が大きくなったので、京子目線だと相対的に俺は小さくなってしまった。
京子の言葉は、京子の中にも、2年半前の俺が存在し続けていたことを示しているようにも思えた。
現実とイメージのギャップがなければ出てこない言葉のはずだからだ。
京子の中で、200分の10センチの違いを感じ取れるほど、2年半前の俺がしっかり残っていたと、そう考えたい。
「会いに来てくれたの?」京子が突然直球な質問をして来た。
「うん。京子に会いに来た。」俺もハッキリ答えた。
京子の部屋の扉を閉めて、世界には2人だけのような気持ちになれた。
「なんで?」京子は俺にさらに尋ねた。
なんで?なんでって・・・・
「・・・・・」俺は黙った。
すると京子は部屋の奥の勉強机の椅子を引っ張って来て、
「どうぞ」とわずかに茶目っ気を混ぜて俺に差し出した。
俺は黙ってそれに座り、京子もそれを見てベッドの縁に座った。
本来の座高はもちろん京子の方が高いが、俺の椅子は京子の足の長さにあわせてなかなかに高かったので、俺の目線はベッドの縁に座る京子とほぼ同じだった。
すると、京子が
「こっち来なよ」と言った。
広い部屋で、ベッドと椅子が少し離れていたからだろう。
俺は先程の"なんで京子に会いに来たのか"の返答を考えていたので、
「あ、あぁ」と、上の空のような返事をしながら椅子から立ち上がり、
京子と並ぶようにベッドの縁に座った。
京子と並ぶと、やっぱり座っていても体のサイズの差は大きい。
顔だけは、昔から俺の方が大きいのだが。
ベッドの沈みも、体重60キロほどの俺が座っているところより京子の座っているところの方が遥かに深く沈み込んでいる。
ふと京子の顔を見ると、なんだか少し驚いたような表情をしている。
「え、いや、椅子ごと」そう言いながら京子は俺が置き去りにしたイスを指差した。
あ、そうか。普通、椅子をもっとベッド側に寄せて座れってことだよな。
俺は自身の勘違いに気付き、椅子を取りに行く為にベッドから立ち上がろうとすると、
「もう、いいって。」と京子は言い、立ち上がろうとした俺を手で制止した。
俺は再びベッドの縁にポウンと尻餅をつき、横並びで京子と目を合わせた。
「なんで、あたしに会いに来たの?」京子は今一度俺に尋ねた。
なんども逡巡したが、俺は
「好きだから」と、しっとりとした口調で言った。
すると京子は俺の方に体を傾けて来た。
肩がぶつかった。
かと思うと、そのまま京子は俺を押し潰すように覆い被さって来て、俺の顔を覗き込んできた。
なんだ・・・・!?
「え、なにっ」俺が京子の突然の動きに対し、思わず疑問の声をあげたと同時に、
ハグッ
京子は俺にキスをした。
俺は全身を弛緩させた。
京子のキスを受け止め、俺はキスをしたことがなかったのでさらにどうすればいいか分からなかった。
京子の舌が優しく俺の唇の内側に触れた。
なので、俺もその京子の舌に、俺の舌をあてがった。
すると、京子の舌が俺と京子の唇の狭間でチロチロと動くので、俺も京子の舌を俺の舌で撫でた。
そのまま互いに舌で相手の舌を撫であい、
やがてゆっくり唇を剥がした。
俺は惚けており、京子はベッドの脇にあった照明リモコンで部屋の明かりを暗くした。
真っ暗ではなく薄ぼんやりと、辛うじてお互いの顔が分かる程度の暗さだ。
京子は制服の上だけ脱いで、暗くてはっきり分からないが多分カーディガン?姿になり、ベッドで横たわる俺に抱きつき「全然体大丈夫じゃないじゃん」と静かに言った。
「あー・・・まぁ。」俺はぼんやりと答えた。
「ホントにごめん」京子の声は涙声で、暗くてよく分からないが、京子は泣いているように思えた。
「俺が悪い」俺はそう答えた。
すると、
おもむろに京子は俺の右頬を優しくさすってきた。
今、京子はもしかして、あの時の、開幕の最初のパンチを思い返しているのだろうか?
ノーモーションで俺の歯を吹き飛ばし顔全体を痺れさせたパンチ。
圧倒的な筋力と瞬発力とリーチを持つ京子の、異次元の戦闘力を思い出す。
「啓太に・・・・いっぱいひどいことした・・・・」震える声でそう言いながら、京子は左手で俺の鼻に触れ、右手で俺の曲がった左腕を撫でた。
やっぱり、俺の鼻は曲がっているように見えるんだな。
「俺も本気だったから。」含みの多い返しをした。
京子は何も言わず再び俺を抱き締め、京子の額を俺の頬に擦り付けて来た。
凄く良い匂いがした。京子のシャンプーの匂いだ。
至近距離で京子の顔を見ると、目元が薄暗さの中で微かに煌めいている。
やはり京子は泣いていた。
俺は京子を抱きしめ返し、2人で何も言わず抱きしめあった。
「あたしのこと、恨んでないの?」しばらくの沈黙の後、京子が小声で尋ねる。
消え入りそうな声だったが、クッキリと聞こえる。
2人で暗闇の中だと、どんなボリュームでもよく聞こえる。
「恨んでない。ずっと好きだった。」俺も最小限のボリュームで答える。
京子の大きな体を抱き締めながら、京子の大きな体に抱きしめられていると、世界が京子一色だった。
「あたしも、啓太のこと好きだったよ。」京子からの返答には"ずっと"が抜け落ちていた。
俺は"ずっと"京子のことが好きだった。でも京子から俺への好きは、"ずっと"ではなく、期限つきだったのだろう。
京子は俺のことが好きだった時期もあれば、好きでなかった時期もあったのだろう。
それも、よく分かっている。
もう、全部が大切な過去だ。
「京子・・・」俺は京子の頭を撫でながら尊いその名を呟いた。
サラサラの髪だった。
「・・・」
「・・・」
俺と京子は闇の中で見つめ合い、またキスをした。
舌で京子の舌に触れながら、京子を強く抱きしめる。
俺はこの日まで、キスとは、
互いに全てを分かち合い、深い愛を示しあった先でするものだと思っていた。
確かにそのようなキスもあるのかもしれないが、
それとは別に、
互いに全てを分かち合える関係になる為のキスもあるのだなと知った。
漫画や映画のキスはたいてい前者だが、現実の大人達のキスは、その多くが後者だったりするのかも。
俺にはまだ分からない。
お互いに口づけを交わし、程なくして口もとを離し、
「中1の、ヒノモモ祭りのとき、啓太と一緒に公民館の倉庫忍びこんだの覚えてる?」京子が尋ねてくる。
「うん。」忘れるはずない。何度もあの日のことは思い返す。
「でも、喧嘩しちゃって、その後、啓太2週間学校休んじゃったじゃん?」
「うん。」
「2週間ぶりに啓太学校来た日、あたしのクラスまで来て、仲直りしようとしてくれて。」
「うん。行った。」
「ヒノモモ祭りの日からその時まで、あたし啓太のこと、もう、会いたくないって思ってて。でも、いざ啓太に教室で声かけられたら、めっちゃ嬉しかった。」
「あー、言ってたな。その日の夜。京子んちで。」
「そう!よく覚えてるね。」ずっと小声での会話だったが、この時少しだけ京子の声が大きくなった。
「あの日のことは忘れないわ。」俺はそう返した。京子にとっても、そうだったのだろう。
「今日も、同じ。」京子が言う。
「・・・・・」俺は遮らなかった。
「もう、啓太とは一生絶対に会うことないだろうなって思って、」京子は泣いたりせずに、穏やかに話している。
「・・・・・」
「啓太はきっと、あたしのこと恨んでて、啓太のこと考えると悲しい気持ちになるから、啓太のことはなるべく考えないようにしてたのに、」
「・・・・・」
「今日、いきなり啓太いるから。でも、いざ啓太を見ると、」
「・・・・・」
「めっちゃ嬉しかった。なんで啓太がいるのとか、なんて話しかけようか、とか思ったけど、1番は幸せな感情だった。」
「帰れって言われるかと思ってビビってた。」俺の返答に、京子は少しだけ微笑んだ。
「なんで、啓太ってこんなに安心できるの?」
京子はいっそう強く俺を抱き締めながら聞いて来た。
幼馴染だからだ。
もう幼馴染じゃない。
幼馴染だからだ!
もう幼馴染じゃない!
幼少期の、互いにとって最も幸せで平和で純粋な時間を共有した間柄だからだ。
互いの存在が、人生の原点だからだ。
それが、いわゆる、ところの・・・
「幼馴染だからかな?」京子は黙りこくる俺に尋ねてきた。
「あぁ、幼馴染だから。」
俺は京子の言葉を肯定し、
また2人で口もとを重ねた。
-立花 京子 完-