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立花 京子  作者: ぐんた
10/13

立花 京子10 幼馴染

美術室にたどり着き、中をに入ると、一般の生徒と美術部員がいるだけで京子と山下大介の姿はなかった。




美術室では、その年の夏に部員がコンクールへ応募した作品を展示していた。



模型もあれば、粘土のようなものもあった。



何枚かの絵も展示されていた。


その、何枚かの絵の中に、見覚えのある一枚の絵があった。



楽器を吹く女子の絵だ。楽器は、サックスだった。


京子はもともと中学1年時にはクラリネットの担当であったが、中学2年時には部員の欠員の関係で、チューバも担当していた。


そして3年時には、両方に加えて、ピアノとサックスまで担当していた。京子は器用な子だから、マルチに頼られていたのだろう。



この絵を描いたのは、山下大介だった。


言うまでもなく、モデルは京子だ。


この絵は、描くなと言ったのに。


以前に見た、夏のコンクールに向けての試し書きのようなものの、清書版だった。


構図こそ同じだが、細部まで丁寧に書き込まれている。色彩も絶妙だった。


素晴らしい絵だ。あいつ、こんなに絵が上手いのか。山下大介の意外な輝きに驚いた。


絵の下には


"サマー・ジュニア・アートコンテスト 最優秀賞"


と説明書きがあった。


タイトルは"奏"


なんかしらの夏のコンクールで賞を取ったらしい。たしかに、大した絵だ。




だが、同時に腹立たしさも込み上げて来た。


結局、俺の忠告は無視し、京子に被写体を頼んだのだと。


目標を持って二人で時間を共有して、こいつを描き上げ、キッチリ賞も取り、最高じゃないか。


思い出の作品か?




2人は、もしかして、2人きりの時には俺の事を馬鹿にして笑っているのか?



なんだかんだ山下大介は俺のことを下に見ていて、だってそうだろ、自分の女に執着してくる男なんて傑作だ、俺を馬鹿にしているから、俺の忠告は聞かないし、俺との遊びも断るんだ。



俺は、今一度絵を凝視する。



その絵の場所は、この学校の、今は使われていない飼育小屋の方だ。絵が上手くてよく分かる。




この作品"奏"は額縁に入っている。


今、美術室にはほとんど人はいない。


当番らしき美術部員が1人と、鑑賞している一般生徒が俺と別でもう1人いるだけだ。



俺は、美術部員の目を盗んで美術室の奥の備品置き場の方に入っていった。



そこの棚の引き出しには、美術部員が書いた、まぁまぁの画力の絵が布に包まれ保管されていた。


俺はそれを一つ、布を解いて取り出し、美術室の方へ戻っていった。


ちょうどタイミングよく、一般生徒が美術部員に展示されている作品の解説を求めている。


美術部員は1人だけだったので、俺はノーマークになった。


俺は"奏"を額縁から素早く抜き取り、代わりに先ほど美術備品置き場から持ち出したタイトル不明の絵をそこに入れた。


その絵は、湖を描いた風景画だった。なかなか味のある絵だ。



"サマー・ジュニア・アートコンテスト"で最優秀賞もなくはないんじゃないか? 


芸術の優劣なんて結局は見る人の主観だ。


湖の風景画で"奏"なんて、なんだか深いメッセージ性がありそうで乙じゃないか。


俺は抜き取った本物の"奏"を湖の風景画が入っていた布袋で包み、そそくさと美術室を後にした。



まるで、ルパン三世になった気分だ。



得物は剣なのだから、五右衛門といきたいところだが。





こんなことをしたことがバレたら、推薦は取り消されるかも知れない。



だけど、心がメラついてじっとはしていられなかった。







俺は"奏"を抱えながら京子と山下大介を探した。


"奏"の描かれた場所である、校舎の外れの飼育小屋の方にも行ったが、誰もいない。


飼育小屋は現在は使われていないので、小屋の中にも動物はおらず、空だ。


飼育小屋に併設されている、飼育小屋の用具置き場も見たがやはり誰もいない。


だが、飼育小屋の用具置き場に南京錠がいくつか置かれているのを見つけた。


俺はその一つを手に取り、ポケットに入れた。



京子と山下大介はどこにいるんだ?



俺は再び学校へ戻り、次は音楽室の方へ向かった。






友人達とは音楽室の方へ行かなかったので、まだここは一度も探していない。



音楽室の中を覗くと・・・いた。




山下大介と、京子だ。



京子が他の吹奏楽部員達と共にサックスを演奏している。



それを山下大介が音楽室の端っこで聴いている。



ここにいたのか。


京子も、もう吹奏楽部は引退したのに、応援でも頼まれたのか?



だけど、京子は楽しそうだった。


本人が楽しいなら、良いだろう。



音楽室内では、俺と山下大介を除いても7〜8人ほどの一般生徒が演奏を聴いている。



俺は音楽室の端っこにいる山下大介に近づき、ちょっといいか、と音楽室の外に呼び出した。



山下大介は、あまり嫌そうな顔はしなかった。


先日俺が柔和な対応をしたからだろうか?



「付いてきて」と言い、俺は山下大介を連れて、飼育小屋の方へ向かった。


"奏"を人質にして、山下大介を飼育小屋に閉じ込めてやろうと考えた。


南京錠もある。


今日が終わるまで、飼育小屋で過ごさせよう。



これで推薦がなくなったら・・・山下大介を殺して俺も死ぬか?



なんて冗談がマジで頭によぎった。





先生にチクらないよう山下大介をキッチリ脅すことにしよう。



「どこまで行くの・・・?」山下大介は、俺の様子がおかしいことを察し、震える声でおれに尋ねてきた。



「どこだと思う」俺は抑揚の無い声で山下大介に聞き返した。


その時は玄関で、俺は山下大介に靴を履き替えさせていた。


もう日が傾いていて、不気味な赤い日差しが玄関に差し込み、それによりできた黒い影と共に、赤と黒のコントラストが玄関を染めていた。


夕陽の逆光で真っ黒な俺は、真っ赤に照らされた山下大介を見つめた。


「飼育小屋・・・・」山下大介はポツリと答えた。



なんだ、分かってるんだ。



俺は何も答えずに校舎を出て、飼育小屋の方へ向かった。



山下大介も黙ってついてくる。


なんでこいつは素直に従ってついてくるんだろう。


用件があるならここで言え、くらい言ったら良いのに。


わざわざ校舎の外にまで連れ出されるなんてめちゃくちゃ不気味だろ。


他人から言われたことに、無条件で従っちまうのか?



なら、京子を被写体で絵、描くなよ。






ついに、俺と山下大介は飼育小屋に到着した。



俺は振り返り、山下大介を見た。今度は山下大介が夕陽の逆光になり、ドス黒い闇になってる。


赤い輝きの中で、闇が、少し震えているように見える。


シルエットを見て思う。


山下大介はやっぱり、小さくて細い。




夕陽も沈んでいき、もうすぐ日没だ。



夜になると、文化祭のフィナーレ・イベントとして、体育館で教職員達による演劇が行われる。


それは生徒のほとんどが見に行くメイン・イベントだ。


そしてそのままエンディング・セレモニーとなり、文化祭は終了する。



きっと今ごろ、生徒達は体育館へ大移動しているだろう。



飼育小屋の方になんか、生徒も職員も決して来ない。






ん?


沈みゆく夕陽の赤い輝きの中で黒い影が動いている。山下大介の奥。


その影はこちらに近づいて来て、凄い速度だ。大きい。


京子だ。



ふぅ・・ふぅ・・



京子は少し息が乱れてる。





「京子・・・。」山下大介は京子の方を振り返り、キョトンとしている。




夕陽が沈み、淡い薄紫色が空全体を包んでいる。マジックアワーだ。



「絵、持ってるの?」息を整えて京子が聞いてくる。



「これ?」俺は何かを包んでいそうな布を掲げて聞いた。



「美術室に、無かったけど。盗ったの?」京子は聞いてくる。



美術室にも行ったのか。凄い移動スピードだ。



「美術室に行ってたの?」山下大介が京子に尋ねる。トロくさい山下大介は、状況がよく分かっていない。




「大介がいなくなってたから、美術室の方行ったのかと思って。そしたら、大介の絵、違うじゃん。」





「騒いでた?」俺は京子に尋ねる。あぁ、俺の人生はこんなことで悪い方に転がっていくのか。  


推薦が消えたら、勉強頑張って自力で東高梨でも目指すか。もともと悩んでいた選択肢だ。


「多分、まだ誰も気づいてなかったよ。それ?」京子は俺の掲げた布の塊を見ながら俺に問う。


"奏"がすり替えられていることについて、当番の美術部員や一般生徒からの指摘などは、まだ出てきていなかったようだ。


そして、今ごろは校舎の出し物も終わり、フィナーレ・イベントの時間だ。


全校生徒が体育館に集まる。これから文化祭の後片付けまでに誰かが、展示されている"奏"の異変に気づくことはないだろう。


京子の言い方だと、"奏"がすり替えられていることを誰かに伝えたりもしていなさそうだ。



「こいつのこと、誰にも言ってないの?」一応、尋ねてみた。



「大介が自分で持ち出したのかと思って。描いた場所で、見てるのかなって。啓太がいるとは思わなかった。」京子が答える。



普通は、そう考えるか。俺が盗むなんてありえないもんな。


こんなことをしているなんて、俺は今、どうかしてる。



「それ・・・俺の絵?"かなで"?」山下大介が聞いて来た。山下大介も、俺と京子のやり取りで状況を把握したようだ。


この絵のタイトルは"かなで"と読むのか。"かなで"だろうなとは思っていたが。"そう"じゃーないよなぁ。



俺は2人を睨みつけながら、布の塊を掲げたまま後さずりをし、「なんで、山下、この絵描いたの?描くなっつったじゃん。」と俺は苦々しい口調で投げかけた。



想像はつくよ。どうせ京子が、描かせたんだろ。



山下大介が夏のコンクールの清書に京子の絵を描かなかったら当然、京子にとっては不思議だもんな。


試し描きは京子なのに、清書の被写体が別の美術部員や書道部員だったら、なぜ?って。



俺に京子を描くことを禁止されたって、山下大介が白状したら、きっと京子は、そんなの気にしないで、ってそう言うだろう。



「あたしが描けばいいって言ったの。啓太には、関係ないじゃん。大介にあたしを描いて欲しかったから、無理矢理描かせたの。」




やっぱりそうだ。2人して、俺をコケにしやがって。




「俺のこと、2人でいつも馬鹿にしてた?」俺は2人に聞く。



「してるはずないでしょ。」京子が呆れるようにキッパリとそう言ったとき、確かに思ってしまった。


京子と山下大介が、俺に限らず他人の悪口を言ったり、人を見下したりとか、全くしなさそうだ。


この2人と改めて対面し、京子と言葉を交わすと、俺はずいぶんおかしな感情に蝕まれていたなと思う。



だが、いまさら引き下がれない。



俺の忠告を無視したのは事実で、その程度には俺のことを軽んじている証だ。


見下していることと軽んじていることの違いは曖昧なはずだ。




「俺、田辺くんに京子の絵、描くなって言われたけど、そのこと京子に何も言ってないよ。」山下大介が言う。



ん?



「俺は、京子以外の絵描きたくなかったから、京子を描いてコンクール出したかったから、ごめん。田辺くん。」山下大介は申し訳なさそうにしてる。



ん?



「田辺くんの忠告、京子と2人で無視したんじゃないよ。無視したの、俺だけだよ。ごめん。どうしても京子を描きたかったから。楽しそうに楽器吹いてる時の京子が、魅力的で、その魅力を俺の絵でも表現してみたかったから。」




ほぉ。



「だから、ホントは京子、何も知らないよ。さっきの京子の言葉も、俺を庇うためだよ。」



京子は黙って俯いている。


そっか。




「その絵、凄く、俺にとって大切なんだ。返してくれないか?」山下大介は凄く凄く不安そうにそう言った。その言い方で、この絵が山下大介にとって本当に大切なものなのだと一撃で伝わった。



声色だけでここまで感情を表現できるものなのだなと思った。



この"奏"は、サマーなんたらコンテストで最優秀賞だったらしいが、だからそんなに大切なのか?





もちろん、違うだろうな。








俺は振り返り、空になっている飼育小屋の木の扉を開けて、飼育小屋の奥にずっと手に掲げていた布の塊を投げ込んだ。



「大事なら、取ってこいよ」俺は山下大介にそう言った。



「取りに入ったら、どうするの?」山下大介が聞き返す。



「何もしない笑」俺は笑ってそう答えた。



山下大介と京子からすると、とても不穏に思えるだろう。



「啓太も、推薦あるでしょ。取って来てよ。」

京子が俺を諭そうとする。



「だから、絵、返すって。めっちゃ良い絵だったから、持ち出して描いたっぽい場所まで持って来ちゃった。勝手に持ち出すの悪いし、描いた本人にも同伴してもらった。ヤバかった?」そんなことを、俺は言ってみた。



山下大介と京子は黙っている。


「ホントに良い絵、描いたな。」俺は本心から山下大介にそう言った。



日没からの時間の経過と共に、薄紫色の空も色味が濃くなって来て、一番星が山下大介の頭上に見えた。



「あたしが行く」京子がそう言い出した。


俺も、山下大介も、これには少し驚いた。




「俺が行くよ。何もしないって言ってるし。俺の絵だから。」山下大介が京子を制止する。


そうだ、止めろ。山下大介、京子を止めろ。京子が来ても困る。


山下大介が入ったら南京錠で閉じ込めて、文化祭が終わるまで放置するつもりなのに、京子にそんなことはしたくない。



「あたしの絵。」京子はそういうと、山下大介の制止を振り切って飼育小屋の中に入っていった。


飼育小屋に入る時、京子は扉の横に立つ俺の方を一切、見もしなかった。



あぁ、もう。なんでこうなるの。



俺はヤケクソになっていた。ただ、一つきっちりケジメをつけておきたいことがあったので、それだけは成し遂げる心づもりでいた。



バタン



ガチャ



京子が飼育小屋に入ったのを見て、俺は仕方なく木の扉を閉めて、南京錠で鍵をかけた。



「おい!」山下大介は焦ったように声を荒げた。山下大介が大きな声を出すのを初めて聞いた気がした。


大丈夫だよ。ことが済んだらちゃんと京子は出すよ。俺はお前以上に京子を大切に思っている自信があるんだから。


俺は飼育小屋の正面に回り込み、飼育小屋の中を見た。


京子が、恨めしそうに飼育小屋の中から俺を見ている。



中世の奴隷市場とは、このような感じだったのだろうか?



「ねぇ・・・・」飼育小屋の中から鉄格子越しに京子は、憎々しげに俺へ口を開いた。


「すぐ出すよ。ちょっと待って。」俺は京子を嗜める。


「そうじゃなくて。これ。」京子は怒気の籠った声で、手に持った布切れを俺に示した。


布切れは解かれており、何の変哲もない、ただの布切れ一枚、ただそれだけだ。


「絵は?」刺々しく京子は俺に問う。


俺は背中のシャツの中に手を回し、ズボンとシャツに挟んで背中に張り付けていた"奏"を取り出した。



「絵」そう言いながら、俺は京子と山下大介に見せつけるように、今度こそ"奏"を高々と掲げた。



「返してくれよ・・」山下大介は弱々しく怯えるように俺へ懇願した。



「啓太、どうしたら返してくれるの?」京子は飼育小屋の中からも冷静に交渉してくる。





返さねーよ。





俺は"奏"の上辺に両手を添え、そのまま左右の手を手前と奥にそれぞれ引き離しあうと、当然のごとく"奏"は、哀れ、真っ二つ〜!!




ビリビリビリビリ




俺はその真っ二つになった"奏"を、さらに横向きに重ねてより細かい紙屑へと破り込もうとすると、



「あああああああああ」


ドンっ!!


なんと山下大介が絶叫しながら俺にタックルをかまして来た。




だいすけ!だめ!と、京子が叫んだ声が聞こえた気がした。




「おぅ!?!?」突然のことで俺は面食い、そのまま仰向けに倒れてしまった。


そのまま山下大介は俺に馬乗りになって俺を殴ってきた。



「俺の!!!かなでっ!!」山下大介は喚きながら俺を殴打してくる。



なんだ、ちゃんと怒れるんじゃん。



上等だ。待ってたよ、この時を。破いた甲斐があった、お前の"奏"。




俺は体を揺らし、上に乗る山下大介を振り落とす。



俺の身長は168cmで体重は60弱。


対して山下大介は身長160cm で体重45キロほど。


剣道で鍛えスポーツ推薦も取る俺と、美術部の山下大介じゃ勝負は見えてる。




だから京子は、山下大介が俺へタックルするのを言葉で止めようとしたかのか?



山下大介を振り落とした俺が立ち上がったとき、同様に俺から振り落とされた山下大介も立ち上がろうとしていた。


俺は立ち上がりかけの山下大介に掴みかかり、そのまま押し飛ばし、倒れたところでさらに顔を蹴っ飛ばした。


さらに今度は俺が馬乗りになって山下大介をタコ殴りにする。


チビガリの山下大介が俺にマウントを取られたら、もう返しようがない。



「啓太!もうやめて!」そう言いながら京子はガシャガシャと飼育小屋の鉄格子を鳴らしている。


愛しい京子も、今はまるでお猿さんだ。




俺は山下大介の上から降り、


泣きながら鼻血を出す山下大介を無理矢理立たせ、


飼育小屋の方へ引っ張って行く、山下大介は無抵抗だ。


流す涙は、痛みか、悔しさか。


俺は鉄格子に山下大介を突き飛ばして叩きつけ、お熱いじゃん。と伝えた。


「大介、大丈夫?」鉄格子を挟んで京子がグッタリする山下大介を心配する。


「ごめん・・・・京子・・」山下大介が弱々しく謝る。


何の謝罪か。弱いことか?"奏"を守れなかったことか?



この状況、全部か。



「啓太、もうやめて。ここから出してくれたら、大人しく大介連れて帰るから。先生とかにも、何も言わないし。」京子は弱々しく、しかし真っ直ぐに俺を見て言った。


京子にしては、かなり焦りの色が見える。


脂汗もかいているように見える。


「お願い・・・・啓太・・」京子が俺に懇願する。


京子は必死だったように見えた。



京子でもどうにもならない状況があるんだなと、ようやく思えた。


やっと



やっと



京子をやり込めることが出来た。



京子を檻に閉じ込め、降参宣言だ。



京子を檻に入れるつもりはなかったが、もう、何でも良いか。



長年の愛と鬱憤が少しだけ晴れた気がした。



ふと見ると、破れた2片の"奏"が風にさらわれ宙を待っていた。



「奏、どっかいっちゃうぞ」俺は挑発するように、山下大介に言った。


それを見て、グッタリしていた山下大介は再び立ち上がろうとしたので、俺は胸元を踏みつけて立てないようにした。



「グブッ」俺に踏みつけられカエルのような声を出した後、山下大介はただ、涙を流していた。



弱いってこと、反省しろよ。


俺はお前が絵を描いてる間も体を鍛えていたんだから、"強さ"に対してサボっていたお前を"強さ"で蹂躙する権利があるんだよ。



「啓太・・・・」京子も泣きそうになりながら鉄格子の向こうから訴えてくる。




だけど、なんで、俺よりも、こんな俺に足蹴にされてボロボロのオスを選ぶんだ。京子だって、メスだろ?俺の方が良いはずだ。


そうでなきゃ、おかしいだろ。



「京子、好きだ。山下大介と別れて俺の女になってくれ。」想いを伝えた。もう、むちゃくちゃだ。



「・・・・・・」京子は黙ってる。


もちろんYESなはずがないのだが、今、あからさまに拒絶すると、俺が山下大介に何するか分からないので言葉に詰まっているのだろう。



「こんな状況で、あたしが何を言っても、意味ないでしょ・・・・。」確かに。



NOと言ったら山下大介に俺が八つ当たりしそうだし、YESだったら、なんだそれは?俺と京子がここから恋人になるのか?なれるかよ。




「ホントにな」俺はそう言って、足元で鉄格子に寄りかかるようにグッタリする山下大介の顔を再度蹴飛ばした。


すると、



ガ〜〜ン!!!



「大介!!!!」



山下大介は顔を蹴飛ばされた勢いで後頭部を鉄格子に強打した。


さすがに俺も少しビクッとした。ぶつけた時の鉄格子の音も大きく、心臓がドキドキしている。


まさか、死んでないよな?


「う〜ん・・・」山下大介がうめき声をあげて、無言になった。気絶してる?ホントに、死んでないよな?




よくみると後頭部から、血が流れてる。



「大介?・・・・大介・・?」


京子が顔面蒼白で山下大介に呼びかける。



俺は頭がグシャグシャになった。


マジで殺すつもりはなかった。


絶対に。



"山下大介を殺して、俺も死ぬか"


悪い冗談が頭の中で反芻する。


心の底では、本当は、マジに、無意識のウチに、俺は山下大介を殺すつもりだったのか?



いや、そんなはずはない!



せいぜい今日は、やり過ぎても推薦取り消しで、


そうなったら一般受験で東高梨でも目指そうかと、



殺人て、そんな、そんな





気がつくと、京子が泣きながら俺を見ている。



「もう、許さない・・・」京子が静かに呟いた。


もの凄い悪寒と、恐怖を感じた。



嫌な予感が全身を走る。




幼い頃の記憶が蘇る。忘れていた記憶だ。



今、静かに、表面にこそ出さないものの完全に激昂している京子を見て、それが呼び水のように作用し記憶の底から溢れ出てきた。



それこそ、幼少期は京子も人の子だ。些細なことで怒り泣き喚き散らすこともあった。



京子は何歳の時でも、その当時の年齢にしては破格の怪力と体格を持っていた。



そうだ。幼稚園の時にも年上の年長さんの男の子ををやり過ぎなほど痛めつけていた。


俺も、京子と幼稚園の頃に雪合戦をして、白熱し過ぎてお互い本気の争いになり、無惨なほどボコボコにされた。


その他にも、小さな頃なので、京子も怒ることは時々はあった。


小2の時に歯を折られまくったのは覚えていたが、あの時も、京子がキレているのを感じた時は泣くほど怖かったんだ。俺はその時、恐怖でオシッコを漏らしていた。その感覚が、今俺を包んでいる。


いつだって、決して京子が残虐すぎるわけじゃない。普通の幼な子相応の怒りっぷりだ。


ただ、京子が強すぎて被害が大きくなりがちだったのだ。





涙を溜めながら、真っ直ぐに俺を敵として捉える京子の目を見て、俺は怒れる京子へのトラウマを刺激された。


体が震えて、背筋がゾクゾクする。


股間部がモゾモゾする。動悸が早くなる。




だけど、確かに怖いが、これは過去のトラウマ由来のものだ。



幼少期は男児よりも女児の方が成長も早い。女児が男児をやり込めることも多々あるだろう。


しかし今目の前の現実は互いに成長期を迎え、体格こそ未だ京子が優れているが、体力測定の結果しかり、肉体性能の差はいまや俺の方が優っている。



そもそも、京子は飼育小屋の中なのだ。どうすることもできない。



怒る京子の心配より、山下大介をどうするか?



もう、全て放り出して逃げちまうか?





すると、京子は飼育小屋の鉄格子から離れ、飼育小屋の入り口の方へと向かって行き、



ドガン!


京子は体当たりを木の扉にかました。



当然、女子中学生のタックルなどでは南京錠で閉じられた木の扉は開かない。


しかし、京子はめげずにもう一度体当たりを仕掛ける。


すると、



ドガン!!メキッ



なんと木の扉にひび割れのようなものが入ったではないか。


そして京子は、次は体当たりではなく、扉を蹴破るように力強い蹴りを放った。


ドガァン!!


木の扉は、割れ、バキバキとさらに残った部分を壊し砕きながら京子が飼育小屋の中から出てきた。


俺はその様子を、飼育小屋の鉄格子側から覗いていた。



扉って、頑張れば結構壊せるものなのか・・・・?




外へ出た京子は、俺と山下大介がいる鉄格子側の方へと飼育小屋を回り込み、ついに、俺と怒れる京子は対面した。



心がザワザワする。


「・・・」京子は黙って俺を見つめている。




「大介に、謝って。」京子は絞り出すように声を出した。その言葉は涙声で、京子が口を開いたと同時に京子の目から涙が溢れていた。



対面する京子は、言うまでもなく背が高く、広い肩幅で、凄い威圧感であった。



だけど、どれだけ巨大で、威圧感があり、恐ろしいトラウマを俺に与えていたとしても、



それでも京子は俺の惚れた女だ。


そして幼馴染だ。


一方的に主導は渡したくない。



どっちが強くても、どっちが賢くても、どっちが正しくても。



どんなときでも。



俺は京子にはへーコラしたり、従ったりしない。


幼馴染なんだから。





「もう、死んでる」俺は返答としてそう言いながら、山下大介の右手を強く踏みつけた。



こいつの右手が京子を描いたのかと考えると、踏みにじりたくなった。



ガッ  ボギ


折れたような音がした。


山下大介の指は女子よりか細い。どの指かは分からないが、折れたのかもしれない。






次の瞬間、京子が猛烈な速度で俺に走り寄り、


ドン、と山下大介の手を踏む俺を突き飛ばした。


突き飛ばされて山下大介の遺体から数歩分離れた俺を京子はさらに追撃し、




ドパァン!!!


拳を振りかぶることなく軽いジャブのようなパンチで俺の顔を・・・・殴った・・・?



顔中が痺れてわけが分からない。


口の中の血の味でいっぱいだった。



右頬を殴られたんだと思うが、多分、右の方の歯は軒並み折れてるような?


明らかに、奥歯がない、奥歯があるはずの部分をベロで確かめると歯茎しかなく血と歯茎でヌルヌルする。


あんな、振りかぶりもなく、そのまま軽く突き出したようなパンチで?


頭が混乱している中、京子はこれまた軽く、振りかぶる様子もなく蹴りを放ってきた。振りかぶりもないわりに、蹴りの速度は俺の体が反応できないほど速く、ガードも全然間に合わず・・・・・



べグゥン!!



京子の蹴りは俺の左太ももを打った。


激痛と共に、ボグっと俺の体内の中で音が聞こえ、全く足が動かない。太ももが折れたのか、それとも太ももの関節が衝撃で骨盤から外れたのか。どちらか見当もつかないような痛みと足の不自由が俺を襲う。



顔の痺れと痛み、広がる血の味。明らかに無い、奥歯。激痛とともに動かない片足。俺は混乱しながらよろけていた。


混乱状態で脚が動かないので、もう2秒もあれば俺は転倒するだろうという状況であったが、京子の容赦ない次の追撃が来るまでに、2秒はあまりにも悠長すぎた。


次の京子の一撃は、先ほどと異なり、今度は振りかぶりが見て取れた。小さな振りかぶりではあるもののしっかりと振りかぶりをする京子の姿に、俺を破壊することに対しての明確な意思を感じた。


俺を先ほどよりも大きく破壊する為に、京子は振りかぶりという動作をわざわざ挟んでいるのだ。


その若干の振りかぶりにより、先ほど以上の、おぞましいほどの速さの拳が俺の腹部に差し込まれた。


ドク!!!


息が出来なかった。


吐き気が凄いが、オエエとも声が出せない。


まるで世界が動いているのに俺の体の時間だけが止まったようだった。


痛い、痛い、痛い。ボディーブローはジワジワ効くというが、少し違う。最初から痛いし、痛みが一向に引かない。


なんだこれ、まるで腹に溶岩石が残っているみたいだ。


もしかして、内臓が傷ついているのか?


内臓を痛めた経験はないので、この感覚がそれなのか分からない。



俺は、京子に一切の反撃も出来ていない状態だった。


別に、いまさら京子を殴れないなんてことは言うつもりもなかった。


取っ組み合いの喧嘩も何度もしてきたし、今日も、京子が夕陽を背負いながら飼育小屋のところに現れた時、場合によっては過去のように揉み合い掴み合いになると覚悟していた。



それが、どうしたんだ?この一方的展開は。




腹を殴られ足が動かず顔の痺れた俺は、そのまま前のめりに倒れていきそうになっていた。


しかし、京子はそれさえ許さなかった。


京子は体が崩れていく俺の髪を左手で鷲掴みし、無理矢理支えて、俺の体が崩れるのが一瞬遅くなった隙を逃さずに、



その場でワンステップを入れながら大きく振りかぶった右足の蹴りを、倒れ込んでいく俺の左上半身に叩き込んだ。



ドグジャア!!



振りかぶりが大きいだけあって、こいつは特に強烈だった。


京子の右足は俺の左腕を完全に叩き折り、多分、左の肋骨も砕け、胸骨もやられてるんじゃないだろうか?



腕の骨というのも、二の腕や前腕や肩周りなど何本かあるのだろうけども、どれが折れているのか、どこが無事なのかも分からない。


体がバラバラにされそうだった。



この状態になったとき、意外なことに強烈な痛みというものは感じなかった。もちろん、痛いには痛いのだが、"結構痛い"程度の痛みだ。


おそらく、あまりのダメージが連続で肉体に加えられたので、脳内に興奮物質がでて麻痺しているのだろう。


痛みが鈍いと、体が全く自由に動かないことを冷静に俯瞰でき、俺の体が致命的損傷を受けていることを予感する。



京子に強烈な蹴りを食らった俺はそのまま1メートルほど、本当に宙を舞い飛んだと思う。比喩ではなく。



蹴り飛ばされてようやく転倒することを許された俺は、そのまま転がっていき、京子の蹴りを受けた場所から3〜4mは離れていた。


「ゴボッ、ゴボッ、ベェ」血反吐が出た。これは、咳か?嗚咽か?口から溢れる血は、歯が折れたからか?口の中を切ったからか?内臓を痛めて喉の奥から出てるのか?



ザッ   ザッ  ザッ



うつ向けに転倒している俺の方へ京子が近づいてくる。





体が動かない。特に左半身が、上半身下半身ともに全く動かない。痺れてる。感覚がなく、自分の体じゃないみたいだ。


逃げられない。



京子はうつ伏せで倒れる俺のもとに来て、俺の制服の肩元を掴み俺を引っ張り起こそうとした。


俺も、倒れたままではなすすべがないので、京子に引っ張り起こしてもらいながら、自分でもまだ元気な右手で京子の制服を掴んで立ち上がり、まだ無傷の右足を支えに、ダランとした左足をつっかえ棒にしてなんとか立ち上がり、再び京子の前に立った。右手は京子の制服の裾を掴んだままだ。掴んでいないと倒れてしまう。



顔は、上げれない。正面に相対すると俺の目線は京子の胸辺りだ。京子と目を合わせるには、俺が顔を上げるしかない。



だが、俺は顔を上げれなかった。



上げたくなかった。



理由は分からない。京子の顔が見れない。見たくない。


俺の今の顔を見せたくない。



あっという間にボコボコにされた俺は、ここから、京子の正面に立たされたこの状態からどうすればいい?




許してくれって、許しを乞うのか?例えば、敬語で?


許してください。やめてください。やめて〜って泣きながら。


ダメなんだよ、それじゃ。


もう、俺も15歳だ。身長の伸び方的に、成長期はほぼ終わっている。


もうお互いの力関係は一生ここから変わらないんだ。いや、なんなら京子の方がまだ成長する可能性すらある。




格の違いは認めない。



俺たちは対等だ。



幼馴染なんだから。




俺は京子の裾を掴んだまま、ぼやける脳みそを精一杯動かし自分を奮い立たせる。



ホヒュッ、ホヒュッ、ホヒュッ


普通に呼吸が出来ない。しゃっくりみたいなのが出てくるし、息を吸っても吸ってもあんま空気が体に入ってくる感じがしない。


肺が破れてるのか?その経験ももちろんないから、分からない。




京子は何もしてこない。俺を立たせて、もう4〜5秒は経つ。


この状態で、4〜5秒はかなり長く感じた。



俺からの謝罪や、懇願を待っているのか?



それとも、もう決着が着いたとでも思ってるのか?



このくらいで、勘弁してやるってか?



舐めんなよ。



俺は京子の裾を掴んでいた右手を離し、そのまま右手で、倒れ込むように思いっきり手加減なしで京子のミゾオチ辺りを殴った。



この歳になってもまだ京子に本気で手をあげることになるとは。



最後の本気の喧嘩は、そうか、それこそ中1の時のヒノモモ祭りの、将棋の時か。公民館の倉庫で。


京子のミゾオチをに一発入れたものの、京子はほとんど動じなかった。


俺なりにガッツリキツめのを入れたつもりだったが、手答えも微妙だ。


長身の京子は見た目以上に、脂肪と筋肉の厚みがボディに備わっているのかもしれない。



京子からはうんともすんとも聞こえない。



効いていないのか?



すると、パンチした勢いで倒れ込む俺の胸ぐらを京子は掴み、再び引き起こし、



バチン!!!


強烈なビンタを俺の左頬、というか左側頭部に叩き込んできた。


京子の手は大きく、そのビンタは俺の頬から側頭部全面を覆うようなものだった。


このビンタも痛烈だった。



おそらく、鼓膜が破れたのだろう。バリッて音がしてキンキン頭が鳴る。


ただ、歯は折れていない。



バチン!!!!



もう一発、左側頭部に同様にビンタが来た。



これにはさすがに、左の歯がぐらついた気がした。口の中も切ったのか、それとも既に歯が抜けたのか、また血の味がしてきた。



左目の瞼が腫れている感じがする。なんとなく、見えにくいような。っていうか、目の前がチカチカする。



意識が飛びそうだった。




そして、2度俺を叩いた京子の右手が、また微かに動いた。



3発目のビンタが来る。



そこで俺は思わず


「や、やめれ・・・・」言ってしまった。


あまりの恐怖で。


もう1発ビンタを貰ったら死んでしまう気がした。




その瞬間、ピクッと京子の体が反応し、もう1発ビンタをするかのようにあげていた右手をゆっくりと下ろし始めた。




間違いなく俺が、やめれ、と言ったからだ。




思わず言ってしまったからだ。



ダメだ。



俺が"やめれ"と言ったことによって、京子が俺への攻撃を終わらせてしまったら、俺が降伏したことになってしまう。



命乞いしたことに、許しを乞うたことになってしまう。



圧倒的な暴力で、腕力差で、2人の上下関係は決定的になってしまう。





そんな歴史が俺と京子の間に出来てしまったら、もう二度と幼馴染には戻れない。



ダメなんだ。急げ、まだ間に合う。



怖いが、怖いが、



京子が幼馴染じゃなくなってしまうくらいなら、死んだ方がマシだ。




「・・ざ、ざ、ざけんなよ・・・殴りやがって・・やめろ・・・ぶっ殺してやる・・・・!」



"やめれ"は"やめて"じゃない。そんな赦し乞いみたいな言葉じゃなくて、"やめろ"だ。


歯が折れまくって、呂律も回りにくくて、顎の感覚もおかしくて、聞き取り辛かったかもしれないが、"やめて"じゃなく"やめろ"と言ったんだ。


対等な喧嘩相手への宣戦布告、挑発さ。



京子が俺が殺すんじゃない。俺が京子をぶっ殺してやるってんだ。





宣戦布告を唱えると同時に、俺はろくに上も見ずヤマカンで京子の顔らへんに、まだ動く右拳を懸命に振るった。




ガヅッ



思ったよりしっかり当たった。思わず視線を上げて京子の顔の方をチラリと見ると、多分顎辺りに当たったようだ。しかめ面で京子は顔をのけぞらせている。




へへっ、流石に顔面だと、効いてるみたいだな。


俺がこんなにボロボロなのに京子が無傷じゃ、対等の喧嘩じゃないみたいだもんな。



次の瞬間、



べゴォ!!!



京子の膝蹴りが俺の無傷だった右足の太ももに決まっていた。



痛い、とか、立っていられない、という考えが出る前に、



京子のきっちり振りかぶったストレートパンチが俺の顔面を真芯でとらようとしていた。



良かった。京子のパンチが速くて。


もう少し、京子のパンチが俺の顔に届くのが遅かったら、


恐ろしくて、



また、謝ってしまっていたかもしれない。




グッパァン!!




顔面への一撃は俺の中で今日一番の大音量で鳴り響いた。



人間は脳で音を聞いているのだなと改めて実感した。


脳の近くの衝撃ほど、音が大きく聞こえる気がした。



俺の意識は京子のパンチで吹き飛ばされた。







意識を失っていた。目が覚めた。



気がつくと、仰向けで、ここは、、、



まだ、飼育小屋の横。



体が全く動かない。他人事のような痛みがジンジン、全身からする。顔もスースーする。どうなってんだ。右目が見えない。



ヒュ  ヒュ  ヒュ


呼吸も、まともに出来ない。深呼吸が出来ない。




ザリ・・・・



砂を踏むような音に人の気配を感じ、見えにくい左目で、なんとか視線だけ向けて音の方を見ると、


京子だ。俯き、俺を見ている。俺を覗き込む京子の顔は、影になって暗く、また、俺は右目が見えず左目もボヤけ、どんな表情をしているか全く認識できない。



だが、俺の意識が飛んでいた時間は5〜6秒か、7〜8秒か、とにかく、10秒もなさそうだ。



同じ風景だ。変わらぬ状況だ。




京子は俺を見下ろしている。


どうするんだ。



俺がどうするか、京子がどうするか。





見下ろされたまま、数秒が経過した。



ベロで自分の口の中を探ってみると、歯がほとんどない。2本・・・・3本・・・4本・・・?4本だろうか?そう思いながらベロで自分の歯を数えていると、4本目の歯がグラグラしてる。


少し強めにベロでその歯を押してみると、ペクッと抜けてしまった。



俺の歯はもちろん全てもうすでに永久歯だった。


折れた歯はもう戻ってこない。今日から生涯、総入れ歯だ。





体の方も全身ズタボロだ。場合によっては、車に撥ねられたよりもひどい状態かもしれない。



どれほど自分の体がダメージを受けているか、正確には分からないが、



間違いなく左腕と両足の骨が折れてる。


折れているというか、砕けてる。



これ、治るのか?


治るにしても、剣道を以前のようにすることはできるのか?



成長期の骨折は治りが早い一方で、骨折箇所とそうでない箇所の骨の長さに差が出て、体のバランスが歪になるとも聞く。


今、俺の体は何箇所折れてるか分からないが、骨折の位置も程度も不規則で、治った時にはガタガタの体になってしまわないだろうか?



骨だけじゃない、筋肉や腱とかも傷ついているかもしれない。



息もしにくいし、腹部もずっと違和感がある。何か、塊を詰め込まれてるような。石がお腹の中に入ってるみたいな。


これって、内臓が潰れてる感覚じゃないのか?


内臓が破壊され、もはやその潰れた内臓が俺の体にとって異物として認識されてる的な。



あと、なんで右目は何も見えないんだ?


俺はまだ無事である右手で、右目を触ってみた。


しかし、触れなかった。


右目がなかったからだ。


いや、分からない。今触っているこれが右目なのか?右手が触れる、硬くもありながらプニュプニュしてるようなこれが、俺の右目?


触れた感覚が、俺の知ってる目の触り心地とあまりに乖離しているのでなんだかよく分からない。


腫れた瞼を触っていると言われたら、そんな気もする。瞼が腫れすぎて、右目が塞がって見えないだけかも。


よく分からない。とにかく、顔全体がスースーと涼しい。




そのまま右手を滑らせ、鼻の方も触ってみた。



鼻があるはずの場所が、やけに平らな気がした。



それと、ヌルヌルする。どうせ血だろうけど、もしかして鼻水か?


ヌルヌルに触れた右手を見ると赤く、やっぱりこのヌルヌルは血だったのかもしれない


が、この血はさっき右手で右目ら辺を撫でた時に付いたのかもしれない。


となると、俺の鼻付近でヌルヌルしているものが血か鼻水か、やっぱり分からない。


どっちでもいいけど。




長い沈黙の中、今も京子は俺を見下ろし続けている。



俺が意識を取り戻してから、かれこれ20秒は経過したと思う。




意識を失っていた時間も合わせると、30秒は倒れっぱなしだ。






30秒間も倒れっぱなしなら、もう勝負は着いたようなものだが、幸い俺と京子はルールを事前に決めていたわけじゃない。



取っ組み合いの喧嘩にルールはない。



全ては気持ちの問題か、どっちかが死ぬかだ。






自分の顔をペタペタ触った感じ、俺の顔はずいぶんと豪快な整形を受けたようだ。


俺の知る自分の顔の触り心地と違いすぎる。



今も俺を見下ろしている京子は、自分のグシャグシャになってしまった顔を確かめるように右手で撫で回す俺を、どう見ているのだろう。



幼馴染の顔を、原型留めぬほどに変形させたことに、京子は何を思うのか?



相変わらず、京子の顔は暗い陰になっていて表情は分からない。




すると、雨が降ってきた。




ポタポタと、俺の顔に雫が2滴。




文化祭の日は晴れだと天気予報が言っていたのに。




さっきも綺麗な夕焼けだったのに、ずいぶん急な通り雨だなと思ったが、



結局、雨はその2滴だけでそれ以上、特に雨音もしなかった。




ひょっとすると、京子が涙を零したのかもしれない。




「げぇば・・・」ここに来て京子が、何かを呟いた気がした。



いや、確かに呟いた。



凄く小さな声で、蚊のまつ毛が落ちたような音量だったが確かに京子は呟いた。



そしてその言葉は、ひどくノイズがかかっていた。歪んだ、割れたような音で"げぇば"としか聞こえないほどであったが、俺には何を言ったか分かる。



京子の発声を聞いて、俺は自分の鼓膜が破れてることを思い出した。



砂を踏む音や雨音のような、無機質で意味をなさない音を拾うだけなら機能するが、発音で意味をなす、いわゆる"ランゲージ"のようなものは、今の俺にはちょっと厳しそうだ。



それでも、例えどんなに小声だったとしても、例え俺の耳の鼓膜が破れていたとしても、"げぇば"は分かる。



絶対に聞き逃さない。



俺の幼馴染が、俺の名前を呼ぶ声ならば。







俺の体の損傷が、仮に治るとしても、剣道を元通りにできるようになるまでリハビリなんかもいるだろう。



もしかしたら、もう竹刀は握れなかったり。左半身の感覚がない。



歯は永遠に戻らない。確定だ。



目も、特に右目、まさか失明してないだろうな?運良く治るにしても、もとより視力が下がったりして。



体を歪めて、内蔵痛めて、顔も変わって、剣道をできない体になって、歯も失って、



間違いなく今日が俺の、人生のターニングポイントだ。



もう取り返しはつかない。


京子の筋肉で、その圧倒的で暴力的な筋力で俺の人生はグニャグニャに歪められた。









もういいか、もう、分かった。



俺と京子が、幼馴染なのが間違いだった。



京子の両親も、自分達の優秀な遺伝子を地方の公立小学校、公立中学校なんかで育てるなよ。



たまたまその優秀な嗣子と幼馴染になった凡夫な人間は、無理に自分を追い込んじゃうよ。



幼馴染らしく、対等であろうとして。




京子も、俺なんかを自分と対等であるかのように扱うなよ。



ついてけねーって。つきあってらんねーよ。





もっと俺を分かりやすく見下して、もともと違う世界の人間だってこと、早いうちから教えておいてくれよ。



勘違いしちゃうだろ。



俺と京子が対等だなんて。






もう、京子は俺を原型留めないほど破壊して、俺はそれになす術なく一方的に蹂躙され、どうせ元の関係には戻れないんだ。






謝ろう。詫びて、命乞いをしよう。



京子様に、許しを乞おう。



「ごめんなひゃい・・・・許してくだひゃあ・・・」ついに俺は、降伏の意思を京子に示した。顎が思うように動かない。無理に動かそうとすると激痛が走る。




「・・・・」京子は無言で、相変わらず俺を見下ろしている。




ダメか?京子は初めに"もう、許さない"と言っていた。許されないのかもしれない。



「もう・・・・殴らないでくらふぁい・・・死んでしまいまひゅ・・・・」俺は懸命に命乞いをする。歯もないし、まともに喋れない。口を開くたびに血のせいか・・・涎か胃液か、分かんないけどネチョネチョと音が鳴る。




「きょ、きょうこしゃま・・・もう・・・ゆるひて・・・」しゃべっていると、肺あたりまでなんだか張り詰めてくるように苦しい。どうなってるんだ?俺の体の。





「こひゅ・・・・こひゅ・・・」苦しい。息が出来ない。無理にしゃべって、肺の穴でも広げたか?そういうことってあるのか?




すると、ずっと立ち尽くしていた京子の巨体が突然崩れ落ち、

 


俺の横で膝立ちになり、さらに俺の胸あたりに京子の顔と腕を埋めて、泣き始めた。



うぅ・・・ヒック・・・グスッ・・・


仰向けで倒れる俺の胸元で京子が泣いている。京子の体温と涙で胸元が暖かい。



まるで、俺の臨終の場のようだ。



ようだ、というか、救急車を呼んでくれないと本当に死んでしまう気がする。息がさっきからし難い。上手く空気を吸い込めない。


意識も、ユラユラぐらぐらと、して、なんだか、眠い・・・・



秋の日没後、なのに、世界が・・・陽炎みたいだ・・・




死ぬ・・・・




死ぬ・・・?





死ぬ前に、ひとつだけ、



あれ言わなくちゃ。


京子に辛い思い、させちゃったし。




「き、きょうこしゃま・・・ガベェッ・・・ゴブ」頑張って喋ろうとしたら、喉もとから胃液みたいなのが逆流してきた。



必死に喋ろうとする俺の様子に、俺の胸元で泣いていた京子が顔を上げる。



京子の顔はくちゃくちゃの泣き顔で、俺と京子はもう対等な幼馴染ではなかったけれど、それでも、



京子の顔は以前と同様に愛くるしかった。



「げぇば、ぼぼびびばば、ぼぼ」けいた、もういいから、もう、か。なんだ、京子の言葉に限ってなら、聞き取れなくても聞き取れる。



幼馴染だったもんな。






それでも、これだけは伝えないと。



幼馴染として、最後のやり取りだったから。



最後の頼みだったから。



「やまひた、だ、だいひゅけしゃま、も、も、もうひ・・・ご、め・・・めん」申し訳ございませんでした、なんて長すぎて言う力がなかったら、ごめんの3文字だけで精一杯だった。





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