第五話
「なっ、なんですかアレ!?」
「アレは、青毛熊です」
「逃げましょう!? あんなの勝てませんよ!?」
「おーほっほっほ! ゴブリンなんて準備運動にもならず困っていたところでしたわ!」
「ええっ!? アレと戦うんですか、お嬢様!?」
「もちろんですわ! 私は『王国の守護神』の血脈! アレナ・マリーノ侯爵令嬢ですのよ!」
ゴブリンを追ってきたのか、血の匂いに誘われたのか。
森から出てきた青毛熊は興奮して戦意に満ち満ちている。
だが、アレナは引かない。
主人を信頼しているのだろう、ベルタは無表情のまま手綱を握り、ダリアは顔を青ざめさせた。
「ゴアアアアアッ!」
大地を揺らす咆哮とともに、青毛熊が四足で駆ける。
獲物はとうぜん、馬車の前に立ちはだかるアレナだ。
立ち上がった状態から前足をつけたとはいえ、その体高は女性にしては背が高いアレナよりまだ高い。
馬車の中にいる侍女見習いのダリアは、思わずひっと小さな悲鳴を漏らす。
だが、御者席のベルタも、それどころか馬車に繋がれた二頭の馬も、静かにアレナを見守っていた。
「モンスター風情が! 誰に逆らったか思い知るといいですわぁー!」
突っ込んでくる青毛熊を前に、アレナの姿が消えた。
直後、ドムッと音がして青毛熊の巨体が宙に浮く。
一瞬のうちに懐に潜り込んでアッパーカットをかましたのだ。
アレナは止まらない。
浮かせた青毛熊の上体を蹴ってさらに押し上げる。
足場を失ってわずかに手足を動かすことしかできない体に、左右の蹴りを打ち込む。
メキャッと響く音はあばらが折れたのだろう。
青毛熊が力なく落ちてきたところで。
落下してきた青毛熊の自重を利用して、アレナは右の拳を心臓部に突きさした。
ゴバッと血を吐いて白目を剥く青毛熊を、ぺいっと横に退ける。
ズシンッと音を立てて、青毛熊の巨体が地に墜ちた。
動く様子はない。
目撃されれば騎士団が出動して高位冒険者に招集がかかるはずの強大なモンスター、青毛熊を瞬殺である。
「ふう。なかなかでしたわね!」
侯爵令嬢・アレナは、いい汗かいた!とばかりに額を拭って満面の笑みだ。
「えええええええっ!? お嬢様強すぎませんか!?」
「ふふん! 王妃は王を守る最後の盾ですもの、王子の元婚約者たるもの、これぐらい当然ですわ!」
「さすがです、お嬢様」
「なるほどそうなんですね、ってそんなわけないです! いまの王妃さまは華奢で小柄でとても戦えるようには見えませんよ!?」
ふんす、っと胸を張るアレナをジト目で見つめるダリア。
ベルタはさっと御者席から下りて、アレナの汗を拭いている。
モンスター相手に素手で戦ったのに、アレナの手も足も汚れた様子はない。
「そ、それに、ゴブリンはともかく、青毛熊を素手で倒すなんて……」
「王子の婚約者ともなれば、武器の携帯が認められない場所に赴くこともありますわ。最後の盾として、格闘術を鍛えるのは当たり前ですわね!」
「その通りです。お嬢様は聡明ですね」
「ええええええ……? そんなはずないですぅ……あとベルタ先輩、お嬢様を崇拝しすぎじゃないですかね…………?」
「さて。せっかくの獲物ですもの、青毛熊は持っていけば売れますわね?」
「もちろんです、お嬢様。お願いできますか?」
「かまわなくってよ!」
青毛熊は毛皮はもちろん、牙と爪は武器の素材に、血と内臓は薬に、肉は食用になる。
持ち帰れば大金だが、冒険者は一部を除いて諦めることが多い。
なにしろ3メートル超の巨体だ、体重は1トン前後だろう。
たとえ荷車や馬車があっても、丸ごと持ち帰るのは至難の技だ。
だが。
「ふんぬっ! ですの!」
お嬢様らしからぬ声を出すと、アレナは青毛熊の巨体を持ち上げた。
「どっせい! ですわ!」
そして、ていっとばかりに箱馬車の上部に載せる。
馬車は軽くきしんだものの、問題なく1トン前後の重量を支えた。
なにしろこの馬車は『異世界転生日記』の情報を活かして造られた、マリーノ家特製の馬車なので。
「……いま、わたしは何を見たんでしょうか。これは夢、そうよダリア、お嬢様があんなに強くてこんなに力持ちだなんて」
「お嬢様は『マリーノ流魔力増強術』で鍛えた莫大な魔力を使って、ふたつの魔法を極めました」
「ベ、ベルタ先輩?」
「ひとつは『身体強化』です。格闘術で、武器の携帯を許されない場所であのクソ王子を守るために」
「それでこんなに力があるんですね!……あの、ベルタ先輩? 王族にその言い方はマズいような」
ゴブリンの胸を切り開いて魔石を取り出しながらベルタが語る。
ダリアも、慣れない手付きでゴブリンを処理している。
青毛熊は持ち帰るが、はした金にもならないゴブリンは魔石を取って埋めるか燃やすのが基本だ。
作業しつつ雑談する侍女と侍女見習いをよそに、アレナはキョロキョロと森を見まわしていた。
何かを見つけたのか、最初のゴブリンたちが囲んでいた藪に近づく。
そして。
「まあっ! 大変ですわ、ベルタ! ダリア!」
「どうなさいましたか、お嬢様?」
近づく二人を待たずに、アレナがガサゴソと藪に分け入る。
屈んで立ち上がる。
「この子、傷ついていますの!」
アレナの腕の中には、ぐったりして呼吸もか細い、一匹の子狼が抱かれていた。
ゴブリンに襲われたのか、小さな足とお腹から血を流している。
「お嬢様。それから魔力を感じます。幼くともモンスターです」
「じゃ、じゃあ殺しちゃうんですか!?」
「どうなさいますか、お嬢様」
「そうですわねえ……あら」
胸に抱いた小さなぬくもり。
放っておけばすぐに命を落とすだろう子狼が、ぺろっとアレナの手を舐めた。
死の間際に、母狼の夢でも見ていたのか。
そのわずかな動きで、子狼の運命が決まった。
「ダリア! 回復魔法を頼みますわ!」
「わかりました! けど、わたしの魔法でこの子が回復するかどうか……」
「『マリーノ流魔力増強術』は続けていますわね?」
「あっはい、教わってからは毎晩……」
「では充分ですわ。全力でこの子に回復魔法を! 助けられるのはダリアだけですのよ?」
「は、はいっ! がんばります!」
「ベルタ。周囲を探りなさい。この子の親が隠れているかもしれませんわ」
「かしこまりました、お嬢様」
「それでも見つからないようなら、次の街まで急ぎますわよ。野外ではできることも限られていますもの」
ロンバルド王国では魔力がないものを獣、魔力を持つものをモンスターと分類している。
人に害をなすため、モンスターは見つけ次第討伐されるのが一般的だ。
だが一部には、従属させて相棒とする冒険者や、観賞用に飼育する貴族もいる。
アレナはどちらのつもりなのか。
けっきょく、近くに子狼の親の姿はなかった。
青毛熊の爪にオオカミ系モンスターの血がついていたことから、アレナたちは「親は青毛熊にやられたのだろう」と推測してその場をあとにする。
馬車の中で、ダリアの回復魔法を受けて傷が癒えた子狼を、アレナはずっと抱えていた。