第四話
アレナが王都を出てから三日が過ぎた。
二頭立ての箱馬車は、王家の直轄領を出てトスカノ子爵領に入った。
御者は侍女のベルタが務め、侯爵令嬢のアレナと侍女見習いのダリアは窓から外を眺めている。
「道が荒れはじめたのに、侯爵家の馬車ってぜんぜん揺れないんですね! すごいです!」
「ふふっ、すべては『異世界転生日記』を書かれた初代さまの功績ですわ!」
「すごい人だったんですね!」
「ええ! 『マリーノ流魔力増強術』も初代さまの発案ですのよ? ダリアもやっているでしょう?」
「アレもですか!? アレ、キツいのに効果がわからなくて……」
「『きんとれ』も『だいえっと』も『マリーノ流魔力増強術』も、すぐに結果が出るものではありません。けれど、積み重ねていくことで大きな違いを生むのですわ! だいえっとはもうこりごりですけれども……」
王都近郊の直轄領は、交通量が多いこともあって道はきっちり整備されている。
馬車が二台すれ違える幅を保ち、道の脇には排水路が作られ、道の左右は切り開かれて見通しがよかった。
だが、ロンバルド王国内のすべての道がそうして整備されているわけではない。
「お嬢様、間もなく森に入ります」
「わかりましたわ。気をつけなさい、ベルタ。ダリアも気を抜かないように」
「はっ」
「えっと、何に気をつけるんでしょうか?」
「この先の道は左右に森が広がっていますわ。そうすると見通しが悪く……モンスターに盗賊、襲撃には絶好の場所ですわね!」
「ええっ!? じゃ、じゃあもっと気をつけた方がいいんじゃ!? わ、私も外で見張りますね!」
「必要ありませんわ……って聞いてませんわね」
ダリアは、小さな窓に体をこじいれて御者席に出ようとしている。
一部が詰まって進めなくなっていたものの、ベルタに引っ張られたのかすぽっと抜けた。
冷静に馬車を進めるベルタに並んで、ダリアはきょろきょろと周囲を見まわしている。
話し相手のいなくなったアレナは、腕を組んで目を閉じていた。
見通しの悪い森の中を進むこと一時間ほど。
アレナが目を開く。
同時に、御者席のベルタが声をかけてくる。
「お嬢様」
「気付いていますわ。見えますの?」
「はい。街道脇にゴブリンが四匹。どうなさいますか?」
「そうですわねえ……」
「わっ! ほんとだ、ゴブリンです! まだこっちに気付いてないみたいだし、このまま逃げますよね?」
「いいえ、ダリア。他領とはいえ、民に被害をもたらすかもしれませんもの。とうぜん倒していきますわ!」
「ええっ!? じゃ、じゃあ馬車で轢いてやりましょう! ね、ベルタ先輩?」
「ベルタ、馬車を止めなさい」
「かしこまりました、お嬢様」
「えええええっ!? わ、わかりました、このダリア、私と弟を拾ってくださった恩を忘れたことはありません! 差し違えてでも仕留めますので、弟のことは」
「静かになさい。ダリアには戦わせませんわ」
「は、はいっ、すみませんお嬢様!……えっ。じゃあ誰が? ベルタ先輩?」
「お嬢様は『静かになさい』と言っています」
「あっはい。言われましたね……」
二頭立ての箱馬車がゆっくり止まると、アレナがさっと馬車から下りた。
動きやすいズボンとブーツ、シャツ姿で武器は手にしていない。
スタスタ歩いて御者席の横を越え、鼻を擦り付ける馬を撫でてさらに前に進む。
土の道の先、街道横の森に四匹のゴブリンが見える。
身長は120センチほど、緑色の肌でゲギャゲギャわめきながら藪の中をあさっていて、アレナどころか馬車に気づいた様子もない。
「私を前によそ見するとは、いい度胸ですわぁ!」
ふんすっと胸を張ったアレナが大声を出すと、ゴブリンはようやく一行に気づく。
またゲギャグギャ言いながらアレナを指差して、エサが一人で向かってきた、とばかりに嘲笑う。
冒険者や騎士、兵士にとってゴブリンは弱い。
特に、ダンジョン探索で鍛えた者の多いロンバルド王国では雑魚の代名詞だ。
戦う力のない村人でも大勢で囲めば倒せるし、貴族の護衛ともなれば多対一でもたやすく退けるだろう。
だが、ここには女性が三人ばかりで、護衛も騎士も兵士も冒険者もいない。
ゴブリンが「エサ発見!」と興奮するのも当然だ。
アレナを前にして、四匹のゴブリンが駆け出した。
そこには知性も理性も感じられない。
人を害そうとするモンスターの迫力に、侍女見習いのダリアがひっと息を呑む。
ベルタは無表情のままで————アレナは、にんまりと笑った。
「危ないです、お嬢様! ううっ、やっぱりわたしが……ええっ!?」
ぽかーんと大口を開けて固まるダリアの視線の先で。
アレナが、襲ってきたゴブリンを殴り飛ばした。
「ゲギョッ!?」
「マリーノ家に楯突いたその愚かさ! 身をもって知るといいですわぁ!」
「グギャッ!」
アレナ・マリーノ侯爵令嬢がゴブリンの頭を拳で殴ると、ゴブリンの後頭部に衝撃が抜ける。モザイク間違いなしの中身がぴしゃーっと飛び散る。
アレナ・マリーノ侯爵令嬢がゴブリンの腹をまわし蹴りすると、ゴブリンはおかしな方向に体を折って飛んでいく。森の木に衝突してぺちょっと崩れ落ちる。
「え、ええ……? お嬢様って強いんですね……?」
「当然です。マリーノ家の当主は、代々『魔卿』『王国の守護神』などと呼ばれてきました。お嬢様はその家の令嬢なのですよ? 当たり前、いえ、ゴブリン程度は朝飯前です」
「は、はあ……」
三匹目のゴブリンは、足払いで転ばされて喉を踏まれて絶命した。
あっという間に仲間が殺られたのを見て四匹目のゴブリンが慌てて逃げ出す。
「一匹でも逃せば力ない民が傷つくかもしれませんもの! この私が逃すわけありませんわぁー!」
だだっと踏み込んで、アレナが空を飛んだ。
超長距離の飛び蹴りである。
延髄を狙うあたり殺意が高い。
よろけて倒れて踏み砕かれて、四匹目のゴブリンもあっさり倒された。
圧勝である。
「すごい、すごいですお嬢様! 素手でゴブリンを倒しちゃうなんて!」
「ふふんっ、これぐらい当然ですわ! それよりダリア、邪魔ですわ!」
「ひえっ! す、すみませんお嬢様!」
「ダリア。お嬢様は『まだ終わっていません。戦う力のない者は早く隠れなさい』と言っています」
「終わってない? あれそれに、わたしに隠れてって、ベルタ先輩は?」
きょとんとしたダリアの首根っこを掴んで、ベルタが御者席うしろの窓から馬車の中に押し込む。
わたわた慌てながら中に入ったダリアは、気を取り直して窓から馬車の外を見る。
馬車を守るように背を向けたアレナの視線の先で、森が揺れた。
ガサガサと葉を揺らして巨大な体が現れる。
「なっ、なんですかアレ!?」
前足で低木をかきわけて、後ろ足で立ち上がった体は3メートルほど。
群青色の毛並みは刃物さえ弾くほど硬そうだ。
毛皮の内側に筋肉をまとった堂々たる体躯。
ゴブリンなど、鋭い爪か牙で一撃だろう。
ゴブリンを追うように、森から現れたのは——
「アレは、青毛熊です」
——強者の多いロンバルド王国でも、目撃されれば騎士団が出動して高位冒険者に招集がかかるモンスター。
青毛熊だった。