第一話
ロンバルド王国の王都。
「魔法と芸術の国」らしい華美な王宮から出てきたのは一台の馬車だ。
王宮を出た二頭立ての四輪馬車は、迷うことなく貴族街を進んでいく。
王宮ではいまだ卒業パーティが続いているため、貴族街は静寂に包まれていた。
「お嬢様、お屋敷に戻りますか? それとも殺ってきましょうか?」
「あら、ベルタ。あの騒動を聞いていたんですの?」
「はい。お嬢様にあのようなことを言い放つとは……お嬢様にふさわしくない婚約者だと思っていましたが……!」
「ふふ、ベルタ。貴族も、貴族の従者も、感情を見せてはいけませんわよ?」
「……はっ」
馬車の中には二人の女性がいた。
一人はアレナ・マリーノ。
先ほど、婚約者だった第一王子より婚約破棄と国外追放を言い渡された侯爵令嬢である。
貴族のプライドか、あんなことがあったのにアレナは微笑みを浮かべている。
もう一人はアレナの侍女であるベルタ。
無表情ながらも、主を傷つけられて怒っているようだ。発言が物騒である。
「あの、ベルタ先輩、お嬢様。それで、どこに行けば……」
小さな窓でつながった御者席から、ベルタより簡素なメイド服を着た少女が声をかけてくる。
御者をしている侍女見習いのダリア・ダポルトだ。
戸惑った声なのは慣れない御者役のせいか。
本来、侯爵令嬢ともなれば、馬車を動かすのは専門の御者だ。
だが、予定から外れて退出したため、アレナは御者を待たず、別室で控えていた侍女と侍女見習いの二人を連れて王宮を出た。
いちおう、二人とも馬車を走らせられるので。
「私、このまま王都を出ますわ!」
「えっ。このまま、ですか!? お屋敷にも寄らずに!?」
「ダリア、疑問を抱かず言われた通りにしなさい。お嬢様の考えに間違いはありません」
「うえっ!? は、はい、わかりました……」
「ベルタはこの顛末を屋敷に知らせてくださる? それと、用意していた荷物を持ってくるように」
「はっ。このような事態を予想して準備しているとは、さすがですお嬢様」
「ちょっと待っててくださいベルタ先輩、馬車を止めますね」
「必要ありません」
言うが早いか、ベルタは後部のドアを開けてさっと飛び出した。
走る馬車から。
メイド服のロングスカートをはためかせて。
石畳なのに無音で着地して、何事もなかったかのように走っていく。
「えええええええ!? じ、侍女ってあんなこともできないといけないのかな」
「ダリア、気にせず馬車を走らせてくださる? このまま西門から出ますわ!」
「は、はい、お嬢様。けどベルタ先輩を待たなくていいんですか?」
「ベルタならいずれ追いついてきますわ」
「はあ……」
首を傾げながらも、ダリアは主人であるアレナの言う通り馬車を進める。
ダリアが侍女、それもアレナ付きの侍女見習いとなってからまだ数ヶ月。
「指示に疑問を抱いても、主人の言うことを聞く」ぐらいはできる。
なにしろこの数ヶ月、そんなことばっかりだったので。
箱馬車の中で一人になったアレナは、立ち上がって座面を持ち上げた。
ごそごそとしまって——隠して——おいた荷物をあさる。
「くふふっ。まさか本当に、『卒業パーティで王子が婚約破棄する』だなんて」
布の袋を向かいのイスの上に置いて、アレナはパーティドレスを脱ぎ出した。
通常、貴族のドレスは一人で脱げるものではない。
けれど、マリーノ侯爵家お抱えドレス職人が作るそれは違った。
サイドに隠されたファスナーをおろし、袖を抜いてドレスからストンと脱出する。
コルセットのホックを順に外して解放される。
最後に、アレナはぽいっとハイヒールを脱ぎ捨てた。
続けて、袋から取り出した服に袖を通していく。
手慣れた様子で着替えを済ますと、「パーティに出席していた貴族令嬢」はあっという間に姿を消した。
黒いズボンに編み上げのハーフブーツ。
上は白いシャツで、体の前面、前立てあたりにはひらひらと飾り布がついている。
バサッとフロックコートをまとえば、まるで男装したかのようだ。
もっとも、ハーフアップにした髪や横に垂らしたくるくるヘアはそのままで、アクセサリーを外したぐらいだが。
着替えを終えたアレナは、座面を戻したイスにストンと腰を下ろす。
取り出したもう一つの荷物を手に取って眺め、ニヤニヤしている。
「注意書きの通りのことが起きるなんて……さすが、我が家の初代さまが記した『異世界転生日記』ですわ!」
喜びを隠しきれないアレナはついに、手にした本を高々と掲げた。
黒い革の表紙には、金の箔押しで『異世界転生日記〜抄本〜』と書かれている。
この国——どころか、この世界には存在しないはずの文字で。
日本語で。
マリーノ侯爵家に代々伝わる『異世界転生日記』は、初代マリーノ侯爵が記したものだとされている。
数百年が過ぎたいまとなっては定かではないが、そう伝えられている。
『抄本』は、全18巻にも及ぶ『異世界転生日記』からアレナのお気に入りの箇所を抜き出して一冊にまとめた簡易版だ。
「『婚約破棄からの国外追放ぱたーん』。くふふ、まさか我が身にそのようなことが起こるだなんて……んふっ」
アレナのニヤニヤは止まらない。
卒業パーティで婚約破棄を告げられても表情を変えなかった令嬢の姿はそこにはない。
「お嬢様、西門を出ました!」
「そう、では最初の宿場町までそのままお進みなさい」
「はいっ」
ダリアに声をかけられて一瞬キリッとした顔をするものの、すぐに頬が緩む。
王都を出て道が悪くなっても、アレナが上機嫌なのは変わらない。
そのまましばらく進み、馬車の小窓から王都の門が見えなくなったことを確かめて。
感極まったアレナは、叫んだ。
「婚約破棄? 追放? 大歓迎ですわ! 私、そんなことより『とんかつ』が食べたいんですのー!」
堅苦しい「王子の婚約者」から解放された、喜びを爆発させて。