ここから先の未来は私にもわからない(夢見の宝玉5)
徹が宇田川から呼び出されたのは、三月一日の朝だった。
理事長室に通されると、あれほどまでにリタが熱望したものがソファーの前に置かれていた。
宇田川が銀の鎖を丁寧に解いて、箱の中から球体を差し出す。宇田川は仕立ての良いグレーのスーツに身を包み、前屈みとなったワイシャツの袖口からは刺繍されたイニシャルと黒いカフスボタンが覗いていた。
「今日から一ヶ月間、本来であれば君とリタ=グレンゴールドが宝玉の管理者に任命されるはずだった。だが、既にリタはこの学校にいない」
宇田川は口を閉じると、彼の地のリタとその母親にも言い聞かせるかのように視線を左右に動かした。
「この宝玉は春分の夜に、傍らにいる者が自分の主に相応しいかを試す――」
ここで宇田川は、徹を値踏みするかのように目を細めた。
「今年は真の年でしかも役者が揃い過ぎている。危険だ」
「でも、僕はもう心を決めています」
徹は間髪入れず答えたが、宇田川はなおも続けた。
「ならば、老婆心からもう少し言わせてくれ。君の技だけでは宝玉を活性化できない。それは過去に鳴神菖蒲が証明済みだ」
改めて口にされると重い一言だったがこれは想定内だった。特段の反応を見せぬ徹に対して宇田川は両手をテーブルの上で組み直すと身を乗り出した。
「そしてもう一点。宝玉は海外では無力だ。イギリスに運んだとしても役に立たない」
今度は思わず宇田川の顔を見る。徹の考えは既に見抜かれていた。宇田川は徹から視線を逸らさぬままで立ち上がった。
「幸運を祈る」
その目は真剣だった。
宇田川が去った後も徹はそのままソファーに沈み込んだまま考え込んでいたが、予鈴ともに理事長室を出た。
「あやちゃんでも駄目だったんだよなあ」
誰に聞かせるでもなく口にする。手にした木箱の重さがこれからの厳しい道のりを実感させる。徹は、春分までの日数を頭の中で数えた。
エジンバラに戻ったリタとは連絡を取り合っていたが、具体策があるようには見えなかった。宝玉の危険を熟知するリタの母親が、そう簡単に日本に戻ることを許すとは思えなかった。
「……となると、やれることは全部試すしかない」
徹は腹を決めた。そのためのパスポートも準備済である。大したバイトをしてこなかったため十分な貯金はなかったが、姉の望に頭を下げるつもりだった。自分をからかってばかりで煩わしい姉の存在も、こんな時にはありがたかった。
学園に藤原徹の四日間の欠席届が提出されたのは、それから間もなくであった。
* * * * * * * *
暗闇が形を取り始める。
絶望が全身を支配するのを必死に堪える。
頭は三頭の狼、体躯は雄牛で前脚は虎。
そう古書に記された凶獣が月影に姿を現す。
その圧倒的な肉の重み。
徹は背筋を伸ばし、肩幅に両足を開く。
二拍子を二つに分け、更に二つに刻む。
凶獣の三本の尾が風を巻き上げる。
吹き付けたと思う間もなく頬が割れる。
徹は目を庇いながら凶獣に近づく。
凶獣が吼えた。
聞く者の肌の下に無数の蟲を這わせる声。
暗い三対の眼が徹を射抜く。
昨日はここで萎えた。
今日は構わず足を前に踏み出す。
夢で死ぬはずが無い。夢で死ぬはずが無い。
夢で死ぬはずが無い。夢で死ぬはずが無い。
夢で死ぬはずが無い。夢で死ぬはずが
全身が風で切り刻まれた。
堪え切れず徹は叫び声を上げた。
――そして徹は目を覚ました。
「おそらく、藤原先輩は過去を追体験しているんでしょう」
春分の日を迎えて徹の家では、徹が見た夢の整理が行われていた。
杉山想平がメモを取る手を休めて、徹、荻原有理、有為、そして桐嶋和人の顔を順番に見回す。
宝玉を預かって三週間、杉山の発案で何度となく宝玉の謎に関する打ち合わせが行われていた。これは遊びじゃなくて危険なんだ。そんな言葉を口ごもりながら協力を辞退しようとした徹を一喝したのは、楠ノ瀬麻紀と荻原有為だった。
仲間たちの自分への献身的な協力に、今更ながらに頭が下がる思いだった。
「残されたのは今晩限り。後はぶっつけ本番ってわけね」
徹のベッドに腰掛けていた有為が、投げやりな口調で伸びをする。部屋に来た当初は、何だか怪しいとベッドの下を覗き込んでは徹を冷や冷やさせ、その反応に喜んでいた有為だった。
だが、既に議論も半日近くなり顔には疲労の色が隠せない。
「で、でも出来る事は全部やった」
桐嶋がやんわりと否定する。相変わらずいい奴だ、徹はそう思いながら心では別のことを考えていた。
「徹君、今、気持ちは空港だったでしょ」
有理の指摘に、有為が露骨に嫌な顔をした。
徹は肯定する代わりに壁の時計にもう一度目をやる。針は既に午後六時を廻っていた。
「大丈夫だって、徹君が直接説得したんだから。リタちゃんは必ず来る」
有理の切れ長の大きな瞳で顔を近づけられると、いつものことだが落ち着かなくなる。そんな徹に有為はもう一度露骨に顔を顰めた。
徹は僅か正味二日だった初めての海外旅行を思い返していた。エジンバラ中心部の小高い丘の上で身を切るような寒さの中、三人で見た夕暮れは本当に美しかった。
「本当は、二月にあなたと会ったときからこの光景が私には見えていたの。でもね、ここから先の未来は私にもわからない」
リタの母親の声が脳裏に蘇る。驚くほど若々しく見えるアナスタシアだったが、その声は年相応に疲れた響きがあった。
「母上、私は宿命に打ち克つため日本に戻りたい」
結局、アナスタシアからは娘の言葉への明確な返事はなかった。
その時、徹の回想を破って玄関のチャイムが鳴った。階下で暫く母親が対応している気配がした後、階段を誰かが昇ってくる足音がする。徹が腰を浮かすのと部屋のドアが開くのはほぼ同時だった。
「済まない、機体トラブルがあって遅れた」
「リタ!」「リタちゃん!」
徹たちの声が揃う。
そこには、待ち焦がれた赤い髪の少女が紺色のダッフルコートを着て立っていた。
ターコイズ・ブルーの瞳も聡明さに溢れた額も、全て徹の記憶のままであった。
「待たせたな」
リタは、微かに照れた笑顔を見せた。
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