だが、夢の如し――だ(プリムラ7)
徹は夢の中で天蓋と呼ばれていた。
天蓋にこの屋敷に来る前の記憶は無い。
気付いた時はここにいた。
まだ歯も生え揃わぬうちから、葛原貞義の影として寄り添うことを運命とされた。
自分の学ぶ技は何のためか、家長の貞義が自分を陰でどう呼ぶか。
天蓋が知らないわけではない。
それでも構わなかった。
自分は道具だ。天蓋の数少ない信念である。
自分は貞義の道具である――それで構わなかった。
あの年下の少女と言葉を交わすまでは。
* * *
木蘭と金鳳花の咲く道を歩く。
一面に広がる黄色の五弁が心を和ませる。
天蓋にとって一年で一番幸せな季節だった。
さっきから木蘭は、兄の貞義の仕打ちに腹を立てている。
天蓋を無能扱いしたというのだ。
だが当の天蓋は全く腹が立たなかった。
あれほど怜悧な貞義が、道具の自分をそう思わない方がおかしいと納得しているからだ。
無論、天蓋の頭の中に怜悧などという言葉はない。
貞義殿は間抜けな己と違う――そう言っただけである。
天蓋は知っている。
その宿命故に鬼娘と避けられた木蘭が、心の内に誰よりも聖なるものを持つことを。
立夏を過ぎ、爽やかな風が木蘭の髪をなびかせる。
天蓋は目を細めた。
ずっとこの季節が続けばよいのにと思う。
ずっとこのままでいられればよいのに。
ずっと木蘭の傍にいられればよいのに。
* * *
月を見に行こう。
誘ったのは木蘭だった。
天蓋も既にその理由を承知している。
黙って頷き、木蘭の後ろを歩いた。
空気の澄んだ夜だった。
自分の一族は長じると髪が銀色に変わるらしい、そんな台詞を淡々と話すのを聞いた。
今年の春、木蘭の髪は見事な銀髪に変じた。
人々は鬼娘が本性を現したと噂しあった。
だが、天蓋には本性とやらが何をさすのか全くわからない。
木蘭の身体が、微かに女性らしい丸みを帯びるのを感じたのみである。
醜悪な排斥感情が人間の本性ならば、他の者こそ正しく本性を現したといえるだろう。
二人は黙って夜道を歩く。
桜の若木の下、並んで空を見上げると満月が二人を照らしていた。
春の夜の朧月夜にしくものぞなき。
古の人はそういってこの季節の月を愛でたと、木蘭は教えてくれた。
木蘭はものをよく知っている。
いや、知識だけでない。
もはや葛原で木蘭と互角に打ち合えるのは、天蓋のみでないだろうか。
そして貴賤の隔てなく接する、清らかな心の在り様。
全てが貞義殿より上――そう言い掛けて、何度その言葉を飲み込んだ事だろう。
「それにしても、何とまあ綺麗な月か」
木蘭が感嘆の声を漏らす。
よい夜だった。
誓いを立てるのに、またとない夜だった。
「我ら、天の理を知り地の則に服し――」
木蘭が低く謡うように言霊を風に乗せる。
木蘭が宝玉に左手を置く。
その上に、天蓋が自分の左手を重ねた。
「我らは宝玉の主にして僕。宝玉は常に我らと共にあり、我らは生涯を宝玉に捧ぐ」
木蘭が言い終わると同時に、一陣の風が桜の花びらを舞い上げた。
木蘭は莞爾として微笑むと、続けた。
「絢爛の中に虚無が潜む。見事な美しさだ」
天蓋が付け加えた。
「木蘭のように難しくは言えぬ。だが、夢の如し――だ」
「夢でもよい。我らが夢から覚めても宝玉が覚えている」
春の夜風が再び花びらを舞い上げた。
* * *
木蘭が自分を見た。
こんな瞳で見つめられたことは無かった。
「その命、私に預けてくれ」
どれ程の思いがその一言に込められているのか。
どう答えたらよいのか。
天蓋は脳味噌を絞って考え、笑い飛ばすことにした。
口を開けて大声で笑った。
腹を抱え身を捩った。
睨みつける木蘭を気にせず言い放つ。
「己の命を木蘭殿が使うのに、何の遠慮がいるものか」
木蘭はその言葉にまた憤慨する。
「木蘭殿などと、何を言う。我らにそのような主従の関係など――」
ああ、木蘭は変わっていない。
天蓋は金鳳花の道を思い出す。
木蘭はあの頃と変わらない。
己も、何とか変わらずにここまで来れた。
天蓋は声を出して笑うのを止め、代わりに木蘭に語りかける。
力を合わせ助け合うのが我らの誓い。
そう言いたかっただけなのだと。
* * *
天蓋は左足首が折れていた。
せっかくの月は雲に隠れてしまっている。
風が、風下の天蓋に獣臭と血の匂いを運ぶ。
傍らの木蘭だけは。
その一念で身を呈して必死に守ってきた。
だが、その木蘭も凶獣に傷をつけられること既に数度。
木蘭の顔は土気色に変わっている。
天蓋は我が身を顧みず、ただ傍らの銀髪の少女を案じる。
せめて、少女が詠唱を終えるだけの時間が稼げれば。
そう念じながら長鎖を頭上で旋回させた。
長さ一丈を超える純銀の鎖である。
天蓋の祖父はこの鎖で人狼を封じ込んだと伝えられている。
左足首が地面に擦れる度に歯を食いしばる。
裂帛の気合と共に振り出した銀の鎖が、美しい残像を描いて伸びた。
二度、三度と凶獣の胴に巻きつく。
「木蘭」
天蓋は思わず声が震えた。
その歯茎から血が流れ始めていた。
天蓋の両の目からも血の雫が垂れる。
木蘭が詠唱を終えた瞬間だった。
宝玉が爆発したかのように閃光を発した。
凶獣が光に包まれる。
聴覚では感知できぬ高音が草木を震わせた。
徹は、無意識の内にこの夢が終わりに近づいていることを感じていた。
何かを願うならば今しかない、そう確信する。
(宝玉よ、リタの弟を助けてくれ)
夢の中の宝玉が発する光の奔流に包まれながら、全身全霊をかけて祈った。
自分が光の中に溶けていく気がした。
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