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全くだよ(金木犀12)

 徹は左手に鉢巻を持ち、肘から先を内転させる。右手は胸の前で身体の中心線を守りながら半身に構える。鉢巻一つで何をするというのか――あちらこちらから失笑が漏れた。

 だが、最前列に座る者たちは、高宮の変化に気付き始めた。踏みこもうとしては、出した前足を何度も元に戻す。徹の動きに警戒感を抱いていることは明らかだった。

 

 前方から後方へ、中央から両端へ。観客の間に漠然とした期待が伝染していく。空気が動から静へ、主導権が高宮から徹へと変わっていく。

 見る者全てに身動ぎすら許さぬ数秒が過ぎ、


「何のつもり――」

 焦れた高宮が口を開いたその瞬間だった。

 

 徹が予備動作もなくベタ足で迫る。本人よりも影の方が先に動いたような奇妙な、本能的な恐怖を感じさせる歩法であった。

 慌てて迎え撃つ高宮も踏み込む。

 ふはっ。

 徹は鉢巻を持った左手を前に突き出した。呼気と同時に青い布が一閃、螺旋の動きで高宮の額に迫る。

 無造作に鉢巻を払い除けた高宮が突然右腕を引く。茶色い短髪の下で面長の顔が歪む。

 右の手首は鋭利な刃物が押し付けられたかのように、見る見るうちに赤いものが滲んでいた。


「一つ」

 徹が数える声は歓声に掻き消され、高宮にだけ届いた。

 そのまま高宮の間合いから、徹は擡げた手首を下に向けて顔の前で鉢巻を揺らし始めた。

 

 ゆらり、ゆらり。

 ゆらりゆらりゆらり。

 

 猫をじゃらす仕草と動きこそ似ているが、そのような呑気な感想を抱く者は既にいない。

 高宮が異様な緊張感に息を荒くする。頬が小さく痙攣している。

 その視線が左右に動く鉢巻へと逸れたと見るや、徹は思い切り沈み込んだ。


「させるか!」

 徹を一瞬見失った高宮は反射的に右の中段回し蹴りを叩き込んだが、空を切る。

 何故中段の蹴りが空を切るのか。

 次の瞬間、高宮の背にぞくりとするものが疾った。

 徹は両肘を地面に擦りつけるほど身体を低く折り曲げていた。

 地を這う蟲の如き動きであった。そこから、一気に伸び上がってくる。

 

 怖い――

 

 ついぞ抱いたことのない感情に、高宮の睾丸が収縮する。

 高宮は反射的に絶叫しながら、蹴り足が地面に着かないうちに強引に左裏拳で徹の顔面を撃ちに来た。徹はその流れに逆らわずに、女のふくらはぎ程もある高宮の腕を抱き込む。そのまま高宮の腋の下から背後に回り込むと、血管の浮き出た首に鉢巻を巻きつける。

 

 周囲から悲鳴が上がる前の僅かな間、だが確かな意図をもって高宮の首を締め上げた。高宮の苦し紛れの後ろ蹴りを余裕を持ってかわすと、再び距離を取る。

「二つ」

 徹の声は、壇上の全員に届いた。

 一分五十秒が経過していた。


 高宮の顔は怒りに赤黒く染まり悪鬼さながらであった。

「そんな玩具じゃ人は殺せないぜ」

 明らかにイントネーションがおかしい。呂律が回っていない。

 杉山は腕時計を見る振りをして、今度こそはっきりと手を上げた。

「時間です」

 杉山が大声で終了を宣言した直後、高宮が踏み込んできた。

 

 左上段回し蹴りが、遠間から大きな弧を描く。

 憎悪に満ち溢れてはいたが確かな技術に裏打ちされた、美しさすら感じさせる一撃が迫る。

 だが徹はこの一撃も読み切っていた。

 こめかみに迫る高宮の蹴りに対して右腕で顔を覆う。両膝を深く曲げて後ろに倒れこむ。

 

 防御した右腕は鈍い音を立てたが、徹は瞬きすらしなかった。丹田に貯めた気を吐き出すと同時に左手の鉢巻を高宮目がけて投じる。徹の思いが注ぎ込まれた青布は小振りの槍に姿を変える。


 軸足に体重を残したままの高宮は、青い槍が喉元に迫るのをどうすることもできず呆然と見つめるだけだった。やられる――高宮が身を固くした瞬間、徹は布を手から離した。高宮の喉を貫かんとしていた槍が瞬時に元の布へと戻る。


 蹴りの勢いを殺した徹が後方に一回転して起き上がるのと、顔面を蒼白にした高宮の足元にふわりと鉢巻が落ちるのとが同時であった。


 どちらが勝者かは、誰の目にも明らかだった。

 徹は右腕を押さえて立ち上がると再び口を開いた。今度は、静まりかえった会場に響いた。

挿絵(By みてみん)

「これで三つだ」


 最初に拍手をしたのは恐らく壇上の男たちだったろう。

 いや、右奥で終始祈るような表情を浮かべていた黒髪の少女かもしれない。それとも観客席の片隅で一度も目を逸らそうとしなかった赤い髪の少女が先だったろうか。

 ぽつり、ぽつりと拍手が起こり――次第に拍手の輪が広がり――そして今や万雷の拍手が徹に降り注いでいた。

  

   * * * * * * * *    


 徹が拍手に応えつつ壇上から降りると、リタの姿があった。


 右脚を引きずりながら前に立つと、リタは手にした刺繍入りのハンカチを徹の目の下にそっと押し当ててきた。白いハンカチが朱に染まっていくのも構わず、黙って徹の血を拭う。空いたもう片方の手が徹の腫れた頬を撫でていく。

 その手で何を感じ取っているのだろうか。リタは珍しく何かを言いあぐねているようで、口の中で続く言葉を探していた。


 徹自身は、自分のプライドの為にリタに心配を掛けてしまったことを痛感していた。何を言われても甘んじて受けるつもりだった。

 だが逡巡するリタを見ていると、そんな心構えとは別に不安がよぎる。


「……徹」

 何を決心したのか、ようやく徹の名を呼ぶ。徹は唾を飲み込んだ。

「リタ、心配かけて御免」

 そのまま頭を下げて、赤い髪の少女が何を言い出すのか待つ。

 だが、耳に届いた言葉は完全に予想外であった。  


「徹、ハンサムになったな」

 徹は耳を疑った。思わず顔を上げてリタをまじまじと見る。

 そして目の前の少女の透き通る瞳に、安堵と喜びと可笑しみと、更にそれら全てを上回る誇らしさが浮かんでいることに気付き――

 

 徹は思い切り目を細めた。

 広がる空の青さが、澄んだ秋の風の爽やかさが、周囲の称賛の声の温かさが、一気に徹の五感を刺激する。壇上から降りた時は感じなかった歓喜がようやく背中から突き上げてくる。


「全くだよ」

 徹は、今日初めて腹の底から笑った。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

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