魔障を切り放ち給え(運命の輪 1)
その日は朝から雪が舞っていた。
「あと一週間もしないうちに新学期なのにな」
藤原徹は呟きながら、ハイカットのスニーカーに足を通した。黒いダウンジャケットの襟元に深緑色のマフラーをしまい込む。ぼさぼさの髪を手で強引に整えると、気持ちを奮い立たせるように一気に立ち上がって玄関を出る。
新しい家から参宮学園高校までは四駅。十三夜駅で電車を降りると、地図を片手に握りしめて歩き始めた。この季節は、雪が降っても決して寒くない。
「春日医院の角を右に曲がって、コンビニの前の横断歩道を左へ――」
左手でくしゃくしゃの地図を眺めながら学園につく頃には、徹の背中にうっすらと汗が滲んだ。徹が何の特徴もない古びた校門を通り抜けようとした、その時だった。
(魔障・を・切り放ち・給え)
ぞわり、全身の産毛が一瞬に逆立った。膝下から首筋まで皮膚が粟立つ。
咄嗟に後ずさった徹は、泥混じりの雪に足元を取られ、強かに尻を打った。痛いと思うより先に、素早く徹は立ち上がり、左右に素早く目を配る。が――
何もなかった。
誰もいなかった。
耳元で囁かれた声の主はどこにもおらず、男だったか女だったかさえも既に思い出せなくなっていた。痛みだけが、ただ残っている。こんな経験は初めてだった。徹は、前方に長く延びる並木道をしばらく眺めていたが、その後は何の異変も起こる気配がない。
在校生が数名近づいて来るのを見て、徹は気を取り直して職員室に向かった。
* * * * * * * *
「これで転入手続きはすべて終了だよ、藤原君」
柔和な笑みを目の奥に湛えた宇田川隆介の言葉に、立っていた徹はふと我に返る。どうやら暖房のきいた職員室で、ぼおっとしてしまったらしい。
宇田川は自席に座ったまま徹を見上げ、徹を安心させるかのように頷いた。
年の頃は三十歳前後だろうか。中肉中背の身体を品のいいスーツで包んでいる。
休み中もスーツで出勤なんて教師の仕事も楽じゃないな。そう思いながら視線を移すと、磨き込まれた茶色い革靴と、同系色の腕時計のバンドが目に入った。
机の上には、印刷したばかりのプリントの束が無造作に置かれていた。横のマグカップにはコーヒーが注がれており、その香りが鼻腔をくすぐる。
「新学期は来週の月曜からだ。僕も数学を担当するから、授業で会えると思う。前の学校でトップクラスと聞く実力を、存分に発揮してくれたまえ」
宇田川の穏やかな声を聞きながら、徹は曖昧に首を振った。
こんなとき姉のように、畏れ入りますとでも言えると大人なんだろうか。
「もう一つ。新学期が始まると、さっそく「連」を作ってもらうことになる。他の二年生に比べてハンディがあるかもしれないが、あまり気にしないように」
今度は、自分でも何と言うべきかわからない。仕方が無いですよ、だろうか。
「折角だから、校内を色々見ていくといい」
宇田川は笑みを湛えたまま徹の顔を眺めていたが、そのうちに、どこか遠い目になった。
「……宇田川先生?」
宇田川は不思議そうな徹の表情に気付くと、申し訳なさそうに顎を掻く。
「済まない。少し前のことを思い出してね。職業柄、この季節はどうもいけない」
宇田川が照れ隠しのように冷めかけたコーヒーを啜ると、ワイシャツの袖から高級感のある機械式の腕時計が覗いた。
「昔の人も、さまざまのこと思い出す桜かな――と詠んだくらいだから、日本人なら誰でもかもしれないが」
「あら。宇田川先生、芭蕉ですか」
横から中年の女教師が、嬉しそうに声を掛けてくる。
徹は軽く会釈をして、職員室を出た。