闇の中で人々を喰らっておる(向日葵 0)
かつて、参宮学園が弦桐寺と呼ばれていた頃の話である。
その年の霜月、鬼門岳が噴火した。
億千万の雷鳴の如し、そう記された大爆発だった。黒き石砂が一昼夜振り続けたという。噴火から既に数ヶ月、年が明けても余震は収まらなかった。
やがて、奇妙な噂が流れ始めた。
曰く、夜な夜な凶獣が徘徊している、と。
曰く、近隣の村々からいつの間にか住民が消えている、と。
そんな中、葛原家の若き当主、葛原貞義のもとに一人の男が訪れたのは如月のことであった。
「では、そなたはこの日本が異界と繋がってしまったというのか」
四十畳程はあろうかという部屋に男と二人。上座に腰を下ろした貞義の言葉には、明らかな嘲笑が混じっていた。口髭を弄りながら冷ややかに尋ねる。一方の訪ねてきた男はと言えば、頬は削げ目は窪み、その憔悴ぶりは誰の目にも明らかであった。
全身埃塗れの男は真剣な表情で、ひび割れた唇を開いた。
「鬼門岳は古くより、現世と冥界とを繋ぐ門として知られた霊峰。それが裂けて何事も起こらぬ方がむしろ不思議かと」
「それで、我らに一体何をしろと言うのか」
横柄とも取れる態度を崩さぬままの貞義に対し、男は畳に擦りつけんばかりに深々と頭を下げた。
「宝玉を拝借致したい」
ぴくりと左の頬を動かした貞義に対し、男はそのままの姿勢で言葉を継いだ。
「葛原家に伝わる宝玉の噂は、我が地まで届いておられる」
「ただの噂だ」
貞義の答えはにべも無かった。
そんなはずは――思わず頭をもたげる男に貞義は不快そうに言い放つ。
「葛原家当主の言葉を信じられぬというか」
男は慌てて首を振りつつも、貞義の真意を図りかねていた。が、当の貞義は、既に男から興味を失ったかのように立ち上がると男の後方に声をかけた。
「客人は今日は泊まっていかれるそうだ。部屋をご用意してさし上げよ」
* * * * * * * *
その夜、床に就いた男は、部屋の外に佇む気配に気付いた。
黙って傍らの刀に手を伸ばすと、障子の外から声が掛かった。
「先程の話、続きを聞かせてくれぬか」
当主の貞義の妹、葛原木蘭が立っていた。
胸の辺りまでかかる豊かな髪は見事なまでに銀色に輝き、肌は陽の下に出たことがないかのように白い。只でさえどこか人ならぬ印象を与える姿だが、揺るぎない瞳と相まって、闇に浮かぶひと振りの鋭利な刀を連想させた。
「そなたは宝玉で何をするつもりか」
木蘭の問い掛けに咄嗟に男は左右を見渡した。冷え冷えとした板張りの廊下には他に人影は無い。上限の月も雲にその姿を隠しており、濃密な闇が庭先に広がるだけである。
未婚の娘を夜更けに部屋に招き入れる行為。まかり間違えば如何なる咎となるのか、わからぬ男ではなかった。男は暫く木蘭の瞳を見つめていたが、やがて決心し木蘭を招き入れると口を開いた。
「音に聞こえた夢見の宝玉で、我が命と引き換えに凶獣を封じるつもりであった」
凶獣、その聞き慣れぬ響きに木蘭が訝しげな表情を浮かべる。年の頃は貞義より十歳は下であろうか。改めて近くで見ると、ふとした表情に少女の面影も残っているが、かといって男と二人で怖じる様子もない。
「闇の中で人々を喰らっておる。自分も凶獣が娘を咥えたまま消える姿を見申した」
真剣な面持ちで男は続けた。
「草木は枯れ果て人々は飢え、凶獣が徘徊する。地獄絵さながらでござる」
何が脳裏に浮かんだのか一瞬男の唇が震えたが、直ぐに元に戻った。
「その化け物の数は、どの程度か」
一頭と答える男に対し、木蘭は訝しげに眉を顰めた。
「たかが一頭、人数を集めて討ち取ることは適わなかったのか」
もっともな疑問を口にした木蘭に対し、男は静かに答えた。
「我が一族の男は、もはや我が身を含めて片手にて足る数にまで減り申した」
思わず目を見開いた少女に構わず、男は続けた。
「あれは闇が形を取った魔性の獣。煙と同様、幾ら切り裂いても傷を与えることが出来申さん。総力を挙げて挑んだものの打ち滅ぼせず、恥を忍んで参った次第」
その言葉の意味する衝撃的な事実に、木蘭は口を真一文字に結んで柳眉を寄せる。
部屋の僅かな灯りが、その玲瓏たる美貌と老婆のような銀髪に微妙な陰影を与える。
(凶獣が異界のものであれば、この娘もまた夢幻か――)
男にとって、そう思わずにいられない光景であった。
不意に木蘭の双眸に強い光が宿った。
「承知した、宝玉をお貸ししよう」
思わず膝立ちとなる男を制し、木蘭は言葉を続けた。
「とはいえ、葛原家の家宝をみだりに預けるわけには行かぬ。私が参ろう」
男は木蘭の言葉に息を呑んだ。
「とてもそのような……女人が足を踏み入れるような地ではござらぬ」
だが、木蘭は僅かに目を細めただけであった。男がなおも何か言いかけようとしたその瞬間、木蘭は立ち上がった。
「十五日までにそちらに伺おう。兄上にはこの話、内密に」
返事も待たず、銀髪の少女は姿を現したときと同様、音も無く去っていった。
(あれが葛原の鬼娘殿か――)
男は、いつの間にか顔を出した月を見上げて深く息を吐いた。
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