5侯爵様のクッキー
いつもありがとうございます。
今日は中世ヨーロッパの貴族の物語です。
歳の差、訳ありの二人を、どうぞお楽しみください!
それは十六歳のアナにとって、悪夢のような一日だった。
最愛の家庭教師のジョヴァンが、馬車に轢かれて死んでしまったからだ。
ジョヴァンも貴族の出身だったが、複雑な生い立ちのため、男爵令嬢であるアナのところへ家庭教師として働きに来ていた。彫が深く、きりりとした目元が印象的な痩身の男性で、アナは初めて会った日から、献身的で優しいジョヴァンに恋をした。
ジョヴァンも最初は距離を取っていたものの、次第にアナに惹かれ、二人はこっそり相思相愛だった。が、そんな二人をアナの両親は許さなかった。
「このままあの家庭教師を置いておいては、アナのためにならぬ。あの男を殺せ」
しかし非情な男爵の言葉に、夫人は苦笑した。
「いいではありませんか。どうせアナも落ちぶれ貴族から引き取った貰い子、妾腹のあの男とお似合いでしょう?」
「そうはいかぬのだ。アナを是非妻にと伯爵様からお願いされておってな。あの伯爵、変わったご趣味のせいで、次々に結婚した女を木偶にしてしまわれるから、地下牢にごろごろ女が捨てられていると専らの噂だが、これで我が家の借金が返せるなら、まあ、いいだろう」
「そうなのですね。では、私が明日、あの男を始末しましょう。なに、事故に見せかければ、容易いものです」
そう言うと、男爵の夫人はひひひひ、と下卑た笑みを浮かべる。
そして翌日、言葉通りジョヴァンは男爵夫人の馬車に轢かれて死んだ。片目が不自由で、遠近感が取りづらいジョヴァンは、いきなり路地から暴走してきた馬車を避けられず、あっけなく命を奪われてしまった。
「ジョヴァン、私はどうしたらいいの?」
形ばかりの葬儀の後、アナはジョヴァンが埋められた墓の前で泣いた。
このままでは、私は変態の伯爵の妻として、売り飛ばされ、死ぬより酷い目に合わされてしまう。
「お嬢さんをいつか私が助けます」
そう言ってくれた凛々しい笑顔が、もう天国にしかないことを知って、アナは絶望的な気持ちになった。
いっそこのまま命を絶って、ジョヴァンの後を追おうかしら。
本気でそんなことを考えて、墓の前で短剣を喉に当てた時、背後から見知らぬ男の声がした。
「こんな夕方に、お嬢さんが一人では危ないぞ。いったい、どうしたのだ?」
驚いて振り向くと、そこには父程も歳の離れた大男が立派な馬に跨っている。
「あなた様は?」
驚いて尋ねると、男は照れくさそうな笑みを浮かべて、
「私は侯爵のゲオルクと言う。お前はあの人でなし男爵の娘のアナか?」
「…はい。そうでございます」
アナは答えながら、少しほっとした。
この国の貴族には二種類の人種がいて、一つは継父と同じ、人を人とも思わないクズ。もう一つは人格確かな人物だ。前者は弱い物に威張り散らすが、後者は必ず非情な仕打ちを繰り返す父のことを、人でなし男爵と言った。
なら、この侯爵様は、人格確かな貴族よね?で、何の御用かしら?
アナが目を見開いていると、ゲオルクは大きな声で、
「今から我が屋敷へ来い。お前をうちで引き取ることになった」
そう言うと、目を丸くしているアナを強引に馬に乗せて、自らの屋敷へと連れ帰った。
ゲオルクの屋敷はアナの住んでいた屋敷とは比べ物にならない程、立派で広かった。着の身着のまま出て来てしまったアナの荷物は、ゲオルクの指示でいつの間にかきちんと部屋に積まれていた。
「食事の支度ができるまで、ゆっくり休むがよい。その後話をしよう」
そう言うと、大きな体を揺らして、悠然と去って行く。
いったいなんで、侯爵様は私を引き取ったのだろう?それに、よくあの欲にまみれたクズ父が、この話を許したものだと、アナは合点が行かなかった。
何故なら私は、次々と妻を薬と暴力で木偶人形のようにしてしまう変態伯爵に、家の借金のために売られるはずだったからだ。ゲオルク侯爵様は確か、王族とも親戚関係にある身分の高いお方。そんな方が何故?
頭の中で事情をあれこれ推測していると、しばらくして食事に来るよう呼ばれ、アナは緊張した面持ちで広間へと向かった。
食事は侯爵とアナの二人きりだった。侯爵は勿体付けたようにアナの前にゆっくり腰かけると、にこりともせずに言った。
「お前は今日から私の妻だ。と言えば驚くだろうが、形ばかりの妻として引き取った」
えっ?まだ、ジョヴァンのことが忘れられないのに、それは無理です。と言おうとアナが口を開きかけると、それより早く侯爵は続ける。
「あの男爵のやり口にはもう我慢ならぬ。だから、私がお前を引き取り保護する。形ばかりの妻だから、夫婦の夜の心配はいらぬ。ただ、私とともに舞踏会など公の場に出て、私の選んだ衣装を着て、笑顔でいてさえくれればそれでよい」
侯爵はそう言うと、照れくさかったらしく、誤魔化すように食事を食べ始めた。そんな侯爵がおかしくて、アナはくすっと小さく微笑むと、
「侯爵様、ありがとうございます。不束者ですが、どうぞ末永くよろしくお願い致します」
と目に涙を浮かべて、お礼を伝えた。
翌日からアナにとって、夢のような日々が始まった。
侯爵はアナに何も言わず、屋敷の中では自由にさせてくれた。継父に折檻されることも、継母にいじめられることもなく、堂々と食事を食べたり、楽師の演奏を聞いたり、本を読んだりできた。侯爵はそんなアナを娘同然に可愛がってくれた。
とある満月の夜、アナは侯爵夫人として、初めて公の場に出ることになった。
「いいか?先日言った通り、妻としてたった一つ、願いを聞いて欲しい」
侯爵に言われて、アナはにっこり微笑む。
「ゲオルク様のお選びになったドレスを身に着けるということですか?それなら何なりと」
地獄のような家から助け出してくれた侯爵が、初めてするお願いなのだから、きっと叶えて恩返ししたいと、アナは思った。すると侯爵は、言いにくそうに顔を真っ赤にしながら、
「実は、わ、私は細い女が好きでな。お前は十分細いが、その…私と歩く時には、誰よりも細い姿で着飾って欲しいのだ。そのために、お茶の時のクッキーは、今日から一日一枚にしてもらう。分かったか?」
恥ずかしさを堪えて、必死に命じる侯爵が微笑ましくて、アナは優しい笑顔で頷いた。
「承知しました。では、今日からお茶の時に頂くクッキーは、一枚だけに致します。ゲオルク様、他に何か要望はございますか?」
アナが聞くと、侯爵は顔を耳まで真っ赤にして、わざとぶっきらぼうに顔を背ける。
「いや、いい。この願いだけが、私の望みだ。他意は無いから、誤解するな。それとな、私はお前を大切に思っている。これも忘れるでないぞ」
「はい、忘れたことはございません。ゲオルク様、いつも本当によくしてくださり、ありがとうございます」
アナが満面の笑みで微笑むと、侯爵はこれ以上照れるのは限界だったらしく、適当に返事をしながら足早に部屋から去って行った。
十年後、アナは病に倒れ、ジョヴァンの待つ天国へと旅立った。
生涯、「クッキーは一日に一枚だけにして、好みのドレスを着る」というお願い以外は、何も要求されず、侯爵の庇護の元、穏やかな時を過ごした。
ゲオルク侯爵は、そんなアナの死をいつまでも悲しみ、そして、天に向かって呟いた。
「大切なアナ、天で愛する者と幸せに暮らしているか?お前が助けを求めた時には、いつでも私が現れよう。何度生まれ変わっても、必ず私が助けに行くぞ」
いつもありがとうございます。
明日もよろしくお願いします!