2雪に散った桜
今日は江戸時代の恋物語。悲恋です。
「平次さん」
十年ぶりに再会した恋人を見て、おはなは大きな目を潤ませます。
ずっと会いたかった人が目の前に立っている。
すらっと高い背、粋な着物が良く似合う端正な顔立ち、懐から香る匂い袋は、十年前におはながあげたものと同じ香りです。
十四歳の春、二世を誓い合った二人は、お金に目がくらんだ親によって引き裂かれ、別々の相手と祝言をあげさせられてしまいました。が、運命の神様は二人を見捨てませんでした。何故なら、十年の時を経て、二人は互いの相手と死別し、晴れて夫婦になることができたからです。
「おはなさん、やっと私のところへ戻って来てくれましたね。もう二度と離しませんよ」
平次に抱き締められて、おはなはぽろぽろと涙を流しました。これで幸せになれる。ようやく大好きな平次さんと結ばれる。
が、そんな甘い新婚生活は、僅か三か月で不穏な気配を帯びていきました。何と、平次が夜になると、花街へ繰り出すようになったからです。
最初は旦那衆と仕事の付き合いをしていると思って、目を瞑っていたおはなでしたが、次第に出かける回数が増えていくにつれ、平次の行動に不審感が募っていきました。
ある日おはなはこっそり夕方出かける平次の後をつけていきました。すると、とある花街の置屋の離れで、おとみという芸者と恋人同然に付き合っているという事実を知ってしまいました。
おはなの落胆たるや、想像を絶するものでした。
物心ついた頃から、相思相愛の仲だった平次は、何とおはなが嫁に行っている間に、おとみを水揚げし、恋仲になってのです。しかもおとみは、平次以外にも、何人もの旦那と付き合っているとの専らの噂なのに、平次はおとみと離れられずにいるなんて。
「平次さん…許せない!」
おはなは泣きながら家に戻ると、布団の横に座って平次の帰りを待ちました。
丑三つ時、すっかりほろ酔い気分で帰ってきた平次は、そんなおはなを見て目を丸くします。
「おはなさん、いったいこんな時間までどうして?!」
「平次さん、おとみという女と今日も楽しかったのでしょう?二度と離さないとか私に言っておいて、祝言の前から浮気をしていたのね。今日、花街で聞きました。どうしてこんな酷いことをするの?」
「それは…おとみが身よりの無い女だから少し世話をしただけで…」
「言い訳は聞きたくないわ!平次さん、私を裏切って、あの女と恋人同然の仲なのでしょう。あの女には、私の大切な夫を奪った罪をしっかり償ってもらうから」
「おはなさん!待ってください!!」
平次の制止も聞かず、おはなは寝室を出て中庭に行きました。空を見上げると綺麗な三日月が、時折風で流れる雪雲に隠れては出て来るのを見て、まるで移り気な平次の心みたいだと悲しくなりました。
翌日、平次は置屋の離れのおとみのところに行きました。
いつになく緊張した面持ちの平次に、いつも通り酒の支度をするおとみに、平次は座布団から降りて、畳に手をつきます。
「おとみ、申し訳ないが、今日限り別れてくれ!」
「あら、平次さん。どうしてそんな悲しいことを言うの?私を愛してるって言ってくれたのに。やっぱり奥様がいいの?」
「そうだ。私は妻を愛してる。もう裏切るわけにはいかないんだ!」
平次は懐から小判の入った袋を出すと、再び頭を下げました。するとおとみは、そんな平次を見下すようにちらっとみると、天井を見上げて目を瞬きします。
「酷い。やっぱり平次さんは、平凡な芸者の私より、奥様の方がいいのね?そうですよね、奥様は小町と言われるくらい美しい方だものね」
「見た目の問題じゃない。私は…!」
その時、がたがたと入口の扉が開けられて、頭巾を被ったならず者が入って来ました。
「おとみという女はお前か?」
おとみが目を見開いたまま頷くと、男達は得物を抜いておとみに切りかかります。
「止めてくれ!誰か!!来てくれ!!」
慌てて平次が大声を出すと、置屋の渡り廊下から、用心棒達の足音と怒号がします。それを聞いてならず者たちは、得物をしまって一目散に立ち去って行きました。
「おとみ、大丈夫か?」
すっかり恐怖でへなへなと座り込んだおとみは、くすくすと可笑しそうに笑い出しました。
「ああ、別れてあげますよ。怖い奥様に殺されては堪らないですからね。平次さん、私は優しくて色男のあなたのような方に愛されたら、どれだけ幸せかって思い、一目惚れしたのだけどね。こんな怖い奥様に命を狙われたのでは、割りに合いませんからね。さようなら、平次さん。今日限りで、二度と関わらないでください」
そう言うと、おとみはさっさと置屋に帰っていきました。
「おはなさん、何故おとみに刺客を送ったのです?!」
家に帰った平次が寝室へ行くと、真っ白い寝巻姿のおはなが、大きな目を潤ませて振り向きます。月明りに照らされた美しい横顔に一瞬息を呑むも、平次はあくまで平静を装って、おはなに向き合います。
「人を殺めようだなんて…おはなさん、なんて酷いことを!」
するとおはなはふっと悲しそうな笑みを浮かべて、平次を見つめます。
「そう、あの女は助かったのね。私をこんなに苦しめたくせに…平次さんまであの女の味方をするのね?」
「私は…そんな…!!」
「もう、いいの。平次さん、あの女、平次さん以外にもたくさんの旦那衆と付き合っているのに、平次さんの子ができたと今日私に文をよこしました。それでも平次さんは、あの女の味方をするのね?」
「違う!!それは嘘だ!!おとみとの間に子など授かっていない。私が愛しているのは、おはなさんだけだ!!」
「言い訳しないで。私だけの平次さんでいて欲しかったのに…こんなの酷い」
そう言うと、おはなはすくっと立ち上がり、裸足のまま中庭に下りました。そして、平次を見つめると、自らの腹に隠し持っていた包丁を一思いに突き立てます。
「おはなさん!!!」
「平次、さ…ん…」
おはなは荒い息を吐きながら、包丁動かして自らのお腹を切り裂きます。そしてそっと涙を流しながら、真っ白な雪の上に倒れました。おはなの体から飛び散った血が、まるで桜の花びらのように、点々と雪を染めていきます。
「おはなさん、おはなさん!!!」
平次は中庭に飛び降りると、息絶えた美しい妻を見て、泣き崩れました。
何ってことだ。
私はずるずると身よりの無い芸者に入れ込んで…でもそれは、愛するおはなさんがよそに嫁いだことに耐えられなかったからで…。
いや、それは言い訳に過ぎない。
私にも妻がいたのだから。
たとえ親が決めた愛の無い夫婦だっとしても、不貞を働いたことには違いない。
そんな過ちを繰り返しているうちに、本当に大切な人が戻ってきてくれたのに、私は自分の愚かさを改めることができなかった。
「おはなさん、私が愚かでした。もっとおはなさんを大切にするべきだったのに、取り返しのつかないことをしてしまった」
平次は空を仰ぐと、泣きながらそっとおはなの骸を抱きしめました。すると、
二世を誓った仲なのに…平次さん、生まれ変わったら今度こそ私だけを見てくださいね。
どこからか聞こえてきたおはなの声に、平次はただひたすら雪の上で自らの過ちを悔い、いつまでもいつまでも泣き続けるのでした。
いつもありがとうございます。
明日も頑張りますので、どうぞよろしくお願いします!