出られない
俺はある中堅企業の営業担当。
夏真っ盛りの炎天下、それでもスーツを着込み、汗だくになりながら取引先廻りをしていた。
お昼に差し掛かった頃、俺はあまり行きたくない取引先の近くにいた。
特に注文も売込みする新商品もなかったので、俺はそこをパスする事にし、次の取引先に向かうべく、駅を目指した。
その時携帯が鳴った。
「A社様から緊急のお電話で、どうしても今すぐに来て欲しいそうです」
事務の女の子の言葉に俺は顔を歪ませた。
A社というのが、あまり行きたくない取引先なのだ。
「困ったな。他のお客様にアポ取って向かってる途中なんだけど」
「そちらを変更して行っていただけませんか? 先方様も興奮気味で」
女の子も対応に苦慮したらしい。
「わかったよ」
俺は仕方なくA社に向かった。
俺がその会社にあまり関わりたくないのは、とにかく汚くて薄気味悪い建物だからだ。
全くと言っていいほど掃除した形跡がなく、廊下や事務所のフロアはゴミだらけ。
かと言って支払いが悪い訳ではなく、事情を知らない上司達には「お得意様」だと思われている。
確かに取引額も大きく、俺が担当している顧客の中では売上ナンバーワンである。
あまり素っ気ない態度を取っているのがわかれば、確実に問題になる。
一体何の用だと思いながら、A社の敷地に足を踏み入れた。
何度見ても気持ちが悪くなる建物だ。
その敷地には事務所と工場があるのだが、工場は壁が穴だらけで倒壊寸前、事務所は社長の趣味なのか、壁一面を蔦が蔽っている。
「おかしいな?」
普段は工場には何人かの作業員がいて、鉄骨の溶接や切断をしているのに、今日は誰もいない。
事務所も明かりが点いている様子がない。
「悪戯か?」
俺はふとそう思ったが、そんな悪戯をして得をする奴はいない。
とにかく誰かいないか声をかけてみようと思い、事務所の玄関に近づいた。
「?」
窓の向こうに人影が動いた気がした。
「何だ、いるのか」
俺はホッとしてドアに手をかけ、開いた。
「お世話になります。お電話いただいて参りました」
事務所は玄関を入るとすぐにフロア全体が見渡せる構造だ。L字に並んだカウンターが玄関と事務フロアの境界線になっている。
「あれ?」
誰もいない。返事もない。
「留守かな?」
俺は帰ろうと思ってドアの方を向いた。
その時だった。俺は人の動く気配を感じて振り返った。
カウンターの向こうから黒ずくめの男が飛び出して来た。
(空き巣か?)
俺は咄嗟に身構えたが、男は俺には目もくれず、ドアを乱暴に開くと外に飛び出して行った。
「何だ?」
俺はそいつを追いかけようとドアに手をかけたが、何かが外からドアを押しているかのようで、全く開かなかった。
「ど、どういう事だ?」
俺はパニックになりかけた。するとさっきの空き巣がドアの向こうから、
「誰かが外から来ないとドアは開かない。誰かを中に入れないと、外に出られない。騙して悪かったが、俺も騙されてここに入ったんでね」
「何?」
「あんたも早く誰かを呼んで中に入れないと、ずっとそこにいる事になるぜ」
「会社の人はどうしたんだ? その人達が来れば・・・」
「俺は3日もここに閉じ込められていて、机の引き出しにあった名刺ホルダーの名刺の電話をかけまくってやっとあんたが来てくれたんだよ。この会社の人間は誰もいないよ」
「何だって!?」
「俺にできるアドバイスはそのくらいだ。じゃあな」
「おい!」
しかし俺の呼びかけも虚しく、空き巣男は走り去った。
「出られないだって? そんなバカなことがあるものか!」
俺は窓に近づき、ロックを解除し、開けようとした。しかし開かない。ドアと同じで、反対側から何者かが押し留めているような感じだ。
「後で弁償しますから」
俺はそう呟いてドアの脇に立てかけてあったハンマーを持ち、窓ガラス目掛けて振り下ろした。
「うわっ!」
窓ガラスは割れるどころか俺ごとハンマーを弾き飛ばした。
「?」
俺は唖然とした。
(本当に出られないのか?)
全く訳がわからない。
「そうだ」
俺は会社に電話して誰かに来てもらおうと思い、携帯を開いた。
しかし何故か圏外になっている。
すかさず事務机に駆け寄り、固定電話から会社にかけた。
しかし繋がらない。
「あいつは俺の会社にかけられた・・・。どうして今はかからないんだ?」
「お前で・・・最後・・・」
どこからか、そんな声が聞こえた。
「だ、誰だ? 俺で最後? どういう意味だよ!?」
俺は大声で叫んだ。
「代わりはいない・・・。お前で最後・・・」
「・・・」
俺は全身から信じられないくらいの汗が噴き出すのを感じた。
(こんなところで俺は・・・)
絶望が脳内を支配するのにそれほど時間はかからなかった。
俺は考えるのをやめた。
(理解を超えた何かが俺をここに閉じ込めたのなら、もう何をしても無駄だな)
俺はソファにドスンと腰を下ろし、目を閉じた。
(短い人生だった・・・)
いつの間にか俺は眠っていた。
空を飛んでいた。
まさか天国?
しかしその思索は、人の声で破られた。
「須田さん、どうしてここで寝てるのよ?」
俺が目を開けると、そこにはA社の事務員の女性が立っていた。
「あれ? え?」
女性は呆れ顔で、
「あんたもからかわれたのね?」
「え?」
女性はフロアの隅にある神棚に近づいて倒れている狐の置物を元に戻した。
「この子は時々悪戯するのよね」
女性は陽気に言った。
「誰かがこの子を倒したのよ、きっと。それで悪戯が始まったのね」
俺は眩暈がしそうだったが、
「工場の人達と他の事務の人達はどうしたんです?」
「社員旅行。私は旦那が入院して不参加で、昨日退院のはずが今朝にずれたのよ。それで今会社に来たところ」
「はあ」
俺はドッと疲れが出た。
「何にしても良かったわね、大した事なさそうで」
「まあ・・・」
俺はお茶を頂き、A社を出た。
俺は知らなかった。その事務員の尻に大きな「尻尾」がはえている事を。