七、間一髪
七、間一髪
「ゲオさん、この鞭、すぐに解けちゃいますよ」と、巨漢の元役人が、先端の無数の紐が脱落して、棒切れだけとなったアヴェ・ンダ調教用の鞭と格闘しながら、告げた。
「まあ、職人が、作っているわけじゃありませんのでね」と、ゲオは、苦笑いをした。素人の急拵えだからだ。そして、「まあ、騙し騙し、使いましょう」と、補足した。アヴェ・ンダに、痛みを与えるだけで十分だからだ。
「そうですね」と、巨漢の元役人も、同調した。
そこへ、丸顔の男と無精髭の男が、通用口から入って来た。
「どうでしたか?」と、ゲオは、開口一番に、問うた。業者が、見付かったかどうか、気になっているからだ。
「それが…」と、丸顔の男が、冴えない顔をした。
「見付からなかったのですね…」と、ゲオは、溜め息を吐いた。表情からして、駄目な様子だからだ。
その直後、「い、いえ! 違いますよ!」と、丸顔の男が、慌てて否定した。そして、「見付かったと言いますか、何と言うか…」と、曖昧に言った。
「おいおい。はっきり言いなよ。ゲオさんが、困っているじゃねぇかよ!」と、巨漢の元役人が、凄んだ。
「う〜ん。どう言えば良いのか…」と、丸顔の男が、左隣の無精髭の男へ、目配せした。
「ちっ! まどろっこしいな!」と、無精髭の男が、面倒臭そうに言った。そして、「まともな業者じゃないが、元女海賊とだけ言っておこうかな」と、示唆した。
「あなたは、その海賊の子分か何かでしょうか?」と、ゲオは、尋ねた。無精髭の男の素性が、気になったからだ。
「いや。俺は、日雇いのただの人夫だぜ。俺も、さっき知ったばかりだぜ」と、無精髭の男が、語った。
「そうなんですか」と、ゲオは、額面通りに聞き入れた。疑っても、限が無いからだ。そして、「元海賊さんですと、相当な額の金銭が、要るのではありませんか?」と、眉根を寄せた。手持ちの貨幣で、足りるか、どうか、不安だからだ。
「それが。ゲオ様に会ってから、決めると申されました」と、丸顔の男が、口を挟んだ。
「ははは…。私に会ったところで、一アルスの得にもなりませんよ…」と、ゲオは、肩を竦めて、自嘲した。会ったところで、相手を落胆させるのが、オチだからだ。
「ゲオ様、会うだけ、会って下さいよ!」と、丸顔の男が、食い下がった。そして、熱っぽく理由を述べた。
しばらくして、「なるほど。あなた方の努力を無駄にする訳にもいきませんからね。会うだけ、会いましょう」と、ゲオは、冴えない表情で、聞き入れた。気乗りはしないが、会うだけ会っておけば、円満に解決しそうな気がするからだ。
「ふぅ〜」と、丸顔の男と無精髭の男が、顔を見合わせながら、安堵した。
「早速、向かいましょう。いつ、詰所の奴が来るか、判りませんので…」と、巨漢の元役人が、提言した。
「確かに、テン・ネーンの奴、怒り狂っているでしょうからね」と、丸顔の男も、口添えした。
突然、玄関の扉が、けたたましく音を立てた。
その直後、「おい! ここを開けろ!」と、男の声がした。
「テン・ネーン、ですか?」と、ゲオは、巨漢の元役人を見やった。詰所の者とは、ほとんど面識が無いからだ。
巨漢の元役人が、渋い顔で、頭を振った。そして、「一番、面倒臭い奴が、来たみたいだな」と、ぼやいた。
「もう一人、上司が居るのかよ!」と、丸顔の男が、両目を見開いた。
「ああ」と、巨漢の元役人が、浮かない表情で、頷いた。そして、「最近、所長になって、舞い上がっている、モリータ・コンフレックスっていうクソ野郎さ!」と、吐き捨てるように、言った。
「あの、巡回と称して、街中を徘徊している奴だな」と、無精髭の男が、皮肉った。
「そうだ。あいつの方が、給料泥棒だぜ!」と、巨漢の元役人も、同調した。
「多分、俺達を取っ捕まえて、自分の手柄にしようって魂胆だろうぜ」と、丸顔の男が、憶測を口にした。
「恐らく、当たりだろうな」と、巨漢の元役人が、示唆した。
「どういう事だ?」と、無精髭の男が、興味津々に、尋ねた。
「普通なら、テン・ネーンの方が、モリータよりも、年配だから、あいつが、詰所の所長様になるのが、常だが、何故か、モリータの奴が、所長となった。きっと、何かしらの裏があるんだろうぜ」と、巨漢の元役人が、語った。
「確か、あいつ、色んな店から、場所代やら上納金なんかを取り立ていたなぁ〜」と、無精髭の男が、険しい表情で、言った。
「じゃあ、この店の負債も…」と、丸顔の男が、はっとなった。
「モリータの所へ、流れていたのかも知れませんね」と、ゲオも、眉間に皺を寄せた。アヴェ・ンダが、持ち出していたのは、モリータへの上納金の為だと察したからだ。
「真相が判ったところで、モリータの野郎が、俺らを無罪放免にする筈もないだろう」と、巨漢の元役人が、顔をしかめた。
「ですね」と、丸顔の男も、相槌を打った。
「メス犬、いや、アヴェ・ンダ様も、どのみち、捨てられるのは、火を見るよりも明らかですからね」と、ゲオも、予測を述べた。モリータが、無一文の年増の女の面倒を見る訳がないと想像出来るからだ。
「どうするんですか? ゲオさん?」と、巨漢の元役人が、問うた。
「私が、お時間を稼ぎますので、皆様は、通用口から出て下さいませんか?」と、ゲオは、提言した。自分が、モリータの相手をする事で、他の者達を逃がす事が出来るからだ。
「でも、ゲオさん。あなたが、連行されるかも知れませんよ」と、巨漢の元役人が、心配した。
「かも知れませんね」と、ゲオは、しれっと肯定した。何かしらの罪状をでっち上げられるのは、覚悟の上だからだ。
「だったら、俺は、残りますよ。俺は、ゲオ様無しでは、生きて行けませんから」と、丸顔の男が、宣言した。
「ちょっと待って下さい。私だって、そう易々と付いて行く気なんてありませんよ」と、ゲオは、異を唱えた。身に覚えの無い事を、素直に認める気など、毛頭無いからだ。
「ですよねぇ〜」と、丸顔の男が、頭頂部を一瞥しながら、告げた。
「私の頭を見て、納得しないで下さい!」と、ゲオは、不快感を露にした。天辺を見られても、説得力など無いからだ。
「い、いえ。そんなつもりじゃあ…」と、丸顔の男が、苦笑した。
「おい! 出て来ないのなら、扉を打ち破るぞ!」と、モリータの怒号がした。
「そうだな。今は、ここに居ても、ゲオさんの足手纏いにしかならないからな」と、巨漢の元役人も、口添えした。
「ゲオ様、心苦しいですが、先に、抜けさせて頂きます!」と、丸顔の男も、一礼した。
程無くして、四人が、通用口を出て行った。
その間に、ゲオは、玄関へ歩を進めた。そして、扉の前で、立ち止まった。
その刹那、「さっさと開けろ!」と、モリータが、怒鳴った。
「はいはい」と、ゲオは、何食わぬ顔で、応じた。臆する事は無いからだ。そして、押し開けた。
その直後、「誰も居ないじゃないか!」と、モリータが、語気を荒らげた。
その瞬間、「私は、ここですよ!」と、ゲオは、不機嫌な顔で、返答した。
その刹那、モリータが、気付くなり、「わっ! びっくりした!」と、一歩、跳びすさった。そして、「お前、何者だっ!」と、高圧的な態度で、詰問した。
「何とも、乱暴な物言いですねぇ」と、ゲオは、落ち着き払って、言葉を返した。そして、「あなたこそ、何者なんですか?」と、問い返した。自分から、わざわざ名乗る必要など無いからだ。
「は? 見て判らんのか?」と、モリータが、凄んだ。
「さあ?」と、ゲオは、かまとと振った。判っていても、答えてやる義務など無いからだ。
「お前、おちょくっているのか?」と、モリータが、威圧して来た。
「いいえ。私は、素直に答えているだけですよ」と、ゲオは、しれっと言った。普通に、受け答えをしているだけだからだ。そして、「御役人様、御名前は? で、どのような御用件で?」と、白々しく質問をした。
「アヴェ・ンダさんを誘拐した者達が、この店へ入るのを見たという報告を受けたのでな」と、モリータが、もっともらしく回答した。
「へぇ〜。そうなんですかぁ〜」と、ゲオは、調子を合わせた。そして、「あなた一人だけですけど、大丈夫なのですか?」と、指摘した。単身で乗り込んで来るのは、余程の身の程知らずなのか、世の中をなめている自信家くらいのものだからだ。
「部下の話では、お前の所の丸顔の店員と俺の下っ端の木偶の坊と聞いている!」と、モリータが、どや顔で、告げた。そして、「で、ここに居るんだろ?」と、強気に、問うた。
「確かに、あなたの仰られる通り、丸顔の店員は、私の同僚ですね。でも、営業時間が終わってますので、とっくに、出ちゃいましたよ」と、ゲオは、語った。そして、「同僚と言えども、時間外の事には干渉しませんので、お引き取り願えませんか?」と、淡々と言葉を濁した。無関係を装った方が、都合が良いからだ。
「おい! あんまり、いい加減な事を言ってんじゃないぞ!」と、モリータが、凄んだ。
「困りましたねぇ〜。私も、ちゃんとした事を話しているつもりなんですけどねぇ〜」と、ゲオは、眉根を寄せた。モリータに、粘られるのが、迷惑だからだ。
「お前、今から、詰所へ来るか?」と、モリータが、示唆した。
「どうしてですか?」と、ゲオは、怪訝な顔で、尋ねた。詰所へ行く理由など、一切、心当たりが無いからだ。そして、「それなりの理由が有りませんと、不当逮捕とかになるんじゃありませんか?」と、問い質した。詰所へ行ったら最後、無実の罪を捏造されかねないからだ。
「ぐっ…」と、モリータが、歯噛みした。
「で、どうしたいんですか?」と、ゲオは、質問した。モリータの次の手を見極めたいからだ。
少しして、「確かに、お前の言う通り、手ぶらでしょっ引くのは、些か、乱暴過ぎるな」と、モリータが、引きつった笑みを浮かべながら、口にした。
「御役人様も、公務で来られたのなら、何かしらの令状を提示して頂けませんと…」と、ゲオは、理屈を述べた。
「そうだな。お前の申す事も、一理有るな。お前も、書類さえ見せれば、納得するのだな?」と、モリータが、念押しした。
「ええ。私は、まだ、残務整理が残っていますので、しばらくは、居ますよ」と、ゲオは、力強く返答した。少しは、時間が稼げるからだ。
「そうか。じゃあ、すぐに、書類を作ってから、戻って来るとしよう」と、モリータが、意気揚々に、踵を返した。間も無く、詰所へ入った。
ゲオは、確認するなり、扉を閉じて、鍵を掛けた。モリータの書類など、待つ気が無いからだ。そして、容易に入られないように、通りに面した全ての窓にも鍵を掛けて、暗幕を広げた。しばらくして、机の上の照光石を灯した。やがて、机上が、明るくなった。
その直後、扉が、叩かれた。
間髪容れずに、「おい! 令状を持って来たぞ! さっさと開けろ!」と、モリータが、命令した。
「あっ! ちょっと、待ってて下さぁい」と、ゲオは、声高らかに、愛想の良い返事をした。こうでも言っておかないと、蹴破って踏み込んで来そうな勢いだからだ。
「分かった…」と、モリータが、承知するなり、叩くのを止めた。
その間に、ゲオは、足音を忍ばせて、通用口へ、歩を進めた。モリータに、気取られたくないからだ。そして、後、数歩の所まで、距離を詰めた。
その瞬間、「そろそろ開けてくれないか?」と、モリータが、要求した。
「逃げも隠れもしませんので、もう少し、待って下さい」と、ゲオは、宥めるように、出任せを言った。この機会を逃せば、牢屋行きは、確定だからだ。そして、音を立てないように、扉をゆっくりと押した。
少しして、「おい! まさか、ここで、待ちぼうけをさせようってんじゃないだろうな!」と、モリータが、牽制した。
「ま、まさか…」と、ゲオは、言葉を詰まらせた。やろうとしている事を感付かれたと察したからだ。
「何とか言えっ!」と、モリータが、扉を叩きながら、威嚇した。
その間に、ゲオは、扉を開き切った。そして、外へ出るなり、「御役人様。私は、あなたの踏み台になるほど、お人好しじゃありませんよ。これにて、失礼させて頂きますよ!」と、言い放った。
次の瞬間、「何をっ! チビハゲ!」と、モリータが、激昂した。その直後、激しく扉を叩き始めた。
「これは、不味いですね…」と、ゲオは、表情を強張らせた。モリータを本気で、怒らせてしまったからだ。そして、速やかに、扉を閉めた。気休めでも、足止めになれば良いからだ。程無くして、路地へ出るなり、市場へ向かって、一目散に、駆け出した。こうなったら、元女海賊が営む酒場まで、逃げ切るしかないからだ。
しばらくして、通用口の方から、扉の開く音が、鳴り響いて来た。
その刹那、「チビハゲェー! どっちに言ったぁ!」と、モリータが、怒鳴り散らした。間も無く、「そっちかあ!」と、気付かれた。
その瞬間、「ひぃ〜」と、ゲオは、恐れおののいた。何をされるのか、判らないので、生きた心地がしないからだ。そして、「逃げ切れないかも知れませんね…」と、弱音を吐いた。体力的にも、追い付かれるのも、時間の問題だからだ。やがて、足音が、迫って来た。
程無くして、モリータが、追い付くなり、「チビハゲ! 足を止めな!」と、命令した。
少しして、ゲオは、言われるがままに、足を止めた。観念するしかないからだ。そして、「どうなさる。おつもりですか?」と、問うた。いきなり、刺されるのは、嫌だからだ。
「そうだな。本当なら、ここで、斬り殺しても、良いんだが、お前を麻薬の密輸の首謀者として、連行するとしよう」と、モリータが、罪状をでっち上げた。
その途端、ゲオは、振り返り、「は? 何を仰っているのですかっ!」と、語気を荒らげた。やってもいない罪を、認める訳にはいかないからだ。
「チビハゲ、お前のようなポンコツと将来有望な俺様とじゃあ、世間は、どっちを信じるか、分かるだろう?」と、モリータが、勝ち誇るように、語った。
「あなたから見れば、私は、ポンコツですけど、性根は、腐ってませんよ! あなたは、そうやって、他人に罪を被せて、出世して来られたのでしょうね」と、ゲオは、負けじと睨み返した。意のままにされるのは、癪だからだ。
「何とでも、ほざくが良い。お前の罪は、確定しているのだからな」と、モリータが、仄めかした。
「なるほど。すでに、仕組まれているというのですね」と、ゲオは、察知した。モリータの口振りでは、言い逃れの出来ない細工が、仕上がっているという物言いだからだ。そして、「つまり、アヴェ・ンダ様は、用済みって事ですか…」と、溜め息を吐いた。
「そうだな」と、モリータが、目を細めた。そして、「あの年増、俺様が、ちょっと、お姫様扱いしてやったら、小遣いをくれやがったよ。最近じゃあ、店の金にまで、手を付けていたらしいがな」と、嘲笑した。
「そういう事でしたか…」と、ゲオは、納得した。金の流れが、はっきりしたからだ。そして、「私が、もっと、しっかりしていれば…」と、歯噛みした。モリータが、災いしている事が、腹立たしいからだ。
「何だ? 少し、痛い目にでも遭うか?」と、モリータが、凄んだ。
「は? それで、脅しているつもりですか?」と、ゲオは、眉をひそめた。アヴェ・ンダの癇癪に比べれば、迫力に欠けるからだ。そして、「えい!」と、右の平手打ちを繰り出した。だが、モリータの顔面を捉える事なく、虚しく空を切った。
「チビハゲ? 今のは、何だ? 俺様に、刃向かおうとしたんじゃないのか?」と、モリータが、にんまりとした。
「い、いやぁ〜? 羽虫が、飛んでいましたので…」と、ゲオは、苦しい言い訳をした。この場は、何としてでも、誤魔化すしかないからだ。
「ポンコツ! 見え透いた事を言っているんじゃねぇ!」と、モリータが、怒鳴った。その直後、左の拳骨を放って来た。
ゲオは、避ける間も無く、左の頬に、直撃を食らった。その刹那、路面を転がされた。やがて、十数歩先の所で、止まった。
そこへ、モリータが、歩み寄り、「これは、正当防衛だからな!」と、追い討ちを掛けて来た。
ゲオは、咄嗟に、体を丸めて、防御体勢を取った。ここは、耐えるしかないからだ。
しばらくして、モリータが、攻撃の手を止めた。そして、「これぐらい痛め付けてやりゃあ、良いだろう」と、告げた。
「うう…」と、ゲオは、呻いた。一方的にやられて、相当な暴力を受けたので、痛くて動けないからだ。
「お前が、悪いんだぜ。大人しく、連行されないからさぁ〜」と、モリータが、口にした。
「うう…」と、ゲオは、苦悶の声で、異を唱えた。言われっぱなしというのも、癪だからだ。
「チビハゲェ〜。お前は、俺の踏み台以外じゃ役に立たないんだから、大人しくしろよなぁ〜」と、モリータが、上から目線で、語った。
「わ、私は、あなたの踏み台になんかならない!」と、ゲオは、声を振り絞った。このまま、連行されたとしても、思い通りにはさせたくないからだ。
「チビハゲェ〜。現実を見ろよぉ〜。お前のように、将来の見えたポンコツは、俺様のような、選ばれた者に、逆らおうなんて、妙な事を考えない事だぜぇ〜」と、モリータが、得意満面に、語った。
「思い上がるのも、いい加減にして下さい。これまでが、偶々、旨く行っただけで、幸運だっただけですよ!」と、ゲオは、指摘した。モリータが、単に、自惚れているだけだからだ。そして、「いずれ、これまでして来た事が、跳ね返って来ますよ!」と、補足した。何であれ、自分のした事が、何らかの形で、因果応報として、跳ね返るものだからだ。
「は? そんなものは、迷信だぜ。今まで、そんな事は、無かったからな」と、モリータが、さらりと否定した。そして、「まあ、俺様のした事は、全部、別の奴に回って行くんだけどな」と、言葉を続けた。
「つまり、他人に、あなたのして来た行為を擦り付けているという事ですね!」と、ゲオは、語気を荒らげた。モリータの狡猾さが、垣間見えたからだ。
「さあ、どうかな?」と、モリータが、はぐらかした。そして、「お喋りも、ここまでとしようか…」と、打ち切った。
「くっ…」と、ゲオは、歯噛みした。このままでは、罪人にされるのは、必至だからだ。
その直後、「さあ、立て!」と、モリータが、右手で、胸ぐらを掴んで来た。
間も無く、ゲオは、無理矢理立たされた。
その刹那、「お前に、逃げられると面倒だから、手錠をさせて貰うとしよう」と、モリータが、左手で、やたらと使い込まれた手錠を持ち出した。そして、「両手を出せ!」と、強要した。
突然、「ちょっと待ちな!」と、男の声が、割り込んで来た。
「だ、誰だっ!」と、モリータが、周囲を見回した。
程無くして、ゲオは、革の胸当てをしたウルフ族の男が、魚市場の方から近付いているのを視認した。
少し後れて、モリータも、視認するなり、「お前は、何者だ!」と、敵意を剥き出しにして、問うた。
「俺は、ゲラーナ・ミラースという冒険家だ」と、ウルフ族の男が、穏やかに名乗った。
「ほう。冒険家風情が、公務を妨げようと言うのかな?」と、モリータが、もっともらしく返答した。
「へぇ〜。一方的に、弱者を痛め付けるのが、公務なのかい?」と、ゲラーナが、皮肉った。そして、「まあ、会話を聞く限りじゃあ、あんたの利己を正当化しているようにしか聞こえんがね」と、見解を述べた。
「貴様! 俺様の話を、何処まで聞いた!」と、モリータが、語気を荒らげた。
「あんたに答えてやる義務は、無いぜ!」と、ゲラーナが、突っぱねた。
「んだと!」と、モリータが、いきり立った。
「おお、怖っ!」と、ゲラーナが、おちょくるように、おどけた。
ゲオは、ここぞとばかりに、ゲラーナの方へ、駆け出した。何者かは知らないが、モリータの傍よりかは、安全だからだ。そして、四つん這いで、ゲラーナの足下へ、転がり込んだ。
その刹那、「何だ? 子供かと思ったら、ちっせぇおっさんか…」と、ゲラーナが、ぼやいた。
「デヘヘ〜」と、ゲオは、苦笑した。そして、「おっさんじゃあ、駄目ですか〜?」と、問い合わせた。何と無く、駄目そうな雰囲気だからだ。
「へ、俺は、こんな奴みたいに、性根は腐っていないから、安心しな」と、ゲラーナが、やんわりと告げた。
「た、助けてくれるんですね?」と、ゲオは、問い直した。確証を得たいからだ。
「ああ」と、ゲラーナが、力強く頷いた。そして、「ちょっくら、離れてくれないかな?」と、促した。
「は、はい〜」と、ゲオは、言われるがままに、市場寄りに、移動をした。自分が、足を引っ張っては、意味が無いからだ。間も無く、十数歩程離れた所から、二人を注視した。
「ウルフ族が、こんな落ち目のおっさんを助けたところで、何の得があるんだ?」と、モリータが、尋ねた。
「いや。特に、得をする事は無いな」と、ゲラーナが、しれっと答えた。
「だったら、さっさと立ち去りな! シッシッ!」と、モリータが、左手で、払った。
「俺も、はい、そうですかって、素直に聞き入れる訳にはいかないもんでね」と、ゲラーナが、頭を振った。そして、「係わった以上、中途半端に抜け出せない性格なものでね」と、言葉を続けた。
「ほう。いくら、ウルフ族と言えども、法を遵守する役人に楯突くという意味くらいは、分かっているんだろうな?」と、モリータが、問い質した。
「ああ」と、ゲラーナが、すんなりと頷いた。そして、「まあ、ちゃんとした役人ならば、説得力は有るが、お前のようなクズが、役人とは、片腹痛いんだがな」と、補足した。
「い、今のは、侮辱だ! 名誉毀損だっ!」と、モリータが、がなった。
「おいおい。何を言っているんだ? お前みたいなクズが、役人と名乗っている時点で、役人の地位を貶めているんだぜ」と、ゲラーナが、冷ややかに、指摘した。
「うるさい! 俺様を虚仮にした事を、後悔させてやるっ!」と、モリータが、右手で、剣を抜いた。そして、振り上げるなり、「お前は、ここで、斬り捨ててやるっ!」と、問答無用で、振り下ろした。
一瞬後、「何の!」と、ゲラーナが、微動だにせずに、真っ向から、白刃取りで、刀身を受け止めた。そして、「お前、弱い奴しか相手にしていないから、剣の腕が、からっきしだな」と、告げた。
「な、何をっ!」と、モリータが、剥きになった。その直後、引き抜く動作を始めた。しかし、びくともしなかった。
「そんなへっぴり腰で、どうするんだ?」と、ゲラーナが、余裕綽々と言うように、冷やかした。
「ぐぬぬぬ!」と、モリータが、力んだ。だが、抜ける気配など、微塵も、感じられなかった。
「威勢が良いのは、口だけだなぁ〜」と、ゲラーナが、溜め息を吐いた。そして、「ほらよ!」と、放した。
次の瞬間、「うわっ!」と、モリータが、尻餅を突いた。その弾みで、剣を放り上げた。
少しして、ゲオは、半歩手前へ、剣が突き刺ささるなり、「ひっ!」と、小さな悲鳴を発した。まさか、ここまで飛来するとは、思いもしなかったからだ。
その直後、「おっさん! 無事か?」と、ゲラーナに、心配された。
「だ、大丈夫です…」と、ゲオは、弱々しく即答した。取り敢えず、怪我は無いからだ。
「そうか」と、ゲラーナが、承知した。そして、「御役人さん。まだ、俺とやり合うかい?」と、問うた。
「くそっ! 覚えてろっ!」と、モリータが、瞬く間に立ち上がり、背を向けて、駆け出した。間も無く、闇に溶け込んだ。
「けっ! 何が、覚えてろだっ!」と、ゲラーナが、口にした。そして、「まんま、悪党だな」と、言葉を続けた。
その間に、ゲオは、ゲラーナへ歩み寄った。間も無く、「ゲラーナさん、危ういところを、ありがとうございます…」と、礼を述べた。そして、「どのような御礼をしたら、宜しいでしょうか?」と、尋ねた。何であれ、恩人に変わりないからだ。
「そうだな。あんた、弱そうだし、俺を用心棒として、雇うってのは、どうだ?」と、ゲラーナが、売り込んで来た。
「そうですねぇ。腕の立つ方ですので、構いませんよ」と、ゲオは、快諾した。ゲラーナの実力は、文句無しだからだ。そして、「でも、私は、これから、密航するんですけど、構いませんか?」と、打ち明けた。一応、是非は、聞いておく必要があるからだ。
「密航かぁ〜。その様子だと、あんた、何かをやらかして、追われていたって事か…?」と、ゲラーナが、興味津々に、問うた。
その刹那、「と、とんでもない! あなたが思っているような悪い事なんて、やっていませんよ!」と、ゲオは、慌てて、否定した。身辺の整理をしていただけだからだ。
「だろうな」と、ゲラーナが、含み笑いをした。そして、「あんたの密航を手伝ってやるから、安心しな」と、言葉を続けた。
その瞬間、ゲオは、安堵した。これで、味方だと確定したからだ。
「で、これから、何処へ?」と、ゲラーナが、尋ねた。
「私の仲間が、この先の酒場へ居る筈です」と、ゲオは、左手で、市場の方を指した。店の名は、忘れたが、この先に在ると聞かされているだけだからだ。
「そうか。まあ、下っ端は、大変だな。仲間を逃がす為に、捨て石にならなきゃならないんだからな」と、ゲラーナが、気の毒がった。
「ははは…」と、ゲオは、苦笑した。立場が、逆だからだ。
間も無く、二人は、市場の方へ、歩を進めるのだった。