四、くれてやりゃあ!
四、くれてやりゃあ!
丸顔の男は、店の真向かいに在る詰め所を訪れていた。そして、戸口から、「御役人さぁ~ん」と、呼び掛けた。
少しして、「何用だぁ?」と、奥から、野太い声がして来た。やがて、巨漢の役人が現れた。そして、「お、あんたか…」と、笑みを浮かべた。
「ゲオさんの用事で、ちょっと…」と、丸顔の男は、声を低くした。通りすがりの他人の目が、些か、気になるからだ。
「何だか、理由有りのようだな。入んな」と、巨漢の役人が、首を右へ振って、促した。そして、踵を返した。
「は、はい…」と、丸顔の男も、応じた。そして、そそくさと、歩を進めた。間も無く、仮眠室へ通された。
「で、ゲオさんの用事って、何だい?」と、巨漢の役人が、問い掛けた。
「例のアヴェ・ンダの件で…」と、丸顔の男は、恭しく返答した。そして、「これを…」と、三柱分の銅貨を差し出した。この機会しか無いと思ったからだ。
「おいおい…。賄賂は、困るぜ…」と、巨漢の役人が、眉根を寄せながらも、口元を綻ばせた。そして、「俺は、仕事をしたまでの事なんだしよ…」と、口にした。
「いえ。これは、雌犬から受けた怪我の治療費として、御使い下さい」と、丸顔の男は、理由を述べた。これならば、受け取って貰えると思ったからだ。
「特に、怪我なんてしてないぜ。それに、労災保険ってのも有るし、そのお金は、ちょっとな…」と、巨漢の役人が、渋った。
そこへ、「お前、どうして、留置場へ、アヴェ・ンダさんが、入っているんだ!」と、白髪混じりの短髪の間抜け顔の役人が、怒鳴り込んで来た。
巨漢の役人が、振り返り、「あの方は、自分の公務の執行を妨害しましたので、留置場へ入牢させたのであります!」と、即答した。
「は? アヴェ・ンダさんが、そのような事をする筈が無いだろう! お前、上司の俺に、逆らう気か?」と、間抜け顔の役人が、睨みを利かせながら、凄んだ。
「い、いえ! 自分は、そんなつもりは…」と、巨漢の役人が、否定した。
「御役人さんの言っている事は、事実ですよ!」と、丸顔の男は、口を挟んだ。見て居られないからだ。
「ああん? 部外者は、黙ってて貰おうか?」と、間抜け顔の役人が、高圧的に言った。そして、「てめえ! 何者だ?」と、問うた。
「俺は、アヴェ・ンダの所で、こき使われていた元使用人だよっ!」と、丸顔の男も、負けじと睨み返した。ここで、気後れする訳にはいかないからだ。
「生意気な奴だな! ん? 何処かで、見たような気がするな」と、間抜け顔の役人が、眉間に皺を寄せた。
「先刻言ったじゃないですか! 向かいの店の使用人だって…」と、丸顔の男は、溜め息を吐いた。間を置かずに、同じ事を言わされるのは、少々、しんどいからだ。
「本当か?」と、間抜け顔の役人が、怪訝な顔をした。
「本当だよ!」と、丸顔の男は、不快感を露にした。嘘はついていないからだ。
「そうですよ。この男は、向かいの店の使用人ですよ」と、巨漢の役人も、口添えした。
「はは~ん。さては、アヴェ・ンダさんに、濡れ衣を着せて、店を乗っ取ろうって肚なんだな?」と、間抜け顔の役人が、得意満面に、口にした。
「は? あんた、何を言ってるんだ?」と、丸顔の男は、呆れ顔となった。見当違いも、甚だしいからだ。
「図星だろ?」と、間抜け顔の役人が、ドヤ顔で、確認して来た。
「そう思いたければ、ご自由に」と、丸顔の男は、素っ気無く答えた。思い込みで言っている以上、何を言っても、無駄だからだ。
「じゃあ、乗っ取りを認めるんだな?」と、間抜け顔の役人が、したり顔で、尋ねた。
「明日になれば、判るよ」と、丸顔の男は、無愛想に告げた。いちいち、答えてやる必要は無いからだ。
「ほう。じゃあ、明日まで待ち切れないから、お前が、アヴェ・ンダさんの代わりに、留置場へ入るか?」と、間抜け顔の役人が、示唆した。
「テン・ネーンさん、些か、強引ですよ」と、巨漢の役人が、強い口調で、意見した。
「は? てめえ、誰に口利いてんだ? わしは、お前の上司だぞ!」と、間抜け顔の役人が、逆ギレ気味に、凄んだ。
「上司でしょうが、何でしょうが、現場を見た者から申させて頂きますと、今回の件は、アヴェ・ンダさんが、ゲオさんを泥棒扱いした事が、発端なのです! ですので、自分が、留置場へ入れたのです。この方達は、店を乗っ取る気なんて有りませんよ!」と、巨漢の役人が、弁明した。
「は? 何だって?」と、テン・ネーンが、右手を耳に添えながら、聞こえない振りをした。
「御役人さん、この人、最初から聞く気なんて無いみたいですよ」と、丸顔の男は、溜め息を吐いた。アヴェ・ンダを、無罪放免にする気満々だからだ。
「どうする? アヴェ・ンダさんを釈放して、甘い汁を吸わせて貰うか、このまま、役人を解雇にされて、底辺として生きるか?」と、テン・ネーンが、巨漢の役人へ、勝ち誇るように、尋ねた。
巨漢の役人が、腕組みをした。そして、目を瞑り、沈思黙考を始めた。
「ふん。どうせ、答えは決まっておるのにな」と、テン・ネーンが、ぼやいた。
「くっ…!」と、丸顔の男は、歯噛みした。自分等よりも、アヴェ・ンダ側へ付いた方に、利が有るからだ。
「ああ、そうだな」と、巨漢の役人が、相槌を打った。
「じゃあ、アヴェ・ンダさんを釈放しろ」と、テン・ネーンが、満面の笑みを浮かべながら、指示した。
その直後、巨漢の役人が、テン・ネーンの前へ歩を進めるなり、右腕を振り上げた。
「こ、これは、何の真似だ?」と、テン・ネーンが、怪訝な顔で、問うた。そして、「まさか、上司に、手を上げようって言うんじゃないだろうな?」と、言葉を続けた。
「そうだよっ!」と、巨漢の役人が、間髪容れすに、斜めに振り下ろした。その刹那、テン・ネーンの顔面をまともに捉えた。
次の瞬間、「ぐあっ!」と、テン・ネーンが、薙ぎ倒された。
「へ! これで、俺も踏ん切りが付いたぜ!」と、巨漢の役人が、吐き捨てるように言った。
「い、良いんですか?」と、丸顔の男は、面食らった顔をした。タダでは済まない事は、必至だからだ。
「気にしないでくれ。どのみち、俺は、こいつをぶん殴っていただろうからよ。早いか、遅いかの違いだって事さ」と、巨漢の役人が、背を向けたままで、語った。そして、「さっさとズラかろうぜ。正気に戻られると、面倒だからな」と、提言した。
「は、はい」と、丸顔の男も、同意した。足止めを食らうと、後々の行動に、支障を来す虞が有るからだ。
「あんた、持って来た金を、こいつに恵んでやってくれないか?」と、巨漢の役人が、申し出た。
「え? こんな奴に…ですかぁ~?」と、丸顔の男は、渋った。勿体無い気がするからだ。
「へ、すまねぇな。わざわさ、俺の為に持って来てくれたのによ」と、巨漢の役人が、詫びた。
「いや、俺の気持ちとしては、ゲオさんの使いを果たせずに事を終わらせるのが、少々、引っ掛かるんですよ」と、丸顔の男は、理由を述べた。本来の用件から逸れているような気がするからた。
「なるほど。筋が通らねえって事なんだな?」と、巨漢の役人が、理解を示した。そして、「じゃあ、俺が受け取りゃあ、済むって事だな?」と、問い返した。
「え、ええ…」と、丸顔の男は、頷いた。それならば、筋道が立つからだ。
「そうか…」と、巨漢の役人が、振り返った。そして、「持って来た金を受け取るとしよう」と、右手を差し出した。
「は、はい」と、丸顔の男も、歩み寄り、「どうぞ」と、銅貨を乗せた。
間も無く、巨漢の役人が、握り締めるなり、テン・ネーンへ、向き直った。そして、しゃがみ込むなり、「くれてやりゃあ!」と、口の中へ、銅貨を詰め込んだ。
丸顔の男は、唖然となった。ここまでやるとは、思いもしなかったからだ。
少しして、巨漢の役人が、立ち上がり、向き直った。そして、「一応、あんたも、俺も、筋を通したから、さっさと出るとしよう」と、提言した。
「そうだな。でも、アヴェ・ンダも連れて行こうぜ。俺らが去って、あいつが無罪放免なのも、気に入らないからな」と、丸顔の男は、憎々しげに言った。残して置いても、ろくな事にならないだろうからだ。
「そうだな。いざとなりゃあ、売り飛ばせば良いんだからな」と、巨漢の役人も、賛同した。
少しして、二人は、退室するのだった。