8.レクト5
「あなたは覚えていないでしょうけど。月に二回は、眠らされて研究所に運ばれていたのよ。あなたを眠らせるのはロスタネスの役目だった。なかなか大変だと言ってたわ。あなたはどんな薬も二度目には効かなくなるから」
「!」
シンカが拳を握り締めた。
「あなたが思うほど、ロスタネスはいい母親じゃなかったわ!」
少年は睨み付けた。涙がこぼれている。
「それでもいいんだ。母さんのことだって、レクトのことだって、俺の中では、いまだに母さんと父さんなんだ。それでいいんだ。誰かが話してくれる真実なんかより、俺は自分の気持ちを信じるんだ!」
シンカは涙をぬぐいもせず、目の前の赤毛の女性を見つめていた。
「俺は、母さんのこと好きだったし、父さん、レクトのことやっぱり好きなんだ。誰かにあいつは悪い奴だとかいわれたって、嫌いになんかなれない!お父さんじゃないんだから嫌いになれって言うほうが、おかしいだろ!」
シンカの視線はまっすぐに、赤毛の女性を見つめていた。
先に目をそらしたのはセイ・リンだった。
「そう、ね。ごめんね。私にもその強さがあったら……」
ダンの事を誤解などしなかった。
ダンから身を引いたのも、いつの間にか嫌っていたことも、すべて自分がしたことだと、セイ・リンにも分かっている。ダンのことを信じ切れなかった、それだけだと。
美しい赤毛の女性は、一つため息をつくと、今度はやさしく言った。
「でも、本当に、地球に連れて行かれちゃうわよ?」
「……仲間に、会いたい」
そこで、シンカは涙をぬぐった。
「二人に会いたいんだ」
「分かったわ。行きましょう」
セイ・リンは、シンカが使ったナイフとフォークを拭いて、ナイフをシンカに持たせる。窓のスクリーンをフォークで器用にはずすと、薄くて硬いそれを割った。
破片に、破ったシーツを巻きつけ懐にしのばせる。
「そこはだめなの?」
シンカが窓をさす。
高い場所ではない。すぐ、地面が見える。
「だめよ。強化ガラスだからね。しかも、センサー付き。殴っただけで警報が鳴るわよ」
「ふうん」
さすがだな。軍人なんだもんな。
シンカも、気を引き締める。
泣いている場合ではない。
「いい?敵に遭遇したらレーザー銃を奪うこと。さっき、観察したところでは、あまり見張りはいないわ。このスクリーンの破片はレーザー銃を通さないの。胸のところにつけておくのね」
破片をもらう。薄いけれど思った以上にしなるし、硬い。
シンカは動きにくい長袖を破り取る。
その袖に破片をいれて両側を縛ると、服の下から胸にあたるように巻きつけて縛る。
セイ・リンが、ブザーを鳴らし人を呼んだ。
「私についてきて。走るのがきつかったら、ちゃんと言うのよ」
「了解」
扉の両脇に分かれて隠れ、うなずくシンカ。
足音が近づいてくる。
用事を聞きに来た兵士は、あっけなくセイ・リンの膝蹴りの餌食になった。
セイ・リンは、兵士から銃を奪うと構え、ドアの外をうかがう。
さっと飛び出していく。シンカも後を追う。
走るたびに、手足のけだるさが増す。
重力が強いってこんなに違うんだ。シンカはつくづく、環境の違いを感じる。こんなに重いところで軍人やっているんだから、セイ・リンの足が速いのは当然だ。
あの時も後をついて走った。
研究所でのことをふと、思い出す。あの、いやな薬の感覚と哀しくて恐ろしい感情が、ふと脳裏によぎる。ざわと肌が引きしまる。
部屋の外は廊下になっていて、そこを突っ切ると、施設のエントランスらしいところにでた。
案外、誰もいない。
入り口の警備は、さすがに厳しそうだったが、セイ・リンが詰め所の横においてあった、二輪の乗り物をそっと奪って、シンカが、兵の注意を引いている隙に、ゲートを開けた。
シンカを後ろに乗せて、走り去る。
途中、黒い大きな乗り物とすれ違った。中に、医者らしき老人と、レクトがいた。
レクトが、驚いてこちらを見ていた。
あっという間に小さくなって、見えなくなる。
シンカたちが、オリジナルパイプに到着したときには、すでに、薄暗くなっていた。
人工の光なのだが、人間の生態パターンとして、やはり昼と夜は必要らしい。日が昇って十二時間で落ちるようになっているのよ。
と、セイ・リンが、説明してくれた。少し涼しい風が吹く。
パイプ内は、乗り物は禁止されている。パイプ自体が繊細な精密機械でできているためだ。丸い筒状の天井の一番上から、絶えず空気調整の風が流れている。
ここで、細菌やウイルスの消毒もいっしょにされるのだという。
二人は、黙ったまま歩きつづける。
シンカは息が切れてつらいが、泣き言は言っていられない。
真ん中のフィルタールームに到着する。扉の中に入ると、背後の扉が閉まる。[マスクを装着してください]と声がして、通路の側面にある、黒い棚が開いた。
青いランプが点滅する。中に、何か小さい機械のようなものがある。
「シンカ、あなたもこれをつけたほうがいいわ。」
「何?」
「今までいたところは、リュードやリドラと同じ大気成分だったの。ここから先は、地球基準の大気だから、調子を崩す可能性があるわ。だから、これをつけておくの。」
「わかった。」
セイ・リンに手伝ってもらって装着する。
正直、何が違うのか想像もできないが。
「行くわよ。」
セイ・リンが前方の扉をあけた。
シンカは目をしばたいた。乾燥しているのか、ちりちりする。
セイ・リンが背後を見て、走り出す。
「急いで!」
シンカが後ろを振り向くと、遠くオリジナルパイプの入り口あたりに数人の人影が見える。
追っ手か。
シンカも、走り出す。
住宅街のような、整った町並みを二人の黒い影が走る。街灯が通りに沿って立ち、ぼんやりと下を照らしている。
コロニーの「夜」は、公共光源がない。太陽アストの光をリュードが遮っている。すぐそばに、青い大きな惑星が見える。リュードだ。
宇宙の濃い闇に、青白いリュード。異様なほど、静かな風景だ。
どれくらい、走ったのだろうか。「夜」には人は出歩かないのか、すれ違うものはいない。
セイ・リンは、商業区のステイマーク(専用の駐車場)に止まっている、トラムに乗り込んだ。
シンカも肩で息をしながら、座席に座り込んだ。四角いその乗り物は、人を大勢乗せるためのものらしく、白い弾力のある金属の椅子が、左右に2列ずつ並んでいる。セイ・リンが運転
席で操作した。かすかに振動を感じる。次にふわりと浮き上がり、静かに夜の町を進みだす。