1.隠された街デイラ 4
「結局、二十イルとられたよ。ちぇっ、残ったら母さんに何か買おうと思ったのに」
シンカは薄暗くなりかけた城壁沿いを、デイラに戻ろうとしていた。言葉とは裏腹に、その顔は嬉しさが隠せない。
俺に会いに来てくれたのかな。
でも、それなら、ユンイラ畑なんか関係ないよな。
「またすぐ、会えるさ」そう言ってくれた。
シンカは夕日の影になりつつある城壁に、とんとんと調子よく登った。ふとレクトと並んで座った瞬間を思い出す。
緩やかな夕方の涼しい風が、いつもなら頬に当たるはずだった。
畑が林の向こうに見える。
「!?なんだ、よ…」
空が赤い。炎を背にし、林は黒いやせたシルエットを見せる。向こう、ユンイラの畑は一面炎に包まれていた。
鼻腔をくすぐるしっとりとした香り。覚えがある。ユンイラが焼けているのだ。ユンイラを燻すと独特の甘い匂いがする。その煙はユンイラの成分を含んで、直接神経に影響するために、吸引すると酔ったようになってしまう。一種の麻薬だ。
「まさか、あいつら、何したんだ!」
畑を囲う石塀はすすで真っ黒になっている。門を護る警備兵が二人、倒れていた。
「!…死んでる」
レクトたち、なのか。
俺が案内したから、だからこんなことになったのか?
ユンイラはこの国の人々には大切なものだ。それをこんな。
シンカはじりじりと熱に火照る頬を両手でぱんぱんと叩くと、一つ息を吐き駆け出した。畑の中、まだレクトたちはいるかもしれない。
いつもなら、黒い布に覆われた日陰で、一面にユンイラの緑の葉が広がっているはずだった。
水と植物。
そんな風に燃えるはずのないそれがまるで石炭のようにゴウゴウと眩しい炎を上げ、シートを溶かし巻き上がる気流にねじれたような煙が白く、黒く立ち昇る。
その前に男が立っていた。
レクトだ。
気付いたのかゆっくりと振り向いた。
炎に照らされた笑顔はぞっとさせた。
「おっさん!何したんだ!」
「おや、ついてるな。探す手間が省けた」
シンカは一歩下がった。
「なに、してるんだよ!」
その間にも、先ほどの男たちが炎を吐き出す大きな銃で、畑を焼き払っている。青い炎がユンイラをなめると、あっという間に白い灰になる。ユンイラを育てるための栄養の入った液体のパイプが焼けただれ、パイプに沿って炎が走る。
焼け落ちた黒い保護布が赤い炎に包まれてぼとぼとと腐ったリンゴのように落ちていく。
男たちは顔にマスクのようなものをしていた。
甘ったるいユンイラの匂いと、炎の熱が胸を苦しくする。
見たことがなかった。そんな武器も、マスクも、彼らの黒い服装も。こんな、炎の海も。
「や、やめろ!」
止めなきゃ、やっと思考が動いてシンカは叫んだ。
男の一人に飛び掛ろうとするシンカの腕をレクトにつかまれた。
「離せよ!大切だって言っただろ!」
「シンカ、君は連れて行くよ。ロスタネスには話がついている」
「なんで、母さんもこのこと知ってるんだ!?あんた、何なんだよ!」
振りほどこうとした瞬間にレクトの圧倒的な腕力を感じて、慌てて膝蹴りを繰り出す。
「おっと」
レクトはにやと笑う。
この男は、こんな時に笑っているのだ。
二歩、後ろに下がると、シンカは目の前の男を睨み付けた。
父さんだと思ったのに。ずっと、そう、思っていたのに。
なんで、こんなことするんだ。
ジンロが後ろで怒鳴る。
「レクトさん。俺は反対っすよ。余計な荷物背負うことになりますよ。皆殺しって命令じゃないっすか」
「皆殺し・・!?」
皆、って?
気付かなかった。
シンカは慌てて石塀の外に飛び出した。
遠く畑の炎の向こう、デイラの町も同じ海に飲み込まれていた。夕闇の中、空に火影を落とし町じゅうが炎に包まれている。空に何か大きな黒い影があって、そこからちかりと光線が延びた。光線が落ちた場所からまた、新たな白い炎が湧き上がる。
「母さん!」
駆け戻ろうとするシンカの背後を、ジンロが追う。
「ジンロ、殺すな!」
「だめっすよ、レクトさん」
シンカは懸命に坂道を走っていた。家までの近道を、小さな川の石橋を渡ろうとする。
乾燥した熱風に喉が焼け付き、痛む。煙なのか視界は白く濁っている。
と、急に視界が回転した。
背中が熱かった。
石畳に頬がすれ、丸くなった自分の背後に男を見た。
ジンロと呼ばれていた男だ。
けふ、とむせ、体が動かないことを悟った。
シンカはぼやける視界で、デイラの最後をまぶたに焼き付けた。