3.Roland(Layer:1 Main Story)
ラーツケラーを出たときには、すでに夜が更けていた。
雲間からのぞく月の光が、マルクト広場を青白く照らしていた。
ツヴァイにふられてから、ずいぶん深酒をしてしまった。酔いで視界が歪んでいるし、足元もふらついている。
今日はついていない。早く帰って、さっさと寝てしまおう。
そう思って足を踏み出したとき、オルランドの視界の片隅で、オレンジ色のものが揺れた。
油が燃えるような匂いが鼻をつく。
なにが起きているのか、すぐには理解できなかった。
広場の真ん中で、人の形をしたものが、紅蓮の炎に包まれていた。
目をこすってよく見ると、燃えているのはローラント像だった。そしてその傍らには、松明を掲げたゼルトナー司教の姿があった。
「なにをしているっ」
叫び声を上げたオルランドに、ゼルトナー司教はゆっくりと顔を向けた。松明の火に照らされたその顔には、醜く歪んだ笑みが貼りついていた。
ゼルトナー司教の背後で、剣を掲げたローラント像の腕が焼け落ちた。
オルランドはふらつく足で、ゼルトナー司教に詰め寄る。
「この野郎。こんなことをして、ただで済むと思うな」
そう言い切った途端、腹に衝撃とともに激痛が走った。
あざ笑うような笑顔を浮かべて、ゼルトナー司教はメイスをオルランドの鳩尾に突き立てていた。
息が詰まり、気が遠くなる。
そのままなすすべもなく、膝から石畳に崩れ落ちた。
「昼間の青二才か。少しばかり口が立って金が稼げるようだが、それだけだ。このくだらない像と同じで、なんの力もない」
ゼルトナー司教が燃える像をメイスで抉る度に、火の粉とともにばらばらと破片が落ちる。
「や、やめろ」
オルランドが必死で伸ばした腕が、メイスの端をかろうじて掴んだ。
「汚らわしい手で、神聖な牧杖に触れおって。この儂に恥をかかせた罪とともに、今ここで償わせてやる……」
メイスの柄頭が、再びオルランドに向けられた。
ローラント像の上半身が盾とともに焼け落ち、オレンジの火の粉が石畳に撒き散らされた。
――やられる。
オルランドは、思わず目を閉じた。
祈るべき神の名前は、思い浮かぶはずもなかった。
だがメイスがオルランドを襲うことはなかった。
恐る恐る開けた目が、ゼルトナー司教の前に立ちふさがるツヴァイの姿を捉えた。
体格の差は、大人と子どもほどもある。
しかし、気圧された様子もないツヴァイの立ち姿は、どこか涼やかで凛としていた。
「無抵抗の者を嬲るとは、見下げ果てたものだな。おまえ、それでも聖職者か?」
クリスタルガラスのように繊細な声だが、その言葉には逆らうことを許さないような迫力があった。
だがゼルトナー司教は、幾多の戦場を渡り歩いてきた男だった。小柄な女からの圧力など、意にも介さぬように高らかに笑った。
メイスの柄頭が、ツヴァイに突き付けられる。
「巡礼の女ごときが、司教であるこの儂を侮辱するなど、礼儀知らずも甚だしいな。すこし痛い目にあった方が、身のためであろう」
ツヴァイの身体が、わずかに身じろぎしたように見えた。
そして……。
「下郎が……」
低く呟くような、そして、身も凍るような声が聞こえた。
「Durandal、Entriegelung」
次の瞬間。
灰色のローブが、ふわりと宙を舞った。
白銀の輝きが、残光となって一筋の軌跡を描き――。
満月を刺すように振り上げられたツヴァイの右手には、一振りの剣が握られていた。
どさりと重い音を立てて、ゼルトナー司教が石畳に倒れる。
青緑の蛍光を発するツヴァイの剣は、まるで月の光に溶けるように、その姿を霧散させて消えた。
オルランドの目が、ツヴァイに釘付けになる。
『あまり人に見せたい容姿じゃないの』
それはそうだろう。この姿を見られたら、騒ぎにならないはずがない。
黒いドレスの背中で、艶やかな白い髪が揺れている。
アンティークドールを思わせるほどに整いすぎた顔のなかで、見開かれた双眸は氷のような青と炎のような赤だった。
オルランドは、口に溜まった唾をごくりと飲み込む。
かの者は、神の使いか、悪魔の化身か……。
「大丈夫?」
優しげな声とともに、細くて白い手が差し伸べられる。ためらいながら触れたその手は、すこし冷たくて柔らかかった。
倒れたゼルトナー司教は、二つに斬られたメイスを手にしたまま、ぴくりとも動かない。呆然と見開かれた目に光はなく、口からは白い泡を吹いている。
「あいつは、死んだのか?」
「気を失っているだけよ」
「姿を見られたくなかったんだろう? なぜ、俺を助けてくれたんだ」
「『オルランド』は、私たちの言葉では『ローラン』というの。それに……」
ツヴァイは青と赤の瞳を焼け落ちた像に向けた。その横顔に悲しげな翳りが差す。
「アインス……いえ、アンジェリカが愛した人だったから」
ささやくようなツヴァイの言葉は、聞き取りにくかった。いずれにせよ、深く追求すべきことではなさそうだ。
「そうか……。ともかく礼を言うよ。けど、君の剣は折れてしまったみたいだな。よければ、新しい剣を贈らせてくれ。腕のいい鍛冶屋を知っているんだ」
口元にわずかな笑みをたたえて、ツヴァイは剣の柄を差し出した。
精巧な金細工が施された柄には、鍔もなければ、刀身を差し込む穴もなかった。それは剣の柄というよりも、儀式に使う祭具のようだった。
あたり見回しても、折れた剣の欠片すらなかった。
「気にしなくていいわ。この剣は、もとからこういう物なの」
柄をポシェットにしまったツヴァイは、ローブを被ると「じゃあね」と言って背を向けた。
オルランドは、慌てて声をかける。
「待ってくれ。これから、どうするんだい?」
「あてがある訳じゃないけど、この国の都にでも行ってみようかしら」
「それなら、俺の従弟の訪ねてくれ。フリッツ・ヘルマンといって、国王の親衛隊長をしているんだ。君を親衛隊員に推薦するよう、紹介状を書いておくよ」
騎士なら誰もが喜ぶはずの提案に、けれどツヴァイは首を横に振った。
「誰かに仕えるつもりはないの。私の自由は、戦って掴みとるしかないから」
それでは自分の気が済まないと言い募るオルランドに、ツヴァイは苦笑しながら「それなら」と言った。
「あなたの店の者だという書付をくれないかしら。巡礼者を装うより、なにかと都合が良さそうだから」
「そんなもので良ければ、喜んで書くよ。けどその代わり、ヴェーザーマルシュに寄ることがあったら、必ず俺を訪ねてくれ。店員なら、店主に報告する義務があるからね」
そうね、と呟いて、ツヴァイは右手の人差し指を口元に添えた。
「いつどうなるか分からない身だから、約束はできないわよ」
「それでもいい。また会える日を楽しみにしているよ。……じゃあ、君のフルネームを教えてくれるかい」
ツヴァイは、宝石のような瞳をオルランドに向けると、胸を張った。
「セシル・ディ・エーデルワイス・エリザベート=ツヴァイ・ブリュンヒルデ・フォン・フランク」
「フォン・フランク? 君は貴族だったのか。けど……聞いたことのない称号だな」
首を捻るオルランドに、ツヴァイは口元を緩めて目を伏せた。
「かつて、このあたりはひとつの王国だったの。今はもう歴史の彼方に消えた、いにしえの大王国……。その名前よ」
ツヴァイを見送ったオルランドは、あらためて焼け落ちたローラント像を見やった。
そして倒れたままのゼルトナー司教を睨みつけたあと、天を突くようにそびえる教会の尖塔を見上げ、そして誇らしげにたたずむ市庁舎を見据えた。
ツヴァイの語った言葉が、耳に甦る。
『籠の鳥は安全だけど、自由じゃない』
『誰かに仕えるつもりはない。自由は戦って掴みとるしかない』
自治が許されてきた俺たちは、自由であると思っていた。しかし実際は、領主や代官の顔色を見なければならなかった。
――それでも、自由だと言えるのか。
オルランドは、目を閉じて考える。
ゼルトナー司教やヴァリエラ公爵の持つ力――軍事力は、あまりに強大だ。 ツヴァイやローラントならともかく、自分たちでは太刀打ちできるはずもない。
彼らの力に対抗できる力は、俺たちにはないのか……。
いや、ある。
オルランドは、それに思い至った。
俺たちには、商売で積み重ねてきた経済力や交渉力、そして人脈を作る力があるじゃないか。
それらを活かして、代官や領主ではなく国王に繋がりを持てばいい。下情にも通じるという国王レオポルド二世ならば、俺たちの言葉にも耳を傾けてくれるにちがいない。
その翌日、オルランドは王都にいる従弟に手紙を書いた。
国王への直訴は叶わなかったが、従弟の口利きで王国の中枢部に有力な伝手を得ることができた。
それからひと月ほど過ぎたころ、ヴァリエラ公爵は関税引き上げの命令を撤回した。聞けば、国王レオポルド二世からの、じきじきの説得があったという。
再度招集されたハンザ会議では、ゼルトナー司教の反対を押し切って、焼け落ちたローラント像の再建が決定された。
市庁舎の落成に間に合うように、ローラント像の建造は急ピッチで行われた。
大聖堂を見据えるように建てられたローラント像は、以前のものよりひとまわり大きかった。
それは、火に焼けることもなく、暴力に倒れることもなく、そして歳月に朽ちることもない、強固な石の像だった。
その盾にも、やはりこの言葉が彫り込まれていた。
「我、民に示したるは自由なり」
1405年5月
Good Day of WeserMalsch




