2.Ratskeller(Layer:1 Main Story)
その夜、オルランドは建設中の市庁舎の地下にあるレストラン、「ヴェーザー・ラーツケラー」で夕食をとることにした。
嫌な気分を変えるには、旨い料理とワインがいちばんだ。
庁舎の竣工に先立って営業を始めたラーツケラーは、市営のワイン倉を兼ねたレストランだ。
伝統料理を中心としたメニューも豊富だが、なんといっても備蓄されたワインの種類と量が圧倒的だった。グランドロンやルーヴランのワインだけでなく、ケールム・アルバ山脈の南にあるセンヴリ王国産のワインまで取り揃えている。
アーチを連ねた天井の下に広がる薄暗い店内には、オルランドと目的を同じくするのであろう多くの客があふれていた。
いつも混んでいるので、相席はあたりまえだった。
案内されたテーブルにいる先客を見て、オルランドはめぐり合わせのようなものを感じた。
灰色のフードを目深に被った小柄な人物は、昼間にマルクト広場で見かけた巡礼者だった。
ワインと料理を注文したあと、オルランドは「グーテンナハト」と声をかけた。
「料理は口に合うかい?」
肉の煮込み料理をつついていた巡礼者は、カトラリーをきちんと揃えて置くと、「ええ」と答えた。
「このザウアーブラーテンは気に入ったわ。肉をもう少し深くマリネしてあれば、文句なしね」
ワイングラスに手を伸ばした彼女のローブが、ゆったりと揺れる。薄汚れてはいるが、厚手の柔らかそうな布地で、上等な部類に入る外套だった。
旅の者にありがちな悪臭も、まったくしなかった。
――意外と、身分のある人かもしれない。
オルランドは、彼女の正体に興味が湧いてきた。
「俺はオルランド・ヘルマンというんだ。この街では、すこしは名前の知れた商人だよ」
「オルランド……」
彼女は驚いたように口を開けていたが、やがて呟くように続けた。
「センヴリ語で、――か」
彼女の声は小さくて、聞き取れなかったところもあった。だがその内容よりも、センヴリ語という言葉が出たことにオルランドは驚いた。
彼女が喋っているのは綺麗なグランドロン語だが、おそらく他国の言葉にも通じているのだろう。しかも名前を聞いただけでどこの国の者かわかるとは、かなり高等な教育を受けたに違いない。
「よくわかったな。母がセンヴリ領トリネア侯国の出身なんだ。君の名は?」
「ツヴァイ」
彼女が口にしたのは、数字の二を表す古い言葉だった。
「変わった名前だな。ところで、昼間にローラント像を見ていただろう。まるで、彼を知っているような口ぶりだったが」
「ええ、よく知っているわ。あの人は、大帝シャルルに仕えた十二人の聖騎士のなかでも、最も強く優しい男だったから……」
ワインを一口飲んだツヴァイは、ゆっくりと語り始めた。
*
かつて大陸の西側は、異教徒であるサラセン人が支配していて、多くの国があった。
サラセン人の王のひとりマルシルは、不可侵の不文律を破って聖地を占領し、神から遣わされた「御使い」と「不滅の剣」を自分のものとした。
それを知った大帝シャルルは、パラディンの筆頭騎士ローランに軍勢を預けて征伐に向かわせた。
ローランの軍は連戦に連勝を重ねて、マルシル王を降伏させた。そして「御使い」と「不滅の剣」を奪還した。
すぐに都に凱旋するものと、遠征軍の皆が思った。
だが、ローランは「御使い」とともに、サラセンの地にとどまり続けた。
「御使い」は、この世の者とも思えない美しい女性で、ローランに『自由がほしい』と願ったのだ。
「御使い」の願いとシャルル大帝への忠誠の板挟みになったローランの元に、都から帰還を促す使者がやってきた。
「大帝の命令に逆らうことなどできない。さりとて都に戻れば、大帝は『御使い』を虜とし、自由など与えないだろう。私はどうするべきなのか」
これを聞いたマルシル王は、ローランに耳打ちをした。
「私の娘を一人、あなた様に差し上げます。『御使い』とすり替え、大帝に差し出されればよろしかろう。その代わり、私を都に伴い、領地の半分を残してもらえるよう、大帝にお口添えして下され。事が成れば、本物の『御使い』をどうなさるかは、あなた様の自由ということです」
この提案に、ローランは飛びついた。
ローランはマルシル王とともに、都に向けて出発した。
一行が険しいロンズヴォー峠にさしかかったとき、まるで狙いすましていたかのように、サラセンの連合軍が襲いかかった。
十倍を超える軍勢に包囲されたローランのもとに、マルシル王から降伏を促す使者が来た。
「『御使い』と『不滅の剣』を差し出すなら、命だけは助けよう」
すべては、マルシル王の狡猾な罠だったのだ。
彼はサラセン人の他の王たちに密使を送り、「御使い」と「不滅の剣」を奪取したあと、シャルル大帝の王国に攻め入る策を練っていたのだ。
まんまと計略に嵌められたことに気づいたローランは怒り、そして自らの浅はかさを悔いた。
パラディンたちはシャルル大帝に援軍を求めることを進言したが、ローランはそれを拒否し戦うことを選んだ。
戦端が開かれると、数で勝るうえに地の利も活かしたマルシル王たちの攻撃に、パラディンたちも兵士たちも次々に討ち取られていった。
「不滅の剣」を手に奮戦するローランだったが、やがて退路を断たれて追い詰められた。
敗北と死を悟ったローランは、憎きマルシル王に渡すくらいならばと、「御使い」を弑し「不滅の剣」を破壊することを決心する。
しかし、どんな武器も「御使い」に傷ひとつつけることができず、どんな手段も「不滅の剣」を刃こぼれひとつさせることができなかった。
絶望したローランは、「不滅の剣」を「御使い」に返し、跪いて首を垂れた。
「御使いよ、貴女を自由にするという誓約を果たせず、貴女を守ることもできませんでした。この愚か者を、どうかお許しください。私は……貴女を愛しておりました」
引き留める「御使い」の言葉を振り切り、ローランは単騎で敵陣に斬り込んで壮絶な最期を遂げた。
嘆き悲しむ「御使い」の言葉を聞いた神は、マルシル王に天罰を下し、数千人の兵士とともに灼熱の炎によって焼き滅ぼしたという。
*
淡々と、しかし淀みなく、ツヴァイは語り終えた。
オルランドが聞き知っている伝説とも、吟遊詩人が歌う叙事詩とも違う悲しい物語だった。だが、まるでツヴァイがその目で見てきたように、その語り口は生き生きとしていた。
「ずいぶん物知りなんだな、君は」
わずかに朱を帯びたツヴァイの頬は、しかしすぐにフードの下に隠れてしまった。
「顔が見えないと、どうにも話しにくいな。フードは外せないのかい?」
はっとしたように、ツヴァイは白くて細い指でフードの縁を引き下げた。
「あまり人に見せたい容姿じゃないの。それに、女の一人旅だから。……わかるでしょ」
ツヴァイが言うとおり、護衛も連れずに若い女が一人で旅をするのは、自殺行為に等しい。よく今まで無事に来られたものだと、オルランドは感心した。
「君は、なぜ旅をしているんだい。危ないことも多いだろうに」
そうね、とわずかに躊躇したあとで、ツヴァイははっきりと言い切った。
「自由でありたいから」
「自由?」
「ええ、そうよ。籠の鳥は安全だけれど、自由じゃないわ。だからね」
「自由……か」
その言葉は、オルランドの心の底にわだかまっていたものを、揺り動かした。
*
裕福な鉄商人の家に生まれたオルランドは、若いころはかなりの放蕩者だった。
家を飛び出し、一人で旅をすることも多かった。
シルヴァやケールム・アルバを越えて行く道は、けして楽なものではなかった。一人旅の者にとっては獣だけでなく、時には人間すらも危険な存在だった。王都の近くで追いはぎに身ぐるみはがされ、従弟の世話になったこともあった。
それでも、初めて見る風景や、人々との出会いには胸が踊った。どこに行くのも、なにをするのも、自由だった。
だが転機は突然にやってきた。
父親が事故死し、図らずも家業を継ぐことになったのだ。
若く、経験もなく、遊びまわっていただけの後継者に、従業員だけでなく同業者ですら先行きを危ぶんだ。
しかし、オルランドは放浪で得た知己と、父親をしのぐ商才を如何なく発揮し、ルーヴランやセンヴリだけでなくカンタリア王国にまで販路を拡大することに成功した。
そして気が付くと、ヴェーザーマルシュでいちばんの鉄商人になっていた。
だが、そうなると組合の役員やらハンザ会議の議員やらという身分や仕事が増えて、どんどん身動きができなくなっていった。
今でもときどき、若いころの旅路を夢で見ることがある。まだ見ぬ地と自由への憧れは、オルランドの心に深く根付いたままだった。
*
オルランドの問わず語りに、ツヴァイは黙って付き合っていた。
「つまらない話を聞かせてしまったかな」
「いいえ、いいの。わたしも、人と話をするのは久しぶりだから。……楽しかったわ」
この人と、もっと語りたいとオルランドは思った。この人のことを、もっと知りたい、と。
「今夜の宿は、決まっているのかい?」
オルランドの問いに、ツヴァイは首を横に振った。
「それなら、俺の家に来るといい」
「あなた、宿屋なの?」
「いや、そうじゃない。でも家は大きくてね。独り者だから、部屋はたくさん余っているんだ」
ひととき呆れたように口を開けていたツヴァイは、やがて盛大に溜息をついた。
「それで一人旅の女を自宅に誘うって、どういうつもりなの」
「君の話を、旅の話を、もっと聞かせて欲しいんだ」
「ベッドの上で、かしら?」
「お望みならね」
薄いピンク色のツヴァイの唇がわずかに動き、ふっと含み笑いが漏れた。
「悪くない話だけど、遠慮しておくわ」
「ベッドでなくてもいいんだが、残念だな。なら、この出会いと君の旅路に乾杯しよう」
オルランドは最高級のワインを追加で注文した。